第二章・サキ ~初めてになれなかった恋~

第5話・いわく、運命の再会

 「いってらっしゃい、啓次さん。これお弁当です」


 巡莉がいつものように弁当の包みを渡しながらニッコリとした笑みを浮かべ、大学の講義へと向かう啓次を見送る。


 「ありがとうございます。じゃあ、いってきます」


 「今日はアルバイト、お休みでしたよね?講義の後は、真っすぐお帰りになる予定でしょうか?」


 「そうですね……特別な用事はありません。だけど、ちょっと本屋と、駅前に出たついでに幾つか講義で必要となる物をまとめて買ってこようかとは思いますが」


 「はい、わかりました。それではお夕食もそちらに合わせてご用意いたしますね」


 「……いつもいつも僕の都合に合わせてもらってすいません、義姉さん」


 「いいえ、いいえ。とんでもない」


 「普段はともかく、バイトで遅くなる時くらい僕に構わず先に食べていてくれてもいいんですよ?」


 「まぁ、またそんなことを」


 「いや、あんまり遅くなるとこちらも申し訳なくて……」


 「私のことなら気にしなくても大丈夫です。家族がご飯を共にするのは当たり前のことなんですから」


 「それでも……」


 「というか……」


 と、巡莉はジリッと啓次の方へにじり寄り、その顔を下から覗き込むようにして言った。


 「単に私が寂しいだけなんです、啓次さん。だから何も気にせず、私のワガママに付き合ってくれれば嬉しいです♡」


 巡莉は悪戯っぽく片目をつぶった。


 見た目の大人っぽい清楚さとは裏腹に、彼女はよくそんなわざとらしくも愛らしい仕草をする。


 それは一緒に生活をするようになってから気づいた巡莉の新たな一面でもあった。


 啓次は、ともすれば七歳の年の差など通り越して更に自分よりも年下に見えてしまう彼女の少女のような無邪気さを目の当たりにする度、幻滅するようなこともなく、むしろ自分がひた隠しにする淡い恋心を改めて再認識させられる羽目になった。


 三年前のあの夜から、啓次は変わることなく巡莉に恋をしていた。


 しかし、それから顔を合わせたのはほんの数回、もちろん添い寝をされるようなこともなければ、二人切りで話をするような機会もまったくなく、盆暮れの挨拶程度の言葉を二言三言交わしたくらいなものだ。


 それでなくても人の妻、何を置いても自分の兄の嫁。


 関係を発展させたいという欲求は元より皆無であり、初恋は初恋、この想いは誰にも告げず、ただ憧れのままで終わらせようと啓次は思っていた。


 それがどうだ。


 この春から本人もあずかり知らないうちにその相手と同居、しかも二人きりで暮らすことになるなど、誰が想像できただろうか。


 恋する自分に対する天の粋な計らいだと気楽に考えられる性格ならばよかったのだが、そこは塚原啓次。


 喜びの気持ちよりもまず、試される倫理観やちょっとした彼女との触れ合いに揺れ動く自分の心に苦悩してしまう毎日だ。


 唯一の対抗措置として、彼女のことを名前ではなく『義姉さんねえさん』と呼ぶことでどうにか均衡を保とうと苦心する彼のことをどうか笑わないでほしい。

 

 恋に恋をし、しかしその恋に溺れてはいけないのだと足掻く男が、熟慮の末にたどり着いたささやかな、本当にささやかな抵抗なのだ。


 ―― 僕……兄さんがアメリカから帰ってくるまで保つかな…… ――


 青い性衝動……ももちろん含まれるが、それより何より、憧れの人が日々上方修正に更新してくるその美しさや愛らしさに、いわゆる『キュン死』してしまうのではないかと啓次は割と本気で心配していた。


 ―― 結局、あの夜のこともウヤムヤなままだし……。はぁ……このままでいいわけないよな、色々と…… ――


 塚原啓次の苦悩は続く。


 この恋心のやり場も。

 不甲斐ない自分のことも。


 ……そしてもう一人、いまでは疎遠になってしまった、ある意味では巡莉よりも啓次にとって大切な彼女のことも。


 ☆★☆★☆


 ―― お、あったあった ――


 午後の講義も終わり、いそいそと大学を後にした啓次は、真っすぐ駅前にある大型書店に足を運んだ。


 そして入り口をくぐってすぐの新刊コーナーに平積みされた本の山を見た瞬間、その時ばかりは日々の苦悩も忘れて啓次は心からの幸せを感じた。


 啓次は本を読むのが幼い頃より好きだった。


 活字中毒を語れるほど泥濘しているわけでもないし、その趣味が目に見えて何か人生の役に立ってくれたという経験は今のところなかった。


 しかし、小説を読む、物語の世界にどっぷりと浸かるという行為は、悩み多き青春真っただ中の啓次にとって、この世のあらゆる些事を一刻忘れさせてくれる貴重な時間だった。


 その日は、中でも啓次が特に好んで愛読している純文学作家の最新刊が発売される日だった。


 あまりメジャーな作家とは言い難く、読者を選ぶ作風ではあるが、その荒々しくも繊細、前衛的でありながらもどこかノスタルジーを誘う独特な文体は、啓次の心を魅了して離さない。


