死にゆくならば/2

 貴増参は優しさの満ちあふれた茶色の瞳で、リョウカのクルミ色の瞳を真摯に見つめ、羽布団みたいな柔らかな声で静かに言った。


「世の中、君みたいな人ばかりでしたら、歴史はまったく違ったかもしれない――」

「え……?」


 リョウカは本当に意味がわからず、まぶたを激しくしばたかせた。


 ここも説明するわけにはいかない。考古学者は地中から、人の闇の応戦をよく見つける。荒んだ心と時代背景を前にして、貴増参は時々手を止めては、遠くの景色を眺め、物思いにふけることがある。


 みんなが望んでいる、誰も悲しまず、発展していく未来が、今目の前にいる巫女ならできるのかもしれない。


 たったひとつの文明だったとしても、そんな過去が残っていたら、その発掘作業は特別なものに変わるだろう。


 それを密かに祈りながら、貴増参は話をそっとすり替えた。


「先ほどの歌を歌っていただけませんか?」

「あぁ、いいですよ」


 リョウカは祈りを捧げるでもなく、ただただ自分の内に浮かび上がった旋律をつなぎ合わせた曲を歌う。


 今は出ていない月を心のスクリーンに映して、大きく息を吐き吸って、吐き出すと同時に、最初から歌い出した。


「♪窓からの秋風が 素肌をくすぐって

 遠く離れた あなたとつながるこの星空


 十六夜に会いましょう 二人きりで

 月影あびながら 今までのこと話して

 あなたと懐かしむ

 約束よ 十六夜に会いましょう♪」


 夜風と高い歌声がくるくると輪舞曲ロンドを踊ると、牢屋でも隠れる場所でもなく、野外音楽堂のステージにでも変わった気がした。


 歌が終わると、黒い筋を引く雨雲が流れてゆくのを眺めたり、虫や風の音に耳を傾け始めた。


 お互いに触れることはなくても、相手の息遣いを聞いたり、同じ話を空間を共有して時は過ぎていった。


 ふたりきりの世界で、侍女がお膳を下げにきたことも、寝床の支度をしたことも気づかないほどだった。


 どちらともなく、あくびをすると、リョウカはシャツとズボンだけの貴増参を心配した。


「何かかぶるものいりますか?」

「僕はこういうことには慣れているので、心配いりません」


 研究に夢中で、服が強風に飛ばされることなどよくある。雨が降ってきたことに気づかず、ずぶ濡れなんてことも何度もあった。貴増参は優男に見えるが、野宿でも何でもできるタフガイである。


 それでも、檻の中という不自由な身を案じで、リョウカは一声かけた。


「何かあったら言ってくださいね」

「お気遣い、ありがとうざいます」


 貴増参が丁寧に頭を下げると、姫は檻の向こうで、生地が安く入手できるようになったお陰で手に入れた毛布をめくり、簡易な床に入った。


「おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 穏やかな一日が無事に終わったみたいに、今日最後のあいさつを交わした。


 また明日も――


 三日間が終わるまでは、月が色づくまでは、姫でもなく不法侵入者でもなく、同じ土器好きで、少ない食料を分け合って、たわいないようで、心に深く刻まれる会話をする。そんな日々が送れるように願って、眠りにつく。


 サーサー……。


 窓の外から雨が横殴りで叩きつける音が、あたりを突如包み込んだ。さっきまでの小康状態が嘘のように、大雨がとうとう地上に君臨した。


 リョウカは高窓を見上げて、表情を曇らせる。


「また雨が降ってきちゃったわね」


 白の巫女はあることを思い出して、持っていた毛布を膝の上にだらっと落とし、首をかしげた。


「そういえば、北の堤防を一昨日、工事し直したって言ってたわよね?」


 二日前の出来事。しかも、やけに鮮明に、リョウカの脳裏に残っている話。


 男の部下が報告に来て、指示を出した普通のやり取りだった。いくつも案件が出てくる日々の仕事に紛れ込んだ、その中のひとつ。


 聞き流していたが、リョウカはそれが今ごろひどく引っかかった。


「それって、壊れてたってことよね? 一週間前に行った時はそんなことなかったけど……」


 大雨が続いて、地盤でも緩み、修理が必要になったのだと、姫は簡単に納得していたが、急に胸騒ぎがして横にはならず、しばらく窓の外を眺めていた。


「大丈夫なのかしら?」


 貴増参は姫の小さな背中の後ろで、思わず瞳を閉じた。


(そちらが嘘だったら……)


 さっき見送った危険だという可能性が、はっきりとした輪郭を描いてゆく予感。


 しばらく考えていたが、疲れてしまったのか、あどけない顔で眠りについた姫の寝顔を、考古学者は見下ろす。


 雨が降っていること以外は、静かで何もない平和な夜。それが崩壊の序曲を踏む――。貴増参の予測した答えでは。


 彼は柵から手をそっと伸ばして、遠くへ行ってしまうかもしれない、栗皮色の髪に触れようとした。この手触りがなくなってしまう前に。


 その時だった。大慌ての侍女が部屋に走りこんできたのは。

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