第8話・こんな、夏祭りもあっていい

 『お祭り、行こっか?』


 暦は八月。


 先月から曇りがちな天気が続いてその兆しはうかがえていたが、後に≪史上稀にみる冷夏≫評されることになった、その年の夏の盛り。


 電話口から聞こえてきたのは、約一か月ぶりに耳にする沙希のハスキーな声だった。


 啓次はずっと待っていた。


 夏休み前のようにどうにかして連絡を取ろうと悪戦苦闘することもなく、


 ベッドの上で枕を抱えながら身悶えることもなく。


 ただ沙希の方で覚悟が定まれば自ずと会ってくれるだろうと信じ、ひたすらに座して啓次は待ち続けた。


 ―― 会ってくれるんだね、サキ姉…… ――


 沙希からの誘いに飛びつくように即答し、待ち合わせの場所と時刻を決めてから啓次は電話を切った。

 

 ―― ん?……待ち合わせ?…… ――

 

 そして、何とは言い難い妙な座りの悪さに首を傾げる間も惜しんで、慌てて身支度を整えた。



 


 毎年、お盆時期に地元の神社の主催で行われる夏祭り。


 そもそもの始まりはこの辺り一面が畑だった頃の豊作祈願のためだとか、お盆で帰ってきた死者への手向けだとか大層なお題目があるのだが、人々の大半はそんなものを意識せず、露店やささやかな花火、町内会対抗の出し物大会だとかを目当てにやって来る。


 もちろん啓次だって御多分に漏れることはない。


 その殆どを啓次は沙希と一緒に参加した。


 幼い頃は両家族で、ある程度大きくなると二人きりで。


 啓次がこの地元の小さな祭りのことを思い出す時、そこには必ず沙希がいた。


 「はっはっはっ……サ、サキ姉……」


 すっかり慣れたものだと思って甘く見ていたが、想像以上の混雑ぶりに走ることを余儀なくされ、なんとか待ち合わせ時刻ギリギリに到着した啓次は息を荒げながら、沙希の姿を探し求めた。


 沙希が待ち合わせ場所に指定した神社の鳥居の前には、彼らと同じように連れ合いを待つ者や、これから祭りに向かう者、反対に早々と帰路に就く者とでごった返していた。


 まるで街中の人間すべてがあまねく集結したのではないかと思わせるほどの人口密度だ。


 ―― あれ?この祭りっていつもこんなに盛況だったっけ? ――


 一年に一度の催しとはいえ、所詮どこにでもある地方都市のどこにでもある小さな街。


 その中で由緒も規模も中途半端な神社で執り行われる、その夜のように空模様が怪しくなると直ぐに開催が危ぶまれてしまうくらい極々小さく退屈な夏祭りだ。


 行く道であんなに人混みに押し出されたり、こんなふうに待ち合わせ相手を必死になって探した経験など今までなかった。


 ―― ……経験がない?……あ ――


 「そっか、そもそも待ち合わせなんて今までしたことなかったんだ……」


 啓次は沙希から電話を受けて以来なんとなく感じていた違和感の正体がようやくわかった。


 祭りに出かけるとなれば、いつだって沙希が啓次を家まで迎えに来てくれて、神社へ続く道まで手を引いたり服を掴ませたりして先導してくれていたのだった。


 愚図でノロマな弟分がはぐれないように。

 人にもまれて潰されないように。

 一人ぼっちで寂しくならないように。

 

 沙希はいつでも啓次を導いてくれていた。


 「サキ姉……どこだ……サキ姉……」


 啓次は人込みの中で首を忙しなく回す。

 

 言い知れぬ焦燥感。

 そぞろになる心。


 各々に目的は違えど、押し並べて祭りの雰囲気にあてられて幸福そうな顔をしている人々の中で、啓次だけが一人、切迫した表情を浮かべていた。

 