 ―― さすが都内!ちゃんと発売日に店頭に並んでいるだなんて! ――


 地方出身の読書愛好家にとって、わりとあるあるなのではないだろうかと思われる感慨に囚われながら、啓次は他にも幾つか目新しい本を数冊物色してから、ホクホク顔でレジに並んだ。


 「……ん、啓次?」


 「え?」


 会計を済ませ、大事そうに本の入った紙袋を抱えながら店を出ようとした啓次は、誰かにそう声を掛けられて顔を上げた。


 「啓次!!やっぱりあんた啓次じゃないの!?」


 「……え?……あ……げ!サ、サキ姉⁉」


 ちょうど啓次とは入れ違いに店内へ入ってきて声を掛けたらしい相手。


 その女性の姿を認めた瞬間、啓次は驚愕のあまり力が抜け、宝物のように胸に抱いていたはずの本を思わず取り落としたが、女性は素早く左手を伸ばしてその紙袋を空中でキャッチした。

 

 「と……。ほら、何やってんだか。相変わらずグズね、アンタ」


 呆れたように笑いながら紙袋を返す、その大人びた声と耳にかかった栗色の髪を後ろへ払う優雅な所作……。


 間違いない。


 彼女は啓次の幼馴染である結城沙希ゆうきさきその人であった。


 「……っていうかあんた。『げ!』って何よ『げ!』って」


 「え!?……いや……あれは……ははは」


 「まったくもう……せっかく久しぶりにあったっていうのに随分じゃない」


 「ええと……あれはほら……突然のサキ姉に条件反射的にビックリしたというか……」


 「ううん?」

 

 「いやいやいや。久しぶりに会ったサキ姉のあまりの美しさに驚いたというか!!」


 「……ま、そーゆーことにしておきましょうか」


 取って付けた言いように納得はしていないようだったが、取り合えず許してもらえたようで啓次はホッとする。


 それでも、彼はまるっきり口から出まかせを吐いたというわけでもなかった。


 結城沙希。


 二年と少し振りに会った彼女は、このところ巡莉という最高ランクの美しさをほこる女性と同居して肥えてきた啓次の目を持ってしてもハッとさせられるほどの美人だった。


 仕事中なのだろうか?


 色素の薄い茶色がかった肩口辺りまでの髪を結ったポニーテール。


 一目で量販店の物ではないだろうとわかる仕立ての良いピッタリとしたダーク系のスーツとヒールの高い靴を着こなした姿。


 キリリとした眉やハッキリとした目鼻立ち、そして彼女自身が纏う凛とした雰囲気とも相まって、見蕩れるほどに恰好が良かった。


 タイトスカートから伸びる足はスラリと長い。


 ウエストの締りは着衣からもわかるほどに細く絞れ、白いブラウス越しに主張する豊かで形の良いバストをより強調するのに一役かっている。


 ファッションモデル……それも世界の有名ブランド、一着で二百万円もするとかいう次元のオートクチュールを自在に着こなすトップモデルのような、とにかく存在感と華やかなさのある沙希の美しさに、啓次はほんの一瞬でも我を忘れた。


 最後に会った時、海外に行くかもしれないと言っていたので、もしかしたら本当にそちら系統の仕事に就いていたりするのかもしれないと思った。


 実際、今も書店の入り口付近で二人は向かい合っているわけなのだが、店に来る客も出て行く客も、男性も女性も、老いも若きも関係なく、ほぼ全ての人間が沙希の佇まいに自然と視線を吸い寄せられているようだった。


 そんな美人と知己の仲で会話をしているのだから、正常な思考能力を持った男ならば優越感の一つも抱きそうなものだろう。


 しかし、当の啓次が浮かべる表情はそんなものとは程遠く、自分はこの人の前でどういった感情を持って振舞えばいいのだろうとでも言いたげに、ただただ戸惑っているという感じであった。


 「……しっかし、相変わらずの本好きねぇ」


 そんな啓次の心情を知ってか知らずか、少しハスキーな、それでいて耳障りの良い美声で沙希は言った。


 「その袋けっこう重かったし、二冊三冊じゃないでしょ?」


 「う、うん。まぁせっかく来たし、気になってたのをまとめて……それにバイトの給料も入ったから財布にも結構余裕があるんだよ」


 「バイト?へぇ、どんな?」

 

