第7話・いっこうに、沙汰はない

 「う~~ん……」


 数か月間さいなまれ続けてきた悩みが少しだけ軽くなったと思ったら、それよりも更に重たい新たな悩みがズシリとのしかかってきてしまった。


 公園で啓次から逃げるように沙希が走り去ってから、早いもので二週間が経とうとしていた。


 その間、彼女からはまったく音沙汰がなく、あんな別れ方をした手前こちらから連絡をすることも何だか忍ばれた。


 「うむむぅ~~……」


 それでもなんとか沙希と話しをしなければと思い、それでもやっぱりモタモタし、ようやく意を決して電話をしてはみたが出てくれない。


 それではとメールやメッセージを送っても返信がない。


 「う~~ん。うむむぅ~~……」


 結構凹んで引きずって、少し立ち直って今度は沙希の実家を訪ねようと奮い立って家を出たが、そういえば今は寮暮らしだったとオズオズと引き換えす……。


「うがぁぁぁぁ!!!!」


 ここまでくれば生粋のヘタレ男の弱いメンタルではもうベッドの上でうなだれるしかなかった。


 

 

 そうして迎えた一学期の終業式。


 翌日から始まる夏休みに、例年ならば他の生徒同様、啓次も手放しで開放感に浸って喜んでいるところだが、今年に限って言えば、ちょうどその日の空模様のように厚く暗い雲がかかった、なんとも憂鬱な気分だった。


 登校から下校まで、然るべき時間を然るべき量だけ組んだタイムスケジュールをシステマティックに熟しているうちは、啓次も余計なことを考えずに済んだ。


 長く会話をして間を持たせられるような親しい友人も特別いなかったので、休み時間の過ごし方には本当に苦労したが、集中して本を読んだり期末試験明けだというのに熱心に予習・復習を繰り返したりしてどうにか場を繋いできた。


 しかし、そんな刹那的な対処療法もこれまで。


 打ち込むべき部活動もなければ夏期講習もない、ただ漫然とした暇な時間だけが横たわる長い夏休みが始まってしまう。


 ―― きっと僕は、サキ姉を傷つけたんだな…… ――


 一つ、結論はもうとっくに出ていた。


 ヘタレで鈍重、学校の成績は良くとも頭の回転は著しく鈍い甲斐性なしの啓次でも、あれだけ明確に示された沙希の自分への想いに、さすがに気が付いてしまった。


 確かに昔から、愛だ恋だというのを抜きにしても、啓次は彼女から特別に好意を寄せられていたのだと思う。


 遊びたいのなら近所にしろ学校にしろ歳の近い子供は多くいたし、交友関係の広い沙希ならば他にも友達はたくさんいただろう。


 弟を侍らせたいのなら、年齢にしても性格にしても見た目にしても、もっと弟に相応しい人間だっていたはずだろう。


 しかし、沙希は啓次と一緒にいた。


 思えばガキ大将時代、子分はたくさんいたが、『弟分』という括りにいれられたのは後にも先にも啓次ただ一人だった。


 どうして自分なんかがとも啓次は考える。


 客観的に見て自分には誰かに、まして女性に好かれるような要素など本当に無い。


 容姿にしろ性格にしろ他の何もかもにしろ、どれだけ温情的な採点をしてみても自分は男として赤点確実だろうと、自らを卑下することに慣れた啓次は心からそう思った。

 

 ―― でもまぁ理屈じゃないんだろうな。……恋とはそういうものなんだ ――


 その春、生まれて初めて恋を知った啓次には、珍しくそう断言できるだけの根拠があった。


 ―― だって僕は恋をしている。……こういう気持ちは……ううん、なんて言えばいいんだろう……ちょっと難しいなぁ…… ――


 その時の彼、まだまだ恋の初心者である啓次には、恋の定義をうまく表現できるだけの言葉も経験も十分な持ち合わせはなかった。


 やがては好むと好まざるに関わらず、真正面から向き合わなくてはならない時がやって来るのだが、取り合えず、沙希が内に秘めた自分への恋心に気づき、そしてそれを自分の勘違いだなんていう鈍感力で彼女の恋を愚弄するような非道な真似をしなかっただけ、及第点をあげて欲しい。


 ―― とにかくだ。やっぱりまず、サキ姉に会ってちゃんと話さないと ――


 亀よりも遅い歩みではあるが、彼だってしっかりと一歩一歩成長しているのだ。


 ―― ……あ、でも……連絡……どうしよう? ――

 

 ……まぁ、恋を知ろうが知るまいが、結局、塚原啓次がヘタレであることは変わるべくもなかった。



 ただ、その時は何てことのなかったいつものヘタレが、ようやく少しは逞しくなってきたかにみえた彼の歩みを著しく後退させ、更なる卑屈な人間へと貶めることとなってしまう。




 「え?……サキ姉が……ケガ?」


 翌日の正午前、たった今、電話口で聞かされた言葉に、啓次は夏の火照りが一瞬で凍り付くような寒気に襲われた。


 「は、はい。すいません……ええ、はい。ちょっとビックリしてしまって……。はい、はい……はい……わかりました。わざわざ有難うございます。はい……あ、そうなんですか……わかりました。……はい、お願いします……はい……はい……それでは失礼します」


 回線が途絶え、固定電話の受話器を戻した啓次は、ショックのあまりにしばらくそのままの姿勢でジッと電話機を見るでもなく見つめた。


 沙希が剣道の試合中、ケガをした。


 意識もあり、とりあえず命だけは問題ない。


 落ち着いた頃合いに連絡をするからその時には見舞いに来てほしい。


 要点だけまとめると、たったこれだけの内容だったのだが、趣味の読書で行間を読むことに慣れていたせいか、啓次には、電話口の向こうで事を知らせてくれた沙希の母親が無意識のうちにでも会話の中で匂わせたある種の切迫感を感じ取るとことができた。



 では、命以外の部分で問題が生じているのだろうか?


