最終章・メグリ・サキ ~巡り巡る先の恋~

第20話・じわり、侵されていく

 「……っつ!!」


 その日の啓次の目覚めは、控えめに言っても穏やかなものではなかった。


 柔らかな朝日に照らされ、

 小鳥のさえずりに耳をつつかれ、

 羽毛に抱かれて揺蕩う眠りの中からゆっくりと引き上げられ、

 ある程度の覚悟と多大な諦めとともに目蓋を開く……。


 そんな理想的な覚醒の対極にあるような、随分と暴力的な目覚めだった。


 「はぁ……はぁ……」


 したたかに寝巻を湿らせた粘り気のある汗。

 それとは反対にカラカラに乾き切った口内。

 開口一番ならぬ目覚めの一番から荒くなる呼吸。

 警鐘のように打ち鳴らされる激しい鼓動。


 そして朝には比較的強い方である啓次にしては珍しく、いささか重たすぎる頭やボンヤリと霞んだ視界が、不吉な夢の不快なウワズミとしてあちこちに痕跡を残している。


 そう、夢だ。


 啓次は何か夢を見ていた。


 それがどんな内容のものだったか、詳細は覚えていない。


 どこか暗示的かつ隠喩的なメッセージを存分に含んでいた気がする。


 洗練された皮肉と滑稽なる可笑しみとが随所に織り込まれたストーリ―だったような気がする。


 時間軸や空間軸を忠実に守ったうえに、ある種の規則性、何かしら厳粛なるルールに沿うて物語が展開されていった気もするし。


 誰かが出てきて、その誰かは彼にとってとても大切な人で、その大切な人に何かを強いられ、それを拒むどころかむしろ受け入れ、そんな彼のことをまた他の誰かが哀しそうに見ていた……そんな気もする。


 「……はぁ、はぁ……はぁぁぁ……」


 やはり啓次は何も思い出せない。


 ただ、それが夢であったこと。


 そして、その夢の中で何か大事なものを延々に削られ続け、まるでそこから逃げ出すみたいにして一気に目を覚ましたことだけは何となく覚えている。


 「……ふぅ……」


 うまく機能してくれない思考を回すでもなく回すうち、ある程度、心拍数が落ち着いたところ。


 跳ね起きた体を、もう一度ベッドの上にドサリと横たえて啓次は目を瞑る。


 「……まぁ、疲れてたんだろうな。変な夢くらい見るか……」


 未だ、万全の状態とは言えない。


 夢という深海から現実という海面へと急激に飛び出したその気圧の変化に、体がまだ追い付いてこない。


 それでも、啓次はボンヤリとしたまま考える。


 昨夜の出来事は決して夢などではなく、幾つか伸びた選択肢の中から確かに自分が選び取り、これから歩んでいかなければならない現実であるのだと、体に、心に、刻み付けるように。


 仲の良さも相性の良さも立場も変わらないというのに、関係性だけは大きく変わった愛しい幼馴染の彼女のことを。


 始まる前から終わっていたというのに、どうしても手放せなかった初恋のことを。


 そしてそれが、慟哭と共にスルリと指から離れていった時の胸の痛みのことを。


 「……そうだ、僕はもう、選択したんだ……」

 

 塚原啓次は考え続ける。


 