 「別に、普通のコンビニだよ」


 「コンビニ!?ぷっ……それって本気!?」


 「本気って……こんなことで嘘ついたって仕方がないだろ?」


 「へぇ……あんたが働いているっていうだけでなんだか不思議な感じなのに、よりにもよってコンビニかぁ。……あんた、ちゃんと接客できてるわけ?『いらっしゃいませ~』とか『ポイントカードお持ちでしょうかぁ~』とか」


 「……まぁ……ぼちぼち……かな」


 「ふふ、なぁにそのどっち付かずなの?ま、啓次だしね。なんとなくあたふたしながら働いてる姿が想像できちゃうけど。さすが文学少年、適切な表現じゃない」


 「ぶ、文学は別に関係ないよ。それに少年って歳でもないし」


 「歳といえば、そっかぁ。あんたもう大学生……っていうかどこの大学?」


 「……一応、K大だけど」


 「K大!?ぷぷぷっ!!それ本気!?」


 「だからなんで質問に答える度にそのリアクション!?」


 「だって……そんな……偏差値はともかく……そんなお坊ちゃま学校……というかリア充の巣窟みたいな……とこに……ぷぷ……啓次が……に、似合わない……」


 「……どうせ地味で田舎者で根暗な文学少年ですよ……」


 「ごめんごめん……でも……ぷぷ……ご、ごめん……お腹……お腹痛い……」


 「……はぁ」


 どれだけ見た目が大人びても、こういう人をネタにして笑うところはまるで変わってないんだなと啓次は溜息を吐いた。


 両手でお腹を押さえて屈みこむものだから、ただでさえ押しの強い乳房が彼女の笑いと連動してフルフルと揺れ、少しだけ過去の記憶をつついたが、劣情よりも呆れとも諦めともつかない懐かしさの方が勝った。


 「はぁ……久しぶりに笑った笑った」


 「……じゃあ、僕は行くから」


 「ちょ、ちょっとぉ。だからごめんってば。怒らないでよ、啓次」


 別に怒ってはいなかった。


 他の人間と違い、沙希が啓次のことをからかって笑う際、そこに特別な悪意は含まれていないことなど、彼は長い付き合いの中でよくよく承知していた。


 なので、啓次が一刻も早くこの場から去りたかった理由は別にあったのだが……。


 「それでK大はいいけど学部は?やっぱり文学部?サークルとかには入ってるの?ああ、そもそもどこに住んでるわけ?寮?それともまさか一人暮らし?っていうかあんた、料理とか掃除とかほとんど出来ないわよね?おじさん達がそんな冒険を許したの?」


 「ま、待って待ってサキ姉、グイグイ来過ぎ!!興味が津々過ぎる!!」


 「何よ冷たい。せっかく久しぶり会ったんだからいいじゃない。……それに……」


 何かを言いかけながら、沙希は啓次の頭からつま先までを視線をゆっくり走らせた。


 まるで吟味するように……というか実際、その啓次の佇まいから何かを推し量るべく数回にわたって往復される相変わらず鋭い視線に、啓次は思わず背筋をのばしてしまった。


 「……よし!!」


 そしてもう一度だけ啓次と瞳をからみつかせた後、『判決!』とばかりに声を上げた。


 「これからお茶しよう、啓次。だからちょっとだけ外で待ってなさい」


 言うが早いか、沙希は急に踵を返し、カツカツとヒールを鳴らして店内に入っていった。

 

 「……え?……ちょ、何?」


 急な流れについていけない啓次は慌てて沙希を呼び止めた。


 「何って本を買ってくるに決まってるじゃない」


 「いや、そうじゃなくて……」


 「いい?これは命令。偶然……というかせっかくの運命の再会がこれだけじゃ味気ないでしょ?」


 そこで沙希は首をクルリと回し、静かに啓次の方を見ながら……。


 「逃げたら殺すぞ♡」


 と、台詞の物騒さとは裏腹な、なんとも可愛らしい笑顔を咲かせてそのまま颯爽と書棚の方へと歩いて行った。


 その姿勢の良い背中と先ほど向けられた笑顔、優柔不断な啓次を有無も言わせず引っ張りまわす力強い言動。


 そのどれもに昔、ガキ大将として幼い自分の前に眩しく君臨し続けた一人の少女の面影があって懐かしく思うのと同時に。


 巧妙に隠し、他人が見てもわからないほど自然に振舞っているようだが、誰よりも近くにいて彼女を見続けた彼だけがわかる微妙な違和感……。


 その体の右半身を庇うような歩き方に、啓次は、いつか冷たい雨に打たれながら傷付きうなだれた一人の少女の弱々しい姿を自ずと思い出してしまった。

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