第6話・いわゆる、幼馴染

 ***

 

 沙希との出会いのキッカケを、啓次は正直思い出せない。


 おそらく家が近かった、両親同士の仲が良かったというありきたりな理由だったのだとは思うし、実際その通り家も近くて親も仲が良かった。


 ただ少なくとも、物心ついた時には既に結城沙希は当たり前に啓次の傍にいて、当たり前にその暴虐ぶりを発揮していた。


 啓次よりも四歳年上の活発な少女。


 身長も高ければ物言いも男勝り。


 家が剣道場を開いていたために幼い時より修練を欠かさなかった彼女は、そこいらの子供連中など及びもつかないほどに腕っぷしも強かった。


 生粋のヘタレ君である啓次が沙希に目を付け……いや、目をかけられたのは、もはや生まれる以前から定められた前世からの宿命であったのかもしれない。

 

 ―― わたしのほうがお姉ちゃんなんだから『お姉ちゃん』とよびなさい ――


 それまで『サキちゃん』と呼んでいた啓次は、ある日突然、姉であることを強要された。


 上に兄が二人いるだけで末の娘であった沙希が急にお姉ちゃんぶりたくなったとかいう他愛もない理由だったのだろう。


 啓次にしても特に深く考えもせず、素直に『おねーちゃん』と沙希を呼ぶようになり、やがてその呼び方は成長するにつれて『姉ちゃん』、『サキ姉ちゃん』、最終的に『サキ姉』という感じにシフトしていった。


 一応、兄にとっても彼女は幼馴染ではあった。


 だが、人一倍プライドが高い兄は、年下の、それも女の子に威張られるということがとにかく気に食わなかったらしく、どちらかと言えば年の近い沙希の兄達の方と仲良くし、彼女とほとんど接点を持とうとしなかった。


 沙希は沙希で秀才ぶって澄ましたところが鼻につくと言って兄を毛嫌いしていたから、二人の間には自然と距離が開いたのは必然であった。


 一方で、その分というわけでもないが、とにかく沙希と啓次の距離感は本当に近かいものだった。


 普段の遊び、母親から頼まれたお遣い、家族で出掛けるたまのレジャー。


 どちらかがどちらかの家に大体同行した。


 結城家の剣道場にさえ啓次はいつの間にやら入門させられ、そこでもまた二人一緒に鍛錬に励んだ。


 大げさではなく、一時期は互いに家族といるよりも長く同じ時間を共有していたのではないだろうか。


 大半は沙希が強引に引っ張りまわしたり押しかけたりとしたもので、啓次の意思はまったくと言っていいほど介在しなかった。


 そのことを時に不満に感じないわけでもなかったのだが、啓次自身、根底では彼女と過ごす時間は何より楽しく、厳しさの中にも必ず同じかそれを上回るだけの優しさを含んだ沙希の態度をとても好ましく感じていたのだった。


 何も自分で決められない啓次と、何もかも自分で決めてしまう沙希。


 相性としてはこの上なく最良のものだったろう。


 これが都合よく男と女。


 周囲の人間が二人の関係について勝手に邪推するのは至極当然のことだった。


 だが二人は恋仲ではなかった。


 少なくとも啓次の方ではそんな色気のある感情など茶匙一杯ほどにも持ち合わせてはいなかった。


 啓次としては、自分達の関係を男女という性差以前に、親分と子分という身分の差で計っていた。


 啓次にとって沙希は、いつだって迷わず、悩まず、心に一本筋が通り、間違いを間違いだと言って切り捨てることのできる強さをもった、尊敬する一人の人間であり、それ以上、何かを思うことはなかった。


 そう、恋も性もわからぬ幼子の頃からの刷り込みのせいで、啓次は沙希のことを無意識のうちに『女』という枠組みから外して見てしまっている節があった。


 だから啓次は、歳を重ねていく毎に女らしい丸みを帯びて成長し、日に日に凄みを増していく沙希の美しさや魅力にまったく気が付くことはなく、いつまでも子供のように無邪気に、誰よりも気安くできる友人として接していた。


