第15話・それでも、歩みだけは止めなかった
「はぁ、はぁ、はぁ……」
それは、まるでいつかの記憶の焼き増しのようだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
あの日、真夏にしては随分と涼しかった気温。
あの日、必死になって掻き分けた人いきれ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
あの夜、初めてした待ち合わせ。
あの夜、世界中の誰よりも探し求めた姿。
「はぁ、はぁ……さ、サキ姉!!」
切れ切れになる息。
それでも叫び続ける名前。
全てがあの日、あの夜。
とある二人の幼馴染の男女の重なり続けた道を別々のものへと分岐させてしまった、雨の夏祭りの記憶をなぞるように……。
「サキ姉!!サキ姉ぇ!!」
彼は彼女を、
愛おしい彼女の顔を、
麗しい彼女の姿を、
求めずにはいられない。
「サキ姉!!はぁ……はぁ……」
もちろん、細部は色々と異なっている。
季節は涼しい真夏ではなく、蒸し暑い晩春。
時刻は夜ではなく、陽が落ちたばかりの夕方過ぎ。
彼が立っていたのは、あんなしけた田舎のしけた神社の鳥居の前などではなく、押しも押されもせぬ大都会の中でも更に人が密集する駅前の広場。
年に一度の小さな祭りにこぞって集まる町民よりも、終業時間が重なった企業戦士たちの帰宅ラッシュの方が、よほど人口密度は過剰である。
「サキ姉!!どこだ!!サキ姉!!……」
それでも彼は彼女を呼ぶ。
何かに駆り立てられるように、
何かを怖れているかのように、
ヘタレな弟分は、いつまでも姉貴分の凛としたあの立ち姿を求め続ける。
「……啓次」
そして、見つける。
あの日、あの夜、あの時のように。
彼女の方が彼を見つけ、背中から声を掛ける。
「サキ姉っ!!」
振り返る彼。
「啓次……」
静かに佇む彼女。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合う二人。
言葉ではなく視線で心を交わし合う二人。
ああ、変わらない。
たとえ二年以上の空白の時間ができても、
季節も場所も、進む道すら違えても、
二人の間を繋ぐ、余人が立ち入ることができない固い絆のようなものは、
褪せることも形が歪むこともなく、
何一つとして変わらず、そこにある。
彼は彼女が何を思っているのか手に取るようにわかる。
彼女は彼が何を考えているのか火を見るよりもハッキリとわかる。
「お……」
「す……」
……だからこそ。
「遅すぎるっ!!」
「すいませんでしたぁぁぁ!!」
彼女の叱責と、彼の謝罪が同時に重なるのもまた。
やはり、二人の変わらぬ固い絆が織りなした微笑ましい光景と言えるのだろう。
☆★☆★☆
「さて、弁解を聞こうじゃない」
カツン、とヒールで敷石を鳴らしながら、沙希は腕を組んで啓次を見下ろす。
「確かに急な呼び出し、厳しめの待ち合わせ時間、ビックリするくらいの人ゴミ……情状酌量の余地はたっぷりある。ええ、私だって鬼じゃない。ええ、ええ、こっちから誘っておいて時間通りに来るのは難しいだろうなって、まぁ、ちょっとくらい遅れたって笑顔で許してあげようって思ってた。ホントよ?本当に私、時計を見ながら『しょーがないなぁ』ってずっとニコニコしてたんだから」
「……はい」
「待っている間にいろんなことを考えたわ。この前お茶した時はあんまり時間がなかったから大したことは聞けなかったし、私も殆ど自分のことは喋れなかった。だけど、ようやくまとまった時間が取れたから、今夜はいっぱいいっぱい啓次と話そうって……久しぶり……本当に久しぶりに啓次とデートできるからって年甲斐もなく浮かれてはしゃいでさ……信じられる?この私が、チラチラ腕時計を見ながらニヤニヤしたりウキウキしたり、鏡を取り出してはメイクや髪形をチョイチョイ直したり、意中の男子との初デートに不安と期待で胸いっぱいの女子中学生かっての」
