第22話・ぼくたちは、家族だから
「ふわぁぁぁ……」
などと、まるで魂まで一緒に吐き出しかねないほど気の抜けた声が漏れる口。
「ふへあえあぁぁぁ……」
適温のお湯にじんわり解きほぐされていく足腰や肩回りの筋肉。
心身ともに疲労困憊であった啓次は、命の洗濯という言葉の意味を文字通り体感しつつ、どっぷりと深く湯に浸る。
『たくさん汗をかいたでしょう?どうぞお風呂に入ってきてください』
カフェでの休憩後もモールを回り、遅めの昼食を済ませてから帰宅した啓次と巡莉。
荷物をリビングに置き、啓次の手足がやっと人心地ついたタイミングで巡莉は彼に入浴をすすめた。
空調の利いたショッピングモールならばいざ知らず、大量の荷物を抱えたまま晴天の空の下にさらされた啓次だ。
帰宅するまで電車と徒歩、合わせて数十分の道のりだけで汗だくになっていたため、シャワーでも浴びてスッキリしたいとちょうど思っていたところ、彼女の提案は願ったり叶ったりであった。
「帰宅時間にちょうど沸くようお風呂を溜めておいたなんて準備がいいなぁ。なんか入浴剤まで入ってるし。……デートだなんて誘い方しておきながら最初から僕を使い潰す気満々だったんじゃなかろうか……うん、ま、まぁ、いいか……うん……」
兄嫁が柔和な笑みの下で張り巡らせていたであろう計略について色々と考えそうになるが、啓次はうっすらと桃色がさしたお湯で顔を洗ってそれを誤魔化す。
「そうだ……デートなんかじゃないんだ、あれは……」
その変わりとばかりに彼の脳裏をかすめるのは、今日半日あまりの総括だった。
確かに、何も事情を知らない者たちの目から見れば、二人の姿はきっと仲睦まじいカップルが週末のショッピングデートをしているように映ったであろう。
なにせ女性側の方がこれでもかというくらいに幸せそうであったのだ。
啓次に似合うのではないかと何枚も服を持って来ては着せ替えさせたアパレル店でも。
ワインの試飲で自分が口をつけた紙コップをわざわざ啓次に回そうとする時のリカーショップでも。
ウキウキとした心持を隠すことなく巡莉が全身全霊で辺りに振りまく陽気にあてられて、誰もがほっこりとした笑みを浮かべて二人を眺めていた。
愛する彼氏との久しぶりのお出かけに彼女がはしゃいでいる、そんなありきたりで、とても幸福な風景の一つとして……。
―― け~いじさぁん♡ ――
「ああ、もうっ……(ジャブジャブ!!)」
そう、何より人々の勘違いを助長させたのは、今まさに啓次が必死でかき消そうとしている巡莉の可愛らしさに他ならなかった。
普段からただの立ち姿だけで見る者をハッとさせるほどの清楚系美人である巡莉なのだが、その日の彼女を形容するには、やはり『可愛い』が相応しい。
跳ねるような歩みに合わせてフワリ軽やかに舞い踊る長く艶やかな黒い髪。
星でも瞬いているかのようにキラキラ煌めく大きな瞳。
喜び、驚き、また喜ぶごとにコロコロ変わっていく表情。
そんな彼女が一心に見つめ、愛おし気に呼びかける男が、恋人でなくなんであろう。
無邪気さや悪戯っぽさなど、一緒に生活をしていく中で兄嫁に意外と子供っぽい一面があることは啓次も既に知っていた。
しかし、あのショッピングモール内で彼女が醸し出していた、まるで草原を駆ける無垢な少女のような透明感はついぞ見たことがなかった。
「このタイミングであれはズルいよなぁ……」
『デートをしましょうか?』という言葉で幕を開けてしまったばかりに、啓次は随分と身構えてこの買い物に臨んでいた。
ニッコリと彼女に笑いかけられる度に高鳴った胸の鼓動を意識しないように。
彼女から投げかけられる言葉のイチイチに、言葉以上の意味を与えないように。
何故なら、これはもう終わった恋。
その疼きも、その愛しさも、そのトキメキも……。