 沙希の気持ちなど……こちらは真っ当に啓次を確かな『男』として意識していた彼女のもどかしさなど露知らず。



 そうして時はめぐり、やがて愚図でヘタレと名高い塚原啓次にも、遂に初恋を捧げられるような女性との出会いがあった。


 ほんの数日、ほんの一夜の深い関わりで、啓次の異性への興味は純粋なものも不純なものも、すべてその兄嫁の方へと注ぎ込まれることになった。


 会えない慕情、

 募る恋慕、

 持て余す劣情、

 試される倫理……。


 恋した相手が相手なだけに誰彼かまわず相談できるわけもなく、無力さと閉塞感にとらわれて鬱屈した毎日を過ごしていたその年の夏……。


 「どうだ!!どうだ!!このこのこの!!」


 新たな季節の始まりを、啓次は結城沙希の腕と薄着越しにムニムニと押し付けられる乳房の柔らかさの中で迎えた。


 「いたいいたいいたいいたい!!!」


 「いいから吐け!いい加減ゲロれ!」


 ……まぁ、補足として付け加えると、あまりにも理想的な卍固めが決まってはいたのだが。


 「ギブギブギブギブ!!!」


 「GIVE?そうかそうか、もっと欲しいかこの欲張りさんめぇ♪(ギリギリギリ)」


 「ノー!ノー!ノット!ノット・ギブゥゥゥ!!」


 「そうかそうか、ギブアップはしないと?大した根性……ねっ!(ギリギリギリ)」


 「ノ~~~!!!!」


 この時、啓次十六歳、沙希ニ十歳。


 互いに良い歳になっているはずではあるのに、相変わらず二人は小学生男子の休み時間のように色気もないじゃれ合いを繰り広げていた。


 沙希の実家が剣道場を開いているのは前著したが、大学生となっていた彼女は、とっくに免許皆伝を授かり、師範代に席を置く立派な剣客だった。


 そのまま進学せずに道場を引き継ぐなどという話も当然持ち上がっていたところ、一つの道場の中で終わるのではなく、もっと見聞を広げ、更なる高みへ挑戦したいと言った沙希の強い希望で、彼女は地元の近くにある体育会系の名門大学へと推薦で入学していた。


 競技人口が年々減る中、やがては柔道のようにオリンピック競技の一画を担うメジャースポーツにするんだと、幼い時より宣言していた沙希らしい選択であった。


 啓次と沙希。


 互いに心も体も成長し、ある程度立場が出来てくると、さすがに子供の頃に比べて会う頻度は極端に減った。


 それでも啓次は変わらず実家住まい、沙希も電車で三駅ほど離れた学生寮暮らし。


 週末やその他の日でも沙希は時間を見つけてはちょくちょく実家へ帰って来たので、二人が疎遠になるということは決してなかった。


 今や大学ミスコン、学生限定の剣道国際大会ともに二年連続グランプリホルダーという美貌と強さとを持っているにも関わらず浮いた話などない結城沙希。


 それほど足しげく実家に帰るのは、きっと地元に男がいるのだと学内では実しやかに囁かれていたりもした。


 しかし、その実。


 いつまでたっても頼りない弟分が心配で、ついつい足が向いてしまうというのが本当のところだった。


 「で、何があったの。啓次?」


 観念した啓次から白状するという言質を引き出した(絞め出した?)沙希はようやく拘束を解き、自動販売機で買った缶コーラを差し出しながら、改めて彼に尋ねた。


 五月くらいから明らかに何か悩み事を抱えていた啓次が自分に相談してくれるのを沙希は待っていた。


 昔から色々と溜め込みがちな性質で、基本ヘタレな癖に取り合えず自分で何とかしようとして結局何もできず、最後には申し訳なさそうに沙希へと泣きついてくるというのがこれまでの通例であった。