「なにそれ、可愛い」
「けどね、そんなウブ乙女サキちゃんもさすがに一時間も待たされることになるとは思わなかった。いえ、正確には一時間と二分……いえいえ、もっと正確に、私の揺れ動く純情が被った心的な損害を加味すれば、実質、三時間半は待たされたぐらいの心持なわけ」
「なら実質は一時間と二分じゃ……」
「んん?」
「はいっ!!三時間半も待たせてごめんなさい!!」
沙希の一睨みを受けて、啓次の背中が反射的に伸びる。
まさしく脊髄反射、あるいはパブロフの犬。
……いや、もっと分かり易くたとえるなら。
「まぁ、アンタのことだから全速全開で走ってきたのはいいけれど、途中で変なトラブルにでも巻き込まれたとかなんでしょ?」
「そ、そうなんだよ。これには太平洋よりも広く、富士山よりも高く、絶賛ポロロッカに見舞われて逆流するアマゾン川よりも激しい……」
「ちなみに妙にふざけた言い回しでお茶を濁したら、チョークスリーパーならぬ『姉スリーパー』によって苦しくも安らかな眠りを与えるキャンペーン中だから」
「!」
「しかもポイント五倍」
「!!」
「さらに番組終了後、三十分以内にお電話いただいた方には色違いをもう一つ」
「!!!」
これは長年にわたって育まれてきた結城沙希による調教の賜物。
啓次はそこがベンチの上でなかったなら、きっと瞬間的に正座の姿勢からの土下座へとトランスフォームしていたことだろう。
そう、啓次と沙希は合流した駅前から少し歩き、今は湾沿いに整備された海浜公園へと場所を移していた。
天候に恵まれた金曜日の宵。
駅付近でゴッタ替えしていたスーツ姿は途端に少なくなり、男女問わずにめかし込んだ年若いカップル達が往来の殆どを占めていた。
湾にかかる大きな橋を行きかう車のテールランプ。
ポツポツと灯る街灯。
対岸の繁華街で煌々と照る広告塔。
幾つもの人工的な光の集合が複雑な色合いのイルミネーションとなって気持ちを盛り上げてくれると、その海浜公園は恋人たちの間で長年親しまれているデートスポットであった。
「だいたい、そーゆーとこよ?ホント、アンタは昔からそーゆーとこが……」
「…………」
しかし、そんなムードもへったくれもなく、お説教をされている啓次。
彼はベンチに腰掛けながら、目の前でクドクドと文句を垂れ流す沙希をおそるおそる見上げた。
年齢は二十二……いや、来月になればもう二十三になる。
先日、本屋で再会した時も思ったが、やはり大人っぽい。
元々しっかりとした性格や高身長、姿勢の良さや服の趣味などから年齢よりも大人びた印象のあった沙希であるが、そこに実年齢がようやく追いついてきたという具合に、とても座りがいい。
仕事帰りなのだろう、ダークなスーツとタイトスカート、黒いストッキングと同じくらい黒いバッグという色合いは暗さよりも落ち着きの方をより強調し、
仄暗い宵闇の中にも映える淡い薄緑色のブラウス、その胸元で煌めく銀色のネックレスの細いチェーン、キャメル色のベルトが巻かれた小さな腕時計などの色味もまた、どれもが確かな主張をしつつもあくまで控え目に脇役へと徹している。
体のラインはあまり変わらないように見える。
変わらずにたわわで形のよさそうな胸部。
変わらずに引き締まった腰回り。
上向きに吊り上がった臀部。
細いくせに弱々しさのまるでない長い脚。
全体的に少しだけ丸味を帯びたような気もするが、それも肉が付いたというよりも、とある年代の少女だけが持つことのできる棘やある種の堅さみたいなものがこぞって抜け、本来のあるべき姿へとシックリ収まったという感じがして、とても自然。