 それを訝しがる者がすれ違いざまにチラリと彼を見るが、構うことはない。


 「サキ姉……サキ姉……サキ姉ぇ!!どこだぁ!!」


 啓次は人いきれを掻き分け、人波にもまれ、それでもただ大事な大事な幼馴染の名前を叫び続けた。

 


 「……啓次」


 そんな啓次のすぐ後ろから、小さく彼を呼ぶ声が聞こえた。


 この一か月、聞きたくても聞けなかった……直接この鼓膜を震わせてほしいと切に願っていた声。


 どれだけ小さく、祭りの喧騒にかき消されてしまうのではないかというくらいにか細いものであっても、絶対に聞き漏らすことのできない愛しい声。


 ハッキリと耳に届いたその自分の名を呼ぶ心地よい響きに、啓次はガバリと勢いよく振り向いた。


 「っつ!!サキっ……ね……ぇ……?」


 瞬間、啓次は目と言葉、そして心のすべてを一息に奪われた。


 「…………」


 そこには提灯や照明の逆光をうっすらと浴びて立つ、結城沙希がいた。


 トレードマークであるポニーテールよりも凝った結い方をされた、薄い色合いの長い髪。


 前髪が右目を覆うように垂らされることでより際立つ意志の強そうな左目。


 その目の上の方の髪を留めた名前も知らない小さく鮮やかな紅い花の飾り。


 その飾りと揃いになるかのようにほんのりと紅を引いたプルリと肉感的で艶やかな唇。

 

