第16話・これが、ヘタレ男の決断(前)

 「け~~いじぃぃぃぃ♡♡♡」


 「はいはい、啓次ですよぉ」


 「け~いじぃぃ~~ぐふふぅぅ~けいじだぁ~けいじがおるぅ♡♡♡」


 「はいはい、いますよぉ~おりますよぉ~だから女の子がそんな気持ち悪い笑い声上げるのはやめましょうねぇ~」


 「も~離さないぃ~寂しがっだぁ~も~ざびじいのやだぁ~!!」


 「はいはい、絶対に離さないよ~ずっといるよぉ~だから笑ったり泣いたりもうちょっと情緒安定させてねぇ~そして人の上着で鼻かまないでねぇ……割と本気で」


 「んん?クンクン……これは啓次の匂いが染みついたカーディガン?よ~こ~せぇ~!!そのカーディガンよ~こ~せぇ!!」


 「いや、かれこれもう二枚くらい僕、サキ姉にカーディガン強奪されてるんだけれども……」


 「そのカーディガンを抱きしめてクンカクンカしながら慰めるのぉ~!!寂しい夜にはそれを着ながらベッドに入って啓次に抱かれてるつもりになって慰めるのぉ~~!!」


 「……何を慰めるのか具体的に言わないところはまだ正気が残ってるってことでいいのかなぁ?」


 「お股の疼きを慰めるのぉ~~!!」


 「残ってなかった!!」


 海浜公園で繰り広げられた、まるで映画かドラマのようなラブロマンスから一転。


 ベロベロに酔っぱらった姉貴分が色々なモノを……本当に色々と大切な何かを台無しにしながら、弟分の肩を借りて歩いているというのが現在の状況だ。



 二人の姿はつい先ほどまで、とある小洒落たイタリアンレストランの中にあった。


 普段の彼女からはあまり想像できないほど取り乱した沙希。

 こちらもヘタレキャラに似合わず男の甲斐性を見せた啓次。


 ややあって、ある程度落ち着きを取り戻した沙希が照れ隠しに啓次を小突いたり悪態をついたりしつつ辿り着いたのが、その通りから少し奥まった場所にあるレストランだった。


 彼らは、当初の予定通りに食事を摂りながら時間をかけて様々な話をした。


 手始めとばかりに、まず啓次は大学のこと、バイトのことなど現在送っている生活を中心に語った。


 沙希もそれに倣うように、アメリカでの生活のこと、現在就いている仕事のことなど近況の報告をした。


 コース料理が次々にテーブルへと運ばれ、啓次は控えめに、沙希はかなりのハイペースでワインを煽っていく中盤頃になると、話の内容は過去の思い出とそれに付随する話へと飛んだ。


 二人がよくお小遣いを握りしめて通った駄菓子屋が潰れて月極駐車場になった。


 昔、啓次が溺れかけ、沙希が血相変えて飛び込んで助けた川から考古学的に価値のある虫の化石が見つかって話題になった。


 沙希の家の剣道場に通っていた何某さん家の何某ちゃんが結婚して子供を産んだ。


 一緒になって遊んだ何某君が所属するバンドがインディーズではあるがCDデビューした……。


 物や場所、交友関係もほとんど共有してきた仲良しの幼馴染が久しぶりに会った時に交わすような、そんな他愛のない会話が楽しく、随分と盛り上がった。


 そして、それに比例するように盛り上がったのは沙希のテンションであり、テンションの高まりとともに必然的に増えていくのはアルコールの量だった。


 メインディッシュにあたるセコンド・ピアットの仔牛料理が運ばれてくる頃には半ば正体を失くし、沙希は啓次を一方的に質問攻めにした。


 時系列も前後関係も脈絡も無視し、思いつくままといった具合であったが、それでも啓次は辛抱強くイチイチ律儀に答え、その度に沙希は赤くなった顔の表情をコロコロと変えた。


 一番笑ったのは、啓次が模試ではことごとくA判定をとっていたものの、入試の当日に人生最大ともいえる高熱を出し、自分の名前を書いたかすら朧げなほど混濁した意識のまま受験に臨んだというエピソードであり、


 一番ムッツリとしたのは、今日、啓次が待ち合わせに遅れたのは、途中で二人のチャラついた男に挟まれながらしつこくナンパされて困っていた女子高生と思しき制服姿の女の子と遭遇し、放っておくこともできずに内心も外身もビクビクしながらどうにか助け出したのはいいものの、何やら訳ありで家に帰れないのだと少女が言って去ろうとする啓次の服をつかみ、今晩泊まらせてくれないかと潤んだ瞳で訴えてきたという話の時であった。