すべては昨晩、ようやく捨て去ることのできた恋心があった場所に走る幻肢痛のようなものなのだから、と。
「……大丈夫、大丈夫。あれはデートじゃない。あれはただ姉と弟が買い物に出かけただけ。兄さんへのプレゼントを買うついでにプラプラしていただけ。ただそれだけだ……」
啓次は風呂に浸かりながら固く目を瞑り、そう呟く。
自分に言い聞かせるような調子になってしまうことをどうか許して欲しい。
巡莉と出会い、そして叶わぬ恋に落ちてしまったあのゴールデンウイークからもうすぐ三年。
啓次にとってあの初恋は自分を大いに悩ませ、だからこそ思春期の人格形成に強く影響を与えて成長させてくれた、特別なものだった。
壮大な遠回りの果てに沙希と恋人関係になり、幼馴染みの彼女の相も変らぬかけがえのなさを改めて自覚してなお、その尊さに何の翳りも射してはいない。
おそらく彼が人知れず二つの恋心の間で揺れ続けた苦悩に対し、聞く者が聞けば単なる優柔不断から派生した自業自得でしかないとスッパリ切り捨ててしまうことだろう。
タイプの違う二人の女性の魅力に誘われるままフラフラとする、ただの二股野郎じゃないかと、蔑みの失笑を投げかけ彼を糾弾すらするのかもしれない。
なにせ当の啓次本人が一番、自分のクズ具合に何度となく辟易してきたぐらいなのだ。
どちらの恋にも真剣だった。
どちらも心から愛していた。
彼なりに彼女と彼女に真摯に向き合ってきたつもりだった。
しかし、そんなものは詭弁にすらならない苦しい言い訳、言い繕いでしかないことは重々承知している。
そう、いつか沙希にも言われたことだが、結局それは啓次の傲慢。
他人の意見に流され、誰かの意向にばかり沿い、押し付けられる力がなければ何もできない受け身気質である塚原啓次の、最初にして最大の自己主張。
たとえそれが、愛する恋人を確信犯的に傷つけることになっても。
たとえそれが、どこにも辿り着くことのできない恋心であったとしても。
芽吹いてしまったあの初恋を絶対に否定はできないし、したくない。
だからこそこのケジメは絶対に自分一人の手だけでつけなければならないと、彼は責任感から……いいや、たぶん、単純に未練みたいなものから、頑なに己が傲慢を貫き通す。
……そして、その傲慢でもって彼は。
……いつまでも心に残滓がこびりつく、失ったはずの恋心に。
……最後の別れを告げる。
「……大丈夫」
―― 啓次さん、啓次さん♪ ――
「大丈夫。僕と巡莉さんの関係は最初から何も変わらない」
―― け~いじさぁん♡ ――
「大丈夫。僕らは……どこにでもいる兄嫁とその義理の弟」
―― 啓次……さん…… ――
「……大丈夫、大丈夫。大切な……大切だけど……僕らはただのかぞ……」
「啓次さん?」
「……え?」
終幕へと向かう回想の中で幾つも蘇ってくるのは、彼女が自分を呼ぶ声。
その時の彼女がどんな感情を抱いていたか、手に取るようにわかってしまう多弁な声の数々。
しかし、今聞こえたその響きには生々しさを、その距離感には近さを……何よりそこに含まれる愛おしさに妙な現実感を感じて啓次はハッと目を開く。
「お湯加減はいかがですか?」
「え?あ、う、え?」
「ふふふ、ごゆっくりなさっている中ごめんなさい。お洗濯を済ませてしまおうと思いまして」
過去の記憶からではなく、浴室のドア一枚隔てた脱衣所から巡莉の声がする。
「まぁまぁ、Tシャツにもこんなに汗が染みて……本当にお疲れ様でした」
「あ、は、はい。……どうも、お疲れ様、です?」
湯気で視界が悪く、おまけに直前まで思考世界にとっぷり浸かっていた影響で頭がボンヤリとしていた啓次。
曇りガラスの張られたドア越しから、巡莉が脱衣所に置いてある洗濯機の前に立ってゴソゴソしているシルエットは確認しているはずであるのに、いささか要領を得ない返答をしてしまう。
「ですが、おかげで楽しいデートになりましたよ、啓次さん?」