 だから彼女はその時が来るまで自分からは何も働きかけはせず見守ることに徹していた。


 それなのに、一週間経ち、一か月経ち、二か月が経っても啓次は沙希を頼らない。


 それでいて解決したようにも見えず、顔を合わせる度、より苦悩の深みへとはまり込んでいるようだった。


 そして七月。


 いい加減痺れを切らした沙希は部活の短期合宿を終えるや否や電車に飛び乗り、Tシャツとジャージという格好のまま啓次の学園の校門前で待ち伏せ、何も知らずにトコトコと下校してきた弟分を問答無用で公園へまで拉致してからの卍固めのくだりだった。

 

 「何をそんなに悩んでるの?ラジオネーム『アネダイスキー』さん?」


 「……猟奇的な姉貴分がすぐに人を絞めてくるのですが、どうしたらいいですか?」


 「きっとそのお姉さんは生意気な弟分が可愛くて可愛くて仕方がなくて構いたいだけなんだと思います。たとえばこんな風に……」


 「あーごめんごめんごめん!!アイアンクロー!!剣道ガチでやってる人の握力でアイアンクローはダメだって!!こ、こめかみ!!こめかみが爆発する!!」


 「はぁ……戯言はいいから、本当にどうしたのよ、啓次?」


 「ううう……実は……」


 「ちなみに今度、下らないこと言ってはぐらかそうとした場合、もれなく『姉三角絞め』が付いてくるキャンペーン中だから」


 「!」


 「しかもポイント三倍」


 「!!」


 「……ほら」


 「……実は……さ……」


 どうやら一流の剣道家は肉体、精神を問わず弟分を絞め落とすことに関しても一流らしく、さすがに胡麻化しきれないなと思った啓次は、気が進まない様子でもポツリポツリと語り始めた。


 兄が結婚したこと。

 その相手とゴールデンウイークに会ったこと。

 その彼女が美人であったこと。


 笑顔が素敵だったこと。

 体つきがいやらしかったこと。

 優しかったこと。


 庇ってくれたこと。

 守ってくれたこと。


 一晩、一緒に眠ってくれたこと。


 ……そして、彼女に恋をしてしまったこと。


 啓次はゆっくりと慎重に言葉を選び、まるで大切にしまい込んだ宝物に触れるみたいにして優しく記憶を辿った。


 

 うまくまとめられない想い、だが偽りや飾りのない素直な想い。


 そんな風に改めて言葉にすることで、自分が本気で恋をしているのだと気が付いて、なんだか嬉しくなった。


 表情もまた自然と緩み、啓次は微笑み混じりに次々と沙希に向かって気持ちを吐露していった。


 「…………」


 公園のベンチに並んで腰掛け、沙希は弟分の話に耳を傾けた。


 初めのうちは足りない事実を補完するために質問をしたり、相槌を挟むふりして折れそうな啓次を鼓舞したりした。


 しかし、中盤から……特に話の中に巡莉が頻繁に現れるようになってからはすっかり口をつぐみ、沙希がただの聞き役に徹していたのを、自分語りで手一杯の啓次は気が付くことはなかった。

 

 「……ふぅぅぅ……」


 どれくらいの時間がたっただろう。


 一つ大きく深い溜息を吐いたのを区切りに、啓次は語り終えた。


 さすがに半裸の巡莉に体を寄せられて欲情したことまで話すのは憚られたので伏せはしたが、それ以外、あの夜からずっと誰にも言えず自分の中で滞留し、そろそろ濁りが浮かび、本格的に胸中を苛み始めてきたものを洗いざらい吐き出した。


 「とりあえずこんな感じ。……長々とごめん」


 啓次はだいぶ心も体も軽くなったような気がした。


 そっくり水槽の水を入れ替えるがごとくスッキリとした胸の内は、大袈裟ではなく、生まれ変わりにも似た心持だった。


 何の解決策もまだ見つけてはいない。


 問題は問題として変わらずそこにあり続けているというのに、なんとなくすべてがうまい具合に……この恋が成就するしないに関わらず、すべてが良い方向に向かってくれるのではいかという希望的観測すら抱くくらいの余裕ができた。