 満面の笑みにしろ、万感の不機嫌にしろ、感情が昂れば昂るほどに沙希のグラスはグイグイ傾けられ、結局、ワインのフルボトルを殆ど彼女だけで空にしてしまった。



 「もっとだよぉ~もっともっと飲むんだよぉ~~~!!!」


 そんなわけで、結果、一人の麗しき酔っ払いが誕生したというところで、今に至る。


 「啓次ぃ~♡けーじぃ~♡啓次だけに次のお店に行くんだよぉ~でゅふふぅ♡」


 「何一つうまくも言えてないし、次もない。もうそれだけ酔ったなら十分でしょ?」

 

 「酔っへらい!わらひはじぇんぢぇん酔っちぇひゃい!!」


 「その活舌で酔ってないなら逆に心配だよ。あのね?さっきのレストランの従業員も帰り際にすっごく引きつってたよ?あれだけちゃんとしたレストランの訓練された接客のプロにあんな顔させるなんて相当だよ?」


 「あ、啓次だけにぃ??」


 「ダメだ!!僕なんかじゃサキ姉の思考回路についていけない!!」


 「それともマカダミアだけにぃ??」


 「誰かぁ!!誰か壮大に省略されたこの酔っ払いの言語の翻訳を!!」


 「……グスン」


 「……え?」


 「誰かって……何よ?……私と二人きりは嫌なの、啓次ぃ?」


 「え?い、いや、サキ姉?」


 「そうやって……また私を一人にするんだ……」


 「えっと……沙希さん?」


 「そうやって他人みたいに呼んで!!私を邪魔者扱いして置いていくんだ!!」


 「めんどくさいなぁ、この情緒……」


 「そしてさっき助けた女の子のところに行っちゃうんだ!!それから断り切れずに家に泊めてしまった訳あり家出少女がお礼と称して体を差し出すのを受け入れた啓次は、なし崩し的な同居が続いていく中で彼女へ同情からの純粋な恋心が芽生えてしまい、そのまま妊娠して結婚して出産して『パパはねぇ、ママの神様だったのよ♡』って娘になれそめを語るシーンで『Fin』ってなるんだぁ!!!」


 「シーンって何!?僕はそんな純愛系エロ同人CG集の主人公じゃないよ!?顔とか髪とかちゃんとあるよ!?」


 「いいもん、いいもん!!啓次がそーゆーことするなら私だってやってやるんだから!!……ねぇ、そこのくたびれたオジサマぁ♡私、ちょっと酔っちゃったんだけどぉどこか休めるとこ知らなぁい♡♡♡」


 「だから何でイチイチCG集っぽい展開にっ!?あ、すいません、すいません。僕の連れが酔っぱらっててすいません。……え?幾ら?いえいえいえ!!違うんです!!ただの酔っ払いの戯言です!!だから本気の目で妙に生々しい数の万札を財布から取り出さないで下さい!!」

 

 「あ、啓次、けいじぃ~あそこのフードを深々と被った占い師のたぶんすごく若くて悪魔みたいにミステリアスな雰囲気の女の子が売ってる時計、なんだか時間とか止められそうじゃな~いぃ??」


 「エロ同人!!」


 もちろん、時間はご休憩することも止まることもなかったが。


 二人の夜はいつもよりゆっくりと流れていく。



 ☆★☆★☆



 「ぐぅぅぅ……けいじぃ……ぐぅぅぅ……」


 「はいはい、啓次はいますよーっと……」


 と、背中から聞こえる寝言に応えながら、啓次はずり落ちそうな沙希の体を背負い直す。


 時刻は夜の十時を回ったところ。


 場所は、最初に訪れた海浜公園のちょうど対岸。


 騒ぎ疲れて力尽きた沙希を、啓次はおんぶして運んでいた。


 「泊ってるのは本当にあのホテルでいいんだよね?着いたはいいけどフロントで変な顔とかされないよね?」


 「ぐぅぅ……ぐぅぅ……」


 「……ま、いいか。違ってもそこで部屋をとればいいんだし」

 

 「けいじぃ……けいじぃ……ぐぅぐぅ……」


 「……まったく、世話のかかるお姉ちゃんなんだから……」


 自分の背中で気持ちの良さそうな寝息を立てる姉貴分に苦笑いを浮かべつつ、啓次はどこか嬉しそうに、そう呟いた。


 むにゃむにゃとする度に耳をくすぐる湿り気のある吐息。

 規則正しいリズムで膨らんでは背中で潰される乳房。

 ツルリとしたストッキング越しに触れる弾力のある太モモ。

 