「……デート」
「はい、デート。日本語で言うトコロの逢引き、スペイン語で言えばシータ、ドイツ語で言えばハンブルク、フランス語で言えば……ヴェーゼ?」
「い、いえ、ドイツ語のは材料に合いびき肉を使ったハンバーグとかけたかもしれませんが実際に現地ではそんな料理はありませんし、フランス語のは日本語で言うトコロの接吻です。ちょっと段階飛ばしちゃってます」
「接吻、キス……。あながち間違っていないのではないですか?」
「……確かに、デートの最中にキスくらいするかもですが……」
「そうですね、私と啓次さんもデートしてキスしましたもの。……間接ですけど」
「っつ!!そ、それはムリヤリ……それに……あれは……」
などとツッコミを入れているうちに啓次は、当たり前のように巡莉が連呼する『デート』という言葉にちゃんと反応できるだけの頭の回転が戻っていた。
そう、あの痛み、あの涙、あの喪失感。
ここで反応できなければ、沙希を待たせ、傷つけてまで何のために今日を迎えたというのか。
「あれは……なんですか、啓次さん?」
「……義姉さん……」
「はい、なんでしょう?」
「……あれはデートなんかじゃないです」
「……あら?」
「広義でも狭義でも、一般的なデートの定義は僕にもわかりません」
「はい」
「恋愛感情の有無を問わず男女が二人で出かければそれでデートだと言う人もいるでしょうし、別にそれくらいは何でもないことだと笑い飛ばす人もいるでしょう。ただ異性と仲良く話をしていただけで嫉妬して浮気だと言う人にしてみれば一緒に買い物なんてしようものなら間違いなく怒り狂うんでしょうし、たとえ外泊したところでまったく気にもしない人だっているかもしれません……」
啓次は湯に浸かりながら、ガラス越しのシルエットを真っすぐに見据えて語る。
「はい、世の中には色々な価値観がありますものね……」
ドアの向こうにいる巡莉もまた啓次を静かに見つめている気配がある。
その楽しげだった声のトーンすらも、啓次の真剣さに応えるように低く、真面目なものとなっている。
「それで?当の啓次さんの価値観は、今日の私たちのお出かけがデートではなく、一体なんだと仰っているのでしょうか?」
「……そのままの意味です」
「そのまま?」
「はい、そのまま。あれはただのお出かけ……義姉さんの言う通りであり、文字通りの意味でしかない、単なるお出かけです」
「まぁ、『ただ』や『単なる』だなんて、少し寂しくなってしまう言い方です」
「ごめんなさい。……でも譲ることはできないんです。あれをデートだと認めてしまったら、ただでさえ僕なんかの為に傷つき、それでもずっと我慢して、ずっと待って……そしてずっとずっと変わらずに愛してくれている人に合わせる顔がありません。……これ以上……彼女を裏切ることを、僕が僕自身で許せない」
「……そうですか……そんなことを考えていたんですね?」
「だから義姉さん……あれはデートじゃないんです」
「……どうやら、私ばかりが浮かれ、結果として啓次さんを困らせてしまったようです。ごめんなさい」
「……いえ、正直、楽しかったです」
「……啓次さん」
「振り回されたし、とても疲れたし、なんだか大勢いの人たちの前で目立って恥ずかしかったですけれど、楽しかったことは楽しかった。あんな風に誰かとショッピングをするのは久しぶりでしたし。義姉さんのようなキレイな人と一緒に歩けるだけでなんだか誇らし……」
啓次はそこで間を置くようにグッと口をつぐむ。
明らかに沈んだ声色になった巡莉をフォローしようとしたのだが、そのまま喋り続ければ、楽しかったという以外に余計な言葉と想いまで零しそうになりそうだった。
「……ふぅ」
だから代わりとばかりに一つ、小さく息を吐いて心を整える。
もう余計なものはいらない。