 @@@@@



 啓次がひとしきり泣いた後、彼は沙希を滞在先のホテルまで送り届けた。


 その間、会話らしい会話もなく、ただ手を繋いで歩いた二人。


 幼い頃から何度もこんな風に帰り道を共にしてきた二人。


 しかし、強く柔らかく繋がれた手の指先を、いわゆる『恋人繋ぎ』に絡めていたのは、二人の長い付き合いの中でも初めてのことだった。


 「……ありがとう、啓次。ここでいいよ」


 ビジネスホテルの高い建物がハッキリと見えた頃、沙希はそう言った。


 「後は一人で大丈夫」


 「……そう?ここまで来たらホテルの前まで一緒に行くよ?」


 「手を繋いだまま?」


 「手を繋いだまま」


 「さすがにね……もしも、同僚とか知り合いに見られたら……は、恥ずかしいし……」


 「ウブいなぁ」


 「ああ、もぉ、なんか今日の私、こんなのばっかり。ぜんぜんキャラじゃないのに……ばかぁ……ばか啓次ぃ……」


 うつむいて顔を赤らめながら可愛らしく悪態をつく沙希に、啓次は愛おしさがこみ上げた。


 アメリカに行き、宣言通りに強くてカッコイイ『お姉ちゃん』を取り戻して啓次の元に帰って来た沙希。


 容姿にしても、纏った凛とした雰囲気にしても、思い描いていたより遥かに大人びた成長を遂げた彼女に、啓次は初め随分と気後れしたものだ。


 しかし、二年の間に成長をしたのは啓次も同じ。


 いや、その振り幅だけでいえば彼の変化の方が劇的だっただろうか。


 こうして沙希の、こちらは一向に成長しなかったらしい乙女的な部分をくすぐり、可愛らしい反応を引き出させたのは紛れもなく彼の成長。


 そして、それを微笑ましく見守れるだけの男の度量みたいなものさえ、今の啓次は身に付けていた。


 「まぁ、そういうことなら仕方ないね。名残惜しいけどここまでにしよう」


 「ごめんね。同期が何人か同じホテルに泊まっててさ。……もう少ししたら、ちゃんとマンションに引っ越せるから、その時はキチンと部屋まで送ってね」


 「もちろんだよ。うん、楽しみにしてる」


 「それに……ほら。昨日の今日どころか、さっきのさっきだし……なんだかまだ私もフワフワしてて……」


 「……そうだね。お互い、少し一人になって落ち着いた方がいいかも」


 「……そそそ、それともやっぱり寄ってく?わ、私、酔っぱらってるからその勢いに任せてたちゃちゃちゃ~って?」


 「いや、酔っぱらってる人の恥じらい方じゃないよ、サキ姉。反応が素面過ぎる」


 「……酔ってるよ……」


 「雰囲気に?」


 「ううん。……啓次とちゃんと恋人になれた幸せに……私はクラクラに酔ってる……」


 トン、と啓次の肩に沙希が額を当てる。


 「本当にこのまま、ホテルの部屋にアンタを連れ込んで、服を脱いで、抱き合って、キスもいっぱいして、私の初めてを激しく優しくもらって欲しい。……心からそう思えるくらい、私はアンタに酔ってるんだよ、啓次?大好きなんだよ、啓次?」


 「うん、嬉しいよ、サキ姉。僕も大好きだ」


 「だけどね?私がいくら迫っても、啓次はきっと抱いてくれない。私の知ってる……私の大好きな啓次なら、きっと我慢できずに裸になった私にそっとカーディガンでもかけて、首を振って、優しく優しく拒んじゃうんだよ」


 「……実際は、プルプル震えて血涙を流しながらだと思うけど」


 「でも、してくれないんでしょ?」


 「……うん」


 啓次は繋いでいない方の手を回し、肩に寄り掛かる沙希の体を抱きしめた。


 「ごめん、サキ姉。もう少しだけ、待ってくれる?」


 「まだ、吹っ切れない?」


 「ううん、そういうわけじゃない。ちゃんと巡莉さんへの気持ちにはケジメをつけた。やっとつけることができた。僕はもう、サキ姉を愛することに何も迷いはないよ」


 啓次は沙希を強く強く抱きしめる。


 「愛してる、サキ姉……」


 「……うん」


 「大好きだ。心も体も、僕の全部がサキ姉を求めてる……」


 「うん……うん……」


 「だけど、ごめん。今夜だけは……今だけは、許して欲しいんだ。……決して苦いものだけじゃない、むしろある意味ではずっと不甲斐ない僕を支え続けてくれていた大切な初恋の思い出……せめて、もう少しだけ、その最期を悼んでいたいんだ。報いてあげられなかった……あの恋心のために」