 数時間前に正面から抱き合った時よりもまだ密着し、全身から伝わる成熟した女性のアルコールで火照った熱。


 それでも啓次の口を微笑ませているのは性的な情欲などではなく、ずっしりとその身で感じる、結城沙希のリアルな存在感であった。



 ―― 本当に……おかえりなさい、サキ姉 ――



 二年強という月日は、やはり長かった。


 なんとなく想像することはできたが、実際に沙希がアメリカに行ってしまってから啓次をとりまいた虚無感は、想像の何十倍も上をいく苛烈さでもって襲い掛かってきた。


 いつだって楽しい時間を共に笑いあった片割れ。

 いつだって辛い時には傍にいてくれた片翼。


 そんな彼女を失い、あるいはもがれた喪失感といったらなかった。


 誇張ではなく、まさしく半身を失ってしまったような痛みにボンヤリと無気力な状態がしばらく続いた。


 約束を破ってどうにか連絡を取ってみようと何度思っただろう。


 勉強も生活も恋心もしがらみも何もかもを打ちやってアメリカに行ってしまおうと、飛行機のチケットをあとワンクリックで購入というところまで進んでは断ち切るようにウェブを閉じたのは何十回あっただろう。


 何百回、その姿を求めただろう。

 何千回、何万回、その名前を呼んだだろう。


 誘惑などという受動的なものではなく、欲望というどこまでも能動的な衝動に駆られ、塚原啓次のすべてが結城沙希を欲していた。


 ギリギリだった。

 いや、もはや極点など過ぎていた。


 取り返しのつかない地点というものがあるのだとすれば、そんなものはとっくに越えていた。


 沙希に会いたい……。

 沙希に触れたい……。


 沙希の匂いを、声を、重みを、柔らかさを、強さを、弱さを、いますぐに感じたくて発狂しそうになった。


 けれど、啓次は耐えた。


 取り返しのつかない地点から更に深く暗い底なしの奈落に落ち、堕落を貪り続ける啓次の心の片隅に常にこびりついていた幾つかのモノが、もはや手遅れ状態の彼の精神をどうにか踏ん張らせた。


 それは、『いいんですよ』という優しい言葉。

 それは、『泣くな、彼氏くん』という慈しみの言葉。


 それは、すべてを許して包み込んでくれた手のひらの温かさ。

 それは、いつでも引いて導いてくれた手のひらの力強さ。


 それは、『啓次……さん……』と切なげに彼女が呼んだ声。

 それは、『啓次ぃ……』と哀しそうに彼女が呼んだ声。


 彼女の笑みが思い出される。

 彼女の涙が頭をよぎる。


 暗い部屋の中で爛々と、しかしどこか濁りを帯びて光った瞳の輝きを覚えている。

 夜の中で自分を責め立てるように映えた眼帯の白さを覚えている。


 彼女への愛しさがあった。

 彼女への恋しさがあった。


 ……このままではいけない。

 ……こんな暗い場所にいては何も変わらない、変えられない。


 与えられるばかりであった愛しい彼女たちへ何も返せないまま。

 種類も濃度も異なれど、等しく救いを求めている恋しい彼女たちを助けないまま。


 ―― 終わってなんて、いられないっ!! ――


 と、カッコよく立ち上がったものの、優柔不断が標準搭載されたヘタレ男。


 紆余曲折どころか、ウロウロ、キョロキョロと迷って惑ってままならない毎日を送り続け、とても真っすぐにソコまで辿り着いたとは言い難い。


  しかし、それでも結論は出た。


  決断も下した。


  あとはそう……それを彼女に伝えるだけだ。 



 「……ねぇ、サキ姉?聞いてくれるかな?」


 塚原啓次は語り出す。


 「この二年を……互いに意図して話題を避け続けた二年の空白を……」


 「…………」


 「サキ姉を失い、大学受験の当日に高熱を出しちゃうくらい、ずっとずっとずっと考え続けた僕の日々を……」


 「…………」


 「そして、僕が出した答えを……聞いて欲しい」


 そんな、台詞がかった仰々しい前置きから始まる啓次の自分語りに……。


 「サキ姉……いや、結城沙希さん……」


 そんな、緊張を隠し切れない様子で改まった啓次の声に……。


 「…………」


 「僕と……どうかこんな僕と、もう一度、恋……してくれますか?」


  ―― 僕ともう一度、今度は永遠の恋人になってくれますか? ――


 「……(キュッ)……」


 そんな、心も体も蕩けるような甘くて心地よい言葉に……。


 結城沙希は目を瞑ったまま、まるで自身に染み込ませるように耳を澄ませる。



  

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