死にゆくならば/3

 貴増参の手はすっと檻の中へ戻された。


「リョウカさま! 大変でございます!」


 姫は眠たそうな目でも起き上がって、あくび交じりに聞き返した。


「ん、どうしたの? シルレ」


 焦っていて、侍女は口を鯉が餌を求めるがごとくパクパクとするだけで、言葉が出てこない。


「あ、あの……!」


 貴増参が予想した通りのことが起きているのなら、一刻を争う。羽布団のように柔らかだが、重厚感のある落ち着き払った声で聞き返した。


「どうかしたんですか?」

「シルレ、深呼吸して」


 リョウカは侍女の両肩に手を当てて、子供をあやすようにトントンとゆっくり叩いた。


「北の堤防が決壊して、濁流が国になだれ込んで……」


 シルレの言葉を聞いたリョウカが、今度は顔面蒼白になって慌て出す。


「そんな! たみは……どうなったの?」

「それが、みな事前に避難しており、全員無事でございます」


 侍女の話を聞いて、リレインはほっと胸をなでおろしたが、


「はぁ〜、よかった」


 貴増参はそれとは反対に、少しだけ表情を歪めた。


(おかしい……)


 予感が確信の階段を登り始める。誰かがまるで知っていたみたいだ。別の角度から見れば、北の堤防が決壊することを。


 平常を取り戻した侍女は、姫のかぶっていた毛布を端へ寄せて、貴増参に黄色の瞳を向けた。


「まだ逃げていないのは、リョウカさまと……そちらの方だけでございます」

「鍵は?」


 姫の問いかけに、侍女は抜群のタイミングで木の鍵を顔の前に取り出した。


「バッチリでございます!」

「さすがシルレね」


 姫と侍女は両手を、スポーツでファインプレイをしたみたいに、お互いから合わせてパンと鳴らした。


 リョウカは素早く起き上がり、身の回りの品を何も取らず、貴増参に声をかけた。


「とにかく、ここは比較的低い場所にあるから、早く高い場所へ行きましょう」


 このまま放置して、水没させることはたやすくできるだろう。そのためには、黒の巫女側が鍵を持っていけばいいのだ。それなのに、白の巫女の侍女が持ってきて、牢屋の扉は簡単に開いた。


(やはりおかしい……)


 次々に出てくる違和感。だが、濁流は解き放たれ、止めるすべがもうない。しかし、貴増参はあごに手を当てて、のんびり考え込んでいた。リョウカが手を差し伸べて、


「立てますか?」

「えぇ」


 姫の手を取って、貴増参は牢屋の柵をかがみ通り抜け、生き延びることが幸せとは限らないが、大雨の降る夜へ向かって、走り出した。


「こっちです!」


 滑る足元に気をつけながら、降りしきる雨の中、高台へ上がろうとしたが、


 ゴーゴー……。


 地響きのようなうなり声を上げる、濁流が大きな口を開けて、三人の前に立ちはだかった。


「あ……!」


 自分が予想していたよりも大崩壊で、もともと川があったとした思えない、水没した町を目の当たりにして、白の巫女は放心状態になり、貴増参から手を力なく離した。


 茶色の渦を巻く、あの水の下には、民たちの平和で大切な暮らしがあった。


 それが今は何もかもが飲み込まれ、跡形もなく流され消されていた。自然の猛威の前には人はただただ無力でいるしかなかった。


「リョウカさま……」


 侍女がつぶやくと、ふたりはしばらく黙ったまま、雨風にさらされるだけさらされ、服も髪も何もかもがびしょ濡れになってゆくたび、彼女たちに訪れる、最後の審判の時が。


 上に立つ者として、人々の暮らしをいつも見てきた巫女は、やるせない気持ちで唇を強く噛みしめていたが、過去ではなく明日を見つめるように、気持ちを入れ替えた。


「元の生活に戻るには、かなりの時間と労力が必要になるわね」

「はい……」


 天気、疫病、不作。それらを乗り越えて、今の生活があった。それが何もなくなってしまった。民の心は大きい悲しみの渦に飲み込まれているだろう。


 リョウカは胸元の着物を通して、常に肌身隠さず持っているものに触れ、ぎゅっと握りしめた。後悔というものは、いつもあとになってからやって来る。


「もっと私が早く対処してれば、違ったのかもしれない……」

「何事にも意味がございます」


 侍女は姫と視線を合わせず、貴増参の前で、ふたりだけの会話を続けていたが、リョウカが力なくうなずくと、


「そうね……」


 それきり何も言わなくなった。刻々と迫ってくる最後の時をヒシヒシと感じる。


「…………」

「…………」


 濁流と強風のふたつの龍が、縦横無尽に暴れまわる自然の脅威。それでも、巫女と侍女は逃げることもなく、激しい水流に削られ崩れ落ちそうな水際でただ立ち尽くす。

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