第19話・これが、ヘタレ男の決断(裏)

 塚原啓次が己の初恋を高く打ち上げ、広く咲かせ、そして涙と共にようやく散らすことができた、同日、同刻、同じ空。


 「ふふふん、ふ~ん、ふふふん、ふ~ん……」


 塚原巡莉は、鼻歌交じりに翌日の料理の下ごしらえをしていた。


 「…っよし♡あとは一晩寝かせて、もう一度火を入れれば完璧。啓次さん、カレー好きですもんね。喜んでくれるかしら……うふふ……」


 鍋に蓋をし、汚れ物を洗い、手を拭き、笑う。


 そう、巡莉はここでも笑っている。

 

 誰がいても、誰もいなくても、変わらず口元には笑みがある。


 「でも、今夜、啓次さんはお夕食になにを食べたのかしら?」


 そして、こちらもまた、人がいようがいまいが構わない。


 「もしも、カレーだったのならどうしましょう。幾らお好きでも連日では飽きてしまうでしょうし、栄養だって偏ってしまいます。うーん……これは明日それとなく聞いて、臨機応変に対応しなければなりませんね。冷蔵庫の材料で間に合えばいいんですけど……」


 啓次が知る由もないことだったが、巡莉は一人になるとよく独り言を言う。


 誰かに届けるでもなく、

 誰かに伝えたいと思うこともなく、


 寂しさを誤魔化すためでもなく、

 孤独を紛らわせるためでもなく、


 もしかすると自分にさえ向けたわけでもない、正真正銘、ただ口から零れ落ちる独り言を言う。


 「けれど啓次さんなら、何をお出ししても、美味しい美味しいって言って幸せそうな顔で食べてくれるんでしょうね。それもたーっくさん。ふふふ、食べ盛りの男の子って本当に可愛らしいです♡」


 巡莉の姿は台所から食卓の方に移動している。


 本来は四人掛け用のダイニングテーブル。


 普段はそこに、啓次と巡莉の二人が向かい合って食事をしている。


 巡莉は、啓次がモリモリと箸を進めるその光景を思い出して一層、笑みを深くする。


 「……ねぇ、啓次さん?」

 

 おもむろに伸ばされる指。

 

 「貴方は今頃……誰とどこで何をしているのでしょうか……」


 あかぎれもなければ、シミひとつもない、美しくしなやかな指先。


 それがいつも啓次が座る椅子の背もたれをスッと一撫でする。

 

 「どこぞの姉に連れられ、どこぞの姉と歩き、どこぞの姉が誘うままに、楽しい一夜を過ごしているのでしょうか。……ねぇ、啓次さん?」


 と、回想の中にいる啓次に問いかけているようで、やはりそれはただの呟き。


 応えなど求めていない、口から漏れ出ただけの言葉の羅列。


 彼女は何も届けない。

 彼女は何も伝えない。


 彼女は……何も求めない。


 「……啓次さん……」


 だからこれにも、意味はない。


 ツーっと指先がなぞる、啓次の椅子。


 誰もいないハズの木製の背もたれの上を、巡莉の指が何度も往復する。


 あくまでも優しく。

 どこまでも柔らかく。

 

 何よりも、にこやかに。

 何を置いても、妖艶に。


 まるでそこに啓次の背中があり、指を這わせるごとに彼が羞恥と快感に悶える姿を楽しんでいるかのように。


 巡莉は愉悦に瞳を光らせて指を動かし続ける。


 「こんな風に触られているんですか?それともこうですか?」


 声が段々と熱してくる。


 「いやらしいですねぇ。卑しいですねぇ。……そうして啓次さんの優しさに付け込んで……啓次さんの純情を弄んで楽しんで……ああ、なんて淫乱な女なんでしょう……」


 手の動きがますます複雑に、巧みになる。


 「ダメですよ、ダーメ。『お姉ちゃん』を名乗るならそんなことをしてはいけません。『お姉ちゃん』はあくまで家族なんです。醜い劣情を抱いてはいけません。少しだって女の情欲を持ってはいけません。……そう、家族同士でエッチなことをしてはいけません。『お姉ちゃん』がそんなことしては……いけませんよ……」

 

 言葉の端々に荒い吐息が挟み込まれる。

 

 「ダメですよぉ……ダメ、なんですからねぇ……あくまで『お姉ちゃん』は親愛の表現のために体を寄せないと……何も知らない可愛い可愛い弟くんの教育のためにだけ触れないと……ダメ……なんですからねぇ……」


 背もたれに押し付けられて乳房が潰れる。


 椅子の脚部分に白い肉の脚が絡みつく。


 「ね?啓次さん?啓次さんもそう思いますよね?……『お姉ちゃん』にエッチな気持ちは抱きませんよね?……『お姉ちゃん』に相応しいのは私だけですよね?……ねぇ、啓次さん?啓次さん?けいじさぁん??」


 啓次の名前を呼ぶ度に激しくなる巡莉の動き。


 「んん……」


 はずみで深く椅子に食い込む下腹部。


 微かに響く水音。


 ピクリと反応する巡莉の体。


 「…………」


 硬直する巡莉。


 押し黙る巡莉。


 時が止まる室内。


 熱気と湿気と香気とが留まる室内。


 「……そうだ……」


 唐突に動き出す巡莉。


 慌てて回り出す時間。


 「啓次さんのお部屋にいかなくちゃ……」


 ユラユラと歩き出す巡莉。


 ヌラヌラと彼女の後を追いかける淫靡な空気。


 「あれをあそこに……あれはあそこに……これで『お姉ちゃん』をいつでも感じられますよぉ。もう寂しくありませんよぉ。他の『お姉ちゃん』なんかいらなくなるくらい、ずっとずっと一緒にいられますよぉ……ふふふ♡♡♡」


 フラリと歩みを進める巡莉。


 クチュリと鳴る湿り気。


 辿り着くドアの前。


 未だ恋人との逢瀬に出向いて帰らぬ啓次のいない部屋のドアの前。


 「……きっと、喜んでくれますよね、啓次さん?」


 ニヤリと笑う巡莉。


 スルスルと床に落ちる衣服。


 「『お姉ちゃん』がどれだけ貴方を愛しているのか……きっとわかって、喜んでくれますよね?」


 ニタリと嗤う巡莉。


 シュルリと取り払われる下着。


 ブルリと揺れる乳房。


 プルリと晒される臀部。


 「……そうでしょ?……ねぇ……」

 

 ガチャリ、開くドア。


 スルリ、侵入する姉。


 「けぇ~いぃ~じぃ~さぁぁん♡♡♡」


 クネリ、身悶えする姉。

 

 カチャリ、閉まるドア。


 ………

 ……

 …


 マンションの一室に静寂が降りてくる。


 たった一枚のドアが隔てるだけで、

 たった一人の人間がその場にいなくなるだけで、


 こんなにも簡単に世界は静けさを取り戻す。


 そう、この平穏を乱した彼女はもういない。


 彼女は彼女だけの世界の中で恍惚に浸り、溺れている。


 ……しかし、それもほんの束の間のことだろう。


 次にこのドアが開かれ、彼女が再び『お姉ちゃん』として笑みを浮かべる時。


 義弟姉貴分彼女の恋物語は……。


 もう一波乱、巻き起こらずにはいられないのだから。



 ≪第三章・ケイジ ~はじまる恋、おわらせる恋~≫・了


 

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