ようするに、二年数か月ぶりに啓次がまじまじと眺めた結城沙希の姿は、浴衣や夏祭りという特殊なシチュエーション、互いに不安定な精神状態にあったあの夜に見た、どこか危うさを内包した幻想的な雰囲気に補正された彼女ではなくなっていた。
それは、一人の大人、一人の女性、一人の人間としてしっかりと地を踏みしめ、腕を組んで自分の前に凛として立つ、
強くて清くてカッコ良くて、何よりも在り方が美しい憧れの幼馴染、『サキ姉』であった。
……だからこそ、なのだろう。
「ちょっと啓次、聞いてる?」
「……おかえり」
「え?」
「おかえりなさい、サキ姉」
「啓次……」
啓次は、そう言わずにはいられなかった。
「この前は突然すぎて言いそびれたけれど……おかえり。ずっと待ってたよ、サキ姉」
ベンチから腰を上げ、二本の足で立ちながら『おかえり』を繰り返す。
「あ、アンタは……もぉ……」
クシクシと、恥ずかしがる時にポニーテールの房をいじくる仕草も、
気恥ずかしさを誤魔化す時にささいなことでつっかかって饒舌になる癖もそのままに。
結城沙希は自身の有言を確かに実行。
『お姉ちゃん』として塚原啓次の前に帰って来てくれたのだ。
どれだけの苦労があっただろう。
遠い異国で一人、どれだけ心細かったことだろう。
それでも彼女は帰って来た。
こうして自分に会いに、戻ってきてくれた。
……ならば、そんな彼女に自分も応えなければフェアじゃない。
ヘタレなりに、気弱なりに。
相変わらず迷い、惑い続けるばかりの情弱な男の鈍足なりに。
それでも歩みを止めることだけはしてこなかったのだと……この姉に示さなければならない。
「そーゆーとこ……ホント、そーゆーとこなんだからね……ばかぁ……」
「いっぱい話をしよう、サキ姉」
「……啓次」
「僕がどうしてサキ姉を三時間半も待たせた気にさせちゃうくらいに遅れたのか……」
「……うん」
「今の僕がどんな生活をして、どんなことを考えて過ごしているのか。……サキ姉がどんな生活をして、どんなことを思いながら僕の前にいてくれるのか……」
「……うん、うん……」
「僕が……この二年、どんな風にもがいて、どんな風にあがいて……どれだけサキ姉のことを……あの人のことを想いながら生きてきたのか、たくさん話をしよう。……そして、一応は導き出すことができた僕なりの答えを……聞いてくれる?」
「……啓次……啓次ぃ!!」
ガバリ、と沙希が啓次に抱き着く。
「ああ、啓次。啓次だ……啓次がいる……私の前に……啓次がいるっ!!」
「うん、いる。サキ姉が……ここにいてくれる」
直前までのなんちゃってお説教モードはどこへやら。
涙目になって啓次の胸に額や頬を擦り付ける沙希。
本当はすぐにでもこうしたかった。
本当は、ずっとずっとこんな風に触れ合いたかった。
自分の存在を彼に刻み付けるためではなく、二年の月日を越え、毎夜のごとくベッドの中でしていた想像や妄想を越え、生身の啓次がここにいるのだとギュッと抱き合って確かめたかった。
「おかえりなさい、サキ姉……」
その震える先の体を抱き返しながら、啓次はもう一度繰り返す。
「ただいま……ただいまだよ……啓次ぃ……」
涙交じりの熱い抱擁を交わし、ただ『おかえり』と『ただいま』と言い合う二人。
その姿は、この海浜公園の中で直接的に愛を囁き合う者たちの誰よりも、互いの愛情を交換する恋人らしく見えた。
「もう離れない!!寂しかった!!寂しかったよぉ、啓次ぃ!!」
「うん、うん。サキ姉……もう絶対に、離したりしない……」
そして、塚原啓次は腕の中に感じる柔らかな温もりに改めて確信する。
ようやく辿り着いた、あの恋とこの恋に対する答えの正しさに……。
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