 やはり結城沙希は、いつでも啓次を助けてくれるヒーローだ。


 「ホント、楽になったよ。ありがとう、サキ姉」


 「…………」


 「うん、まぁ……そんなわけでさ」

 

 「…………」


 「要するに、ちょっと厄介な相手に……恋……しちゃったってことなんだよ、ははは」


 「…………」


 「いやぁ、それにしてもまさか自分が恋の悩みを抱えることになるだなんて思ってもみなかったよ。……しかも人妻……しかも兄さんのお嫁さんだなんてさ、笑えるだろ、サキ姉?……ん?……サキ姉?」


 「…………」


 悩みの種が小さくなったことで、気持ちが大きく……ようするに我知らず調子に乗っていたのだろう。


 珍しく饒舌になっていた啓次は、そこでようやく、沙希が先ほどから黙りこくり、自分の方を見ずに地面ばかり眺めているのに気が付いた。


 「……サキ姉?」


 「…………」

 

 啓次はおそるおそる沙希の顔を覗き込もうとしたが、その動きに合わせるように、彼女は顔を逸らしてしまった。


 不機嫌?

 苛立ち?

 それとも怒り?


 沙希が悩んでいる啓次の心の機微を誰よりもいち早く察したとの同じように、啓次もまた、姉貴分の感情の揺れを計るのは誰よりも得意だという自負があった。


 しかし、その時の彼女から醸し出されている張りつめた雰囲気……俯き、肩を震わせ、膝の上で強く握り込まれた拳のどれからも、啓次は沙希の心情を読み取ることができなかった。


 かれこれ十六年にも及ぶ長い付き合いの中、そんな痛ましげな姿の沙希を啓次は見たことが無かったのだ。


 「……サキ……姉?」


 「…………」


 「ねぇ、サキ姉、大丈夫?」

 

 「……さい……」


 「具合悪いのサキ姉?……ああ、今日はなんだか涼しいもんね。Tシャツ一枚じゃちょっと冷えるでしょ?僕のカーディガン着る?ちょっと汗臭いかもだけど」


 「……さい……ってば」


 「え?」


 「…………」

 

 「サキ姉?」


 「うるさいって言ってんのよ!このバカ!!!」


 「ひっ!」


 突然、沙希は顔を上げてキッと睨みつけるように啓次の方を向いたかと思うと、そう大声で怒鳴り散らした。


 「うるさいのよこの色ボケ変態バカ!バカ!大バカ!」


 「ちょ、サ、サキね……」


 「大丈夫かって!?大丈夫よ!!冷えるかって!!?冷えるわよそりゃ!!」


 「ええ!?ちょ……」


 「ああ、もう!うるさいうるさいうるさい!バカバカバカ!好きでもない女に優しくすんな!この浮気もん!ヤリチン野郎!」


 ベンチから立ち上がりながら一際大きく声を張り上げた沙希。


 「サ、サキ姉!!ちょっと待っ……」


 「貸しなさいよそれっ!!」


 「は?」


 「っつ!!寒いのっ!!」


 と、啓次の体から引きちぎらんばかりの勢いでカーディガンを強奪した後、真っすぐ彼のことを睨みつけ、沙希はそのまま公園の出口の方へと走り去った。


 「……えっと……」


 啓次が制止しようと伸ばした手は沙希には届かず、ただ虚空を掴むばかりでさまよい続けた。


 二人が座っていたベンチの足元では沙希が落としていった、口を空けてからほとんど口を付けられず仕舞いのコーラが、シュワシュワと缶の口から勢いよくこぼれ、地面を濡らしていった。


 「……サキ姉……あれ、泣いてたん……だよな……」

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