 そして浴衣。


 白地にアサガオと思われる紫や薄桃色の花の模様が描かれたデザインはシンプルこの上ない。


 しかし、それを補うようにした帯の色は濃い紅色。


 髪飾りや唇に引かれた紅よりも少しだけ明度が抑えられているために決して派手になり過ぎず、けれど確かに主張するハッキリとした色味。


 帯留めの黒が更に引き締めの効果を与えてくれることによって、浴衣とそれを着る主役である本人をしっかりと引き立てている。


 小さな頃の沙希でも、少女と女の狭間で揺蕩う不安定な頃の沙希でもない。


 日本人特有の奥行きのある艶さを持った、女としての一つの完成系。


 完璧な『美』を全身に纏った沙希がそこにいた。


 「………………」


 あまりにも眩しすぎるものを見た時、人は目をつぶるのではなく見開いてしまうものなんだなと、割とどうでもいいことを啓次は思った。


 いや、それくらいのことしか思考できないほど啓次は驚き、完全にフリーズしてしまったのだった。



 「…………」

 「…………」


 互いが互いを見つめる。


 「…………」

 「…………」


 互いが互いの空白を埋め合うように。


 「…………」

 「…………」


 互いが互いの心に触れ合うように。

 言葉以外の何かで語り合うように。


 二人、そっと、溶け合うように……。


 何者も踏み込むことのできない二人きりの世界の中で、啓次と沙希は、ただただ見つめ合った。



 「……久しぶり、啓次」


 どれくらい、そうしていたのだろう。


 ボォっとする啓次に、小さく微笑みながら沙希の方が最初に口を開いた。


 「それで?女の子との待ち合わせに到着したらなんて言うんだっけ?」


 いつものからかうような調子。

 いつも通り頼りない弟分に呆れたような調子。


 一か月前もその前も。


 変わらず啓次の背中を押し続けた、凛とした結城沙希の声だ。


 「その辺りの甲斐性、私ちゃんと教育したつもりだったけど?」


 「えっと……遅れてごめん。ま、待った?」


 「待ったわよ」


 「待ったの!?」


 「待ったわよ、すっごく」


 「い、いや、そこは今来たところだよとか……」


 「そして、浴衣でめかし込んだ女の子に言うことは?」


 「えっと……その浴衣、似合ってる……ね?」


 「なんで自信なさげなのよ」


 「あ、いや、ごめん。すごく似合ってるし素敵だけど……なんだか……」


 「なんだか雰囲気が大人っぽいでしょ?」


 「うん……あ、その浴衣ってもしかしたら」


 「そう、亡くなったあばあちゃんのヤツを借りたの。子供の頃はこの浴衣が羨ましくて何回も着たい着たいっておねだりしてたけど……思えば、やっぱり少し地味よね、これ」


 「そんなことない」


 珍しく、啓次はキッパリと言い放つ。


 「すごく……すごく綺麗だよ、サキ姉」


 「……そ、アリガト」


 沙希は素っ気なく礼を言いながら、クルリと背中を向けてしまう。


 「……ま、アンタにお世辞でも綺麗だって言ってもらえるくらいには、私も大人になったんだろうし、アンタもまた恋をするくらい一丁前になったってことなのかな」


 「サキ姉……」


 その時、沙希がどんな顔をしていたのか啓次にはわからない。


 それでも、見つめる彼女の後ろ姿。


 全体的にゆったりとした優雅な曲線を描きながら、浴衣の生地を押し上げる悩まし気な肉付き。


 祭りの灯りにも負けない輝きを放つ、白くて艶めかしいうなじ。


 確かに、その匂い立つような色気は子供では決して纏えないし、ドキリと感じることもできない。


 そう、沙希も。

 そして啓次も。


 いつまでも、無邪気な子供のままでいられない。


 「……行こっか……」

 

 「……うん……」


 二人は歩き始める。


 参道の真ん中を、不思議と誰にもぶつからず。

 


 

 「…………」

 「…………」


 終始、二人は無言だった。


 「…………」

 「…………」


 幾つか語るべきことがあったハズだ。


 「…………」

 「…………」


 色々と聞かなければならないこともあったハズだ。

 

 「…………」

 「…………」


 しかし、二人は言葉を交わさない。


 それらの失われた言葉の中に、より大切な何かが隠れてでもいるんだとばかりに。

 

 二人は頑として言葉を交わさない。


 


 ……代わりに、過去の残滓が彼らの横を行き過ぎる。



 ヒーローのお面を被って啓次に飛びついてくる沙希がいた。


 自分の顔よりも大きな綿あめに齧り付いて満足そうな啓次がいた。


 意地になって金魚すくいに小遣いの全部をつぎ込もうとした沙希がいた。


 それを半ば泣きながら必死でなだめようとしている啓次がいた。


 射的で落としたキャラメルを仲良く分け合う二人がいた。


 リンゴ飴とアンズ飴を交換し合う二人がいた。 


 小さい沙希。

 中くらいの沙希。


 男の子みたいに半ズボンをはいた沙希。

 恥ずかしそうに短いスカートの裾を気にしている沙希。


 はぐれないようにずっと繋いでいた小さな右手。

 いつの間にか繋がなくなったマメだらけの右手。


 啓次の左に沙希。

 沙希の右に啓次。


 響く祭囃子。

 灯る提灯。

 回る風車。


 真っ暗な夜空。

 舞い上がる蛍。


 咲く花火。

 散る花火。


 啓次の右に沙希。

 沙希の左に啓次。


 自然に搦められる手と手。


 努力を知らない啓次の右手。

 努力しか知らない沙希の左手。


 まだ恋を知らない男の子。

 すでに恋をしていた女の子。


 二人は、静かに歩き続ける。


 こんなまわり方の夏祭りも、あったっていいじゃないかとばかりに。


 「…………」

 「…………」


 二人は……ただただ歩き続ける。



 ポツポツ、

 ポツポツ、

 サァー……


 ついに雨が降り始める。

 

 ポツポツと雨が降る。

 サラサラと雨が降る。


 より騒ぎを増す喧騒。

 雨を避けるべく駆け出す人々。


 変わらずにゆっくりと歩みを進める二人。


 変わってしまったあれやこれやに、向き合うことを決めた二人。  

  

 ……啓次ぃ

 ……私、ぜんぶ

 ……なくなっちゃったよ


 ……お願い

 ……ぜんぶ

 ……忘れさせて?


 ……ねぇ


 ……啓次ぃ

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る