 どうやら沙希の通う大学の道場内での出来事らしく、入院しているのもそこからほど近い病院だそうで、行こうと思えば啓次の足でも簡単に行けた。


 いますぐ自転車に乗って駆け出したくもあったが、無理矢理押しかけて迷惑を掛けるわけにもいかない。


 幸い今は夏休み。


 時間だけはたっぷりあった。啓次はグッと焦りを堪え、気長に面会許可が下りるのを待つことにした。


 だが結局、いつまでたっても連絡がないまま沙希の両親が啓次の家を訪れたのは、もう彼女が退院し、色々なものを失ってしまった後のことだった。




 それは電話口で沙希の母親が言ったように、試合中の事故だった。


 試合をしていた人物が同性ではなく、大柄な男子部員の先輩だったというのは、あまり性別で目立った力の差が出にくい剣道であることを踏まえれば何も珍しいことではない。


 ただそれが審判も観衆もおらず、防具も付けないで行われた、いわゆる私的な野試合であったのが問題であった。


 どのような経緯で、どのような私怨で、どのようなルールでその試合が行われていたのか、当人たちが頑なに口を割らないので詳細は未だに不明。


 マネージャーと練習熱心な部員が集合時刻よりもかなり早めにやってきた時、もはや鍵が開いていたことを不審に思いつつ道場の扉を開けた。


 するとつい今しがたまで真剣勝負が行われていたらしい熱気と殺気、凛とした空気が場内を満たしていた。


 道場の中央付近には二つの人影。


 部内でも一際体の大きい男子部員の茫然と立ちすくむ背中。


 その足元にうずくまる沙希。


 そして右手で顔を覆った彼女の指の隙間からしとどに零れ落ちる鮮血が、道場の床を赤く赤く染め上げていたのだそうだ。



 どちらにも処分の沙汰はまだ降りてはいない。


 当事者二人の精神状態がまだ不安定、特に、男子部員の方はかなり深刻で、とりあえず謹慎を言い渡されてからというもの、まともに食事も摂らないままずっと寮の部屋に籠り切りでいるようだ。


 沙希の方は……やはり彼女の両親から伝え聞いただけなので、本当のところはわからない。


 ただ、一時のショック状態からは随分と立ち直り、体調の方は良好のようだ。


 実家に戻って静養しているがこちらも一応謹慎中、出歩くことはせずに大人しく部屋にいるらしい。


 沙希の両親はまず、ケガの一報を入れて以来、何も連絡をしなかったことを啓次に心から詫びた。


 正直、あれから随分ヤキモキしていた啓次は当然不満も貯まっていた。


 沙希を心配する気持ちは肉親にも負けていない自信があったのだ。


 しかし、幼い時分、身内だからと言って特別贔屓もせずに厳しく剣の指導をしてくれた巌のように大きな師範が、自分の前で深々と頭を下げる様を見てしまえば、何も言えなかった。


 ―― 啓次には何も言わないで ――


 手術を終え、麻酔から覚めた後に沙希はそう言ったらしい。


 少しナーバスになっているせいだと両親は思っていたが、それが毎日、毎日。


 朝のおはようや夜のおやすみを言うみたいに、一日のどこかで必ずそう念を押し続けた。


 それでは啓次にあんまりではないかと説得は試みてくれていたらしいが、やはり当人の希望を一番に尊重して結局最後まで何も言えなかったらしい。


 啓次がむっすりと黙るのを怒っているのだと勘違いした沙希の父親は、その言葉を額面通りに受け取ってはいけないとフォローした。


 同じく同席している啓次の両親も、沙希の母親も、年頃の娘としてケガをした姿を見せたくなかったのだろうだとか、大事な弟分に余計な心配をかけたくなかったのだろうだとか、沙希が言外に含んだ、あるいは言葉足らずになった部分を皆で懸命に補ってくれた。


 そんな彼らの優しさも啓次の耳には殆ど入らなかった。


 本当に怒っていたわけではいし、悲嘆にくれて落ち込んでいたわけでもない。


 ただ啓次は考えていた。


 深く、深く、より深く……。


 沙希の言葉を何度も何度も頭の中で反芻し、大人たちとはまた違う角度から言葉の意味を深く深く考察した。


 何も言わないで、か……。


 面会に来ないでとか、顔を合わせたくないじゃない、サキ姉は言わないでと言ったんだ。


 ……ケガのことは知っていたし、今更それは秘密にはならない。


 秘密は他にある。


 ……ではそれはなんだろう?


 ……気になるのはおばさんが最初に言っていた『命だけは問題ない』だ。


 ……ケガ

 ……命以外

 ……野試合

 ……防具がない

 ……面、胴、籠手、垂がない

 

 ……血……血が出ていた

 ……誰の?……サキ姉の血


 ……うずくまったサキ姉

 ……右手から血……手から血?

 

 ……いや、手は顔を覆っていた

 ……鼻血なら鼻を抑える

 ……頬なら頬を抑える


 ……顔……顔……顔全体ならば両手を使う


 ……片手……右手……顔の右半分


 「………………右……目?…………」


 どこぞの小説の探偵役のように推理をしておきながら、導きだした自分の答えのあまりの残酷さに、啓次は思わず眉をひそめた。




 ―― お祭り、行行こっか ――


 さて、迷探偵・啓次の推理はいかに?


 いろいろと後の祭りな謎解きは、夏祭りの夜に……。

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