「あれはただのお出かけ、単なる買い物。……ただ義理の姉と弟が、旦那さんと兄の誕生日プレゼントを一緒に買いに出かけただけ、という話なんです。……えっと、ようするに、もっとシンプルに言えばです……」
あとは先ほど言いかけたままで終わった独り言を今度は虚空ではなく、伝えるべき人に伝えるために……この一方的に想ってばかりであった初恋に本当の幕を下ろすために。
啓次は万感の決意を込めて、言い放つ。
「僕と巡莉さんは家族です」
―― そう、僕たちは家族 ――
「……っ!!」
―― 血の繋がりはないけれど、同じ家に暮らしている普通の家族 ――
「家族なんだから一緒に出かけることだってあります。義理とはいえ姉弟なんだから買い物くらい普通にします」
「…………」
―― それだけの現実を受け入れるのに、三年もかかっちゃったけれど ――
「デートなんかじゃない。……家族として生活を送る上で当たり前にする、当たり前の日常の一部です」
「…………」
「だから、義姉さん。……これからもよろしくお願いします。僕らは……どこにでもいる、普通の家族になりましょう?」
涙はない。
しかし、笑顔もない。
悲しみはない。
しかし、喜びもない。
取り巻いたのは圧倒的な安堵感。
そして、胸を穿ったかすかな喪失感。
恋を覚え、恋に焦がれ、恋に悩み、恋が終わる。
甘さと辛さの入り混じった、塚原啓次の初めて恋は。
この晩春の良き日、
この昼下がりの穏やかな時、
この何の変哲もない浴室において……。
やっと本当の終わりを迎えることができたのだった。
「……長くなっちゃいましたけど、とにかく、そんなわけです、はい……」
とはいえ、それはどこまでも啓次個人の問題だ。
なにがそんなわけなのか、巡莉にしてみれば訳が分からないだろう。
「ま、まぁ、家族という割にはスキンシップが過剰気味でちょっと控えて欲しいところではあるんですけれどね……ははは……」
恋をし、苦悩し、ケジメをつけてみたところで、それは結局、啓次の一人相撲でしかない。
冷静になってみると、急に恥ずかしさがこみ上げてきた啓次。
せっかくイイ感じに締めることのできた空気を、自分から得意の薄笑いで台無しにしてしまう。
「…………」
「……えっと、義姉さん?」
「…………」
啓次の呼びかけにも、巡莉は応えない。
そうして黙られてしまうと、ますます自分が何かとんでもない間違いをしてしまったのではないかと不安になる。
「あの、ですから、そう、そう!ちなみにドイツ語で家族はファミーリエと言いまして、なんとなく堅めの発音ばかりが多いイメージの強いドイツ語の中でも割とやんわりとして、なんか、ホント、家族だなぁって、家族の温かみを感じるなぁって単語だと思いませんか?」
「……ええ、そうです……」
「で、ですよ……ねぇ?」
ようやく巡莉から反応が返って来たと思いきや、どこか噛み合っていない印象を抱いて言葉尻が疑問形になる啓次。
「そうです。その通りです。『家族』は温かいものです。そうなんです……」
「……義姉さん?」
「ああ、今日はなんて素敵な日になったのでしょう。楽しくデート……いいえ、『家族』と楽しくお出かけできた上に、初めて貴方の方から私を『家族』だと言って……『家族』だと認めてくれました」
「……えっと……」
「そう、私たちは『家族』なんですよ……だから、こんなことをしても何てことはないハズです……」
ガチャリ……
「……ねぇ?」
「っな!!!」
確かに、啓次の初恋は終わった。
しかし、その終わりと同時にまた別の何かが……。
おそらく、より厄介で、より妖しげで、より淫靡な何かが……。
「けぇ~いぃ~じぃさぁぁぁん♡♡♡」
一糸まとわぬ姿のままで、浴室と啓次の中にニタリと忍び寄る。
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