 「感傷的……」


 「かもね」


 「二股野郎……」


 「返す言葉もない」


 「ホント、ばか。ばか啓次。普通、恋人に言う?他の女への未練のために君とのエッチはできません。お預けですって」


 「……ごめんなさい」


 「……ホント、ばか。信じられないくらい、私がばか。……そんな融通の利かなさを、そんなヘタレを……ああ、誠実なんだなって……私のこと中途半端な気持ちで抱きたくないんだなって前向きにとらえちゃって、ばかみたいに胸をキュンキュンさせてる。……もう、ホント、こんな物分かりが良くて、何をされてもアンタにベタ惚れなままの都合のいい女、他にいないんだからね?」


 「僕にはもったいないくらい『いい女』、だよ」


 「……あんまり待たせないでね?」


 「……わかってる。……ありがとう、サキ姉」


 「……啓次……ん……」


 どちらともなく、二人は唇を寄せてキスをした。

 

 貪るような激しいものでも、

 互いの空白を埋めるような切ないものでもなく。


 またすぐに会える……。


 望めばまたすぐにでも抱き合える……。


 その時こそ、身も心も正真正銘の恋人になろう……。


 そんな約束のために交わされる、優しいばかりの口づけだった。

 

 

 @@@@@

 

 

 「…………」


 眠りから覚めた時とは違い、啓次はゆっくりと目を開いて昨夜の回想から戻ってくる。


 「…………」


 懐かしくて、騒がしくて、楽しくて、甘くて、幸せで。


 けれど、切なくて、悲しくて、ほろ苦くて……。


 これまでの数年間、二つの恋を中心に停滞し続けた啓次の現実が、ただの一夜にして目まぐるしく動き始めた。


 生まれ変わった……というには少し大げさではあるが、それでも昨日と今日で、明らかに塚原啓次というヘタレ男の人生は変わった。


 あるものが始まり、あるものが終わった一夜。


 もしも、命が尽きる寸前に振り返った自らの人生に、幾つかの分水嶺を見つけることができたなら、その中でも昨夜は確実に啓次の生を大きく左右した地点として大々的に記録されていることだろう。


 「……サキ姉……」


 啓次はおもむろに両手を伸ばす。


 伸ばした先に、もちろん名前を呟いた愛しい恋人の姿はなく、ノッペリとした天井があるばかりだ。


 それでも、啓次は手を伸ばす。


 その左の手のひらに残された、沙希の右手の感触を噛みしめるみたいに。

 

 その右の手のひらと、体中に残された、抱きしめた沙希の温もりを確かめるみたいに。

 

 啓次は、静かに、手を伸ばす。


 「……大好きだよ……」


 「私も大好きですよ♡」


 ギュ


 何も掴まないはずの手のひらが、柔らかく握られる。


 「え?」


 「朝一番からそんな熱烈な告白をされて……今日は素敵な一日になりそうですね♡」


 そのスベスベとした肌の感触には覚えがある。


 その蕩けるような甘ったるい声には覚えがある。


 「おはようございます」


 「え、あ、はい。おはよう……ございます?」


 愛しい彼女ではなく、愛しかった彼女。


 ずっと愛しかったが、愛しくなってはいけなかった彼女。


 「あらあら、寝ぼけていますね、啓次さん。ふふふ、可愛い♡」


 「め、めぐりさ……義姉さん?」


 「はい、巡莉お姉ちゃんです♡」


 そんな彼女が、啓次の両手を柔らかく包みながらニコリと笑う。


 「ではでは、啓次さん。今日はそんな大好きなお姉ちゃんと……」



 ―― デートをしましょうか? ――



 両手を艶めかしく包み、

 妖し気にニコリと笑い、


 兄嫁・塚原巡莉は、そう言った。

 

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