十三譚ノ弍 変容

 陽が昇ると同時に色々の支度が始まった。

 葬儀の参列者は全員追い出され、朝食を摂る暇も与えられずに騒がしくなり始める。

 引き継ぎ、委任状、同意確認、署名、複雑な事務作業は下の猫又達が受け持ち、私と猫又衆の幹部達は、会議を開いていた。

「まず手順についてご意見を募りたいと思います」

 私が頷くと、司会進行役の寧が目を伏せ手許の資料を確認しながら話を進める。

「今回は対応が遅れ、忘却がより進行した状態ですので、より強い災害を発生させなければなりません。これについて皆様のご意見をお聞かせください」

 最初に挙手したのは年嵩の行った幹部で、元は黒かったであろう胡麻塩の毛並みが目立っていた。

「どうぞ」

「矢張、ヒトに死を予感させるのは地震や大雨でしょうな。しかしどちらも加減が難しい上、発生させる事もまた然り。だがどれかを成功させる方法を見つけねばなりません私からは以上です」

 そこで一度言葉が切られると、次々に挙手の手が上がる。

 寧はその度、どうぞ、と短く指名しては書記に命じて記録させていた。

 一番多かった意見は、強い影響力を持つ妖怪に協力を仰ぐか、刺激するか。

 協力を仰ぐにしても、そう言った妖怪達は黄泉に居る場合が多い。

 往復に時間が掛かりすぎるので却下されていた。

 一番手っ取り早いのは外的要因によって刺激する事だが、此岸までその影響を轟かせられる者もまた少ない。

 かれこれ小一時間経過しているが、中々意見が纏まらず、革新的な計画がある訳でも無しにただただ時間が過ぎていった。

 窓の外の透明な空に蝉の声が染み入っている。

 空に鯨が泳いでおり、気温や湿気や蝉の声や、それら全てを吸収する様に思えた。

 ふ、と考える。

 すると無意識の内に挙手をしていた。

 気付いた頃には既に手遅れで、数秒前に寧から指名がかかった後だった。

 言葉足らずを必死に隠して、開かない口を開く。

「…………大鯰はどうでしょう」

 一気に場の視線が私に刺さった。

 そのまま続けろと、無言で促している。

「地中の大鯰は二柱の祭神に押さえ付けられていますが、それは頭と尾だけです。腹に刺激を加えればそれだけでも十分かと」

 刺さった視線を取り払うかの様に口にする。

 全て話し終わった後、解放感と共に軽度の目眩に襲われた。

 場の空気が一変し、一人だけ置いていかれる錯覚を感じた。

 手を伸ばしてもそれは空を切り、虚無が積もるだけだ。

 すると寧がこちらを振り向き、早口で捲し立てる。

「素晴らしいご意見をありがとうございます。わたくし共はそれぞれ向く方角が違う故に纏まらない事がしょっちゅうなのです。それを美事に、しかもたった一つの意見で満場一致させてくれました。誠に素晴らしい」

 どうやら興奮すると話す時の距離が近くなるらしく、捲し立てている間、鼻がぶつかるかと言う程近かった。

 それに気が付いてぱっと距離を取ると、部屋の外に黒を呼んだ。

「ん……お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ありませんでした。後は我々で纏めておきますので、糸殿は支度に取り掛かってください。黒に手伝わせます」

「はい。承知しました」

 私が言い終わるか終わらないかの内に、黒が襖を開けて私を連れ出す。

 何の準備があるのかと訊くと、着替えが主らしい。

 相応しい服装があるとかで、兎に角それに着替えて事に臨んでもらうと言う。

 黒は半ば走りながら部屋まで案内し、私はその後をついていった。

 通された部屋は宿泊した部屋ではなく、化粧品や櫛が置かれた鏡台や衣装が収められている部屋だった。

 臨時で用意されたとは言え、大きな丸窓が設えられて、しかも動かすのが難儀な鏡台もある。

 かなり豪華な空間だが、着替えるだけなら宿泊した部屋でもよかっただろうに。

「ここは鯉様のお部屋です」

 不意に、黒がぽつりと溢した。

「そうでしたか」

「今まで隠しておりましたが、私は以前お仕えしていました。ですので糸殿の事もよく覚えております」

 部屋の前で、一つ一つ噛み締める様に思い出しているのか、愛嬌のある顔に微妙な表情が浮かんでいる。

「ああ私も思い出したわ」

「手鞠?」

「私がこいさんに飼われる前から居た子よ。それより先は知らないけど」

「お久し振りでございます、手鞠様」

「いやだわ、今更様呼びだなんて。この子なんて呼び捨てよ?」

 手鞠と黒が生き証人同士で談笑し始めたので、私は先に部屋へ入って自分で出来る着付けを済ます事にした。


「いや~お待たせしました。つい昔話が弾んでしまいまして」

「楽しかったようで何よりです」

「……って何一つ着られていないんですか?」

 黒は部屋に散乱していた帯や羽織や袴を一瞥すると、一直線に私を構う。

「寸法が合っていないみたいで」

「そんな筈はないんですけどねえ……おかしいなあ。取りあえず私が着付けさせるので、じっとしててください」

 黒曰く、衆の衣装職人が昨日の内に目測で着物を選んだのだと言う。

 しかし羽織を着ていたのもあるが、何より私が細過ぎるので見誤ったらしい。

 肉が薄くついているだけで、骨が浮き出る程度だ。

 更に言えば元々の骨格が細いので尚更である。

 なので着付けには相当な手間を要する事となった。

「ああ~もう。腰が細過ぎるし足が長いしで帯が余るわ丈が合わないわで、糸殿は全くどうなってるんですか!」

「知りませんよ昔からこうだったんですから」

 私が衆に来た頃から知っていると言うならば、私が子猫の死体に憑依しただけと言う事も解っているだろうに。

「それにしてもよくこんな体型に合う服がありますよね」

「普段着も正装も自前ですが?」

「でしょうね!」

 圧倒的に余る帯と合わない裾、短髪で挿せない簪。

 どれもこれも衆が用意した衣装なのだが、私には合わなすぎる。

 細長く痩せぎすの体躯は、正に糸の様で。

 黒に裁縫箱を持って来させ、自分に丁度合う様調節する。

 作業している間、黒はじっと私の手許を見ていた。

 極端に帯が短くなったり、丈の長い着物を持って来させたりしたので、本当に丈が合っているのか判らないのだろう。

 自分でも自分用の着物を仕立てる時は、不安になる時があるので間違っていないのだと思う。

 こいさんが使っていたと言う裁縫箱から、これもまた使われていた縫い針と糸を出し、すいすいと縫った。

 やがて調整が終わり、着てみると丁度よく出来ていた。

 横で不安を抱えた目で見ていた黒も安心した様子で、次々と着物を差し出してくる。

 これら全て、調整しないと着られない。

 白衣と秘色の袴と羽織を着て、足袋は白。

 装飾品は何もなく、目立たないが上品で、しかし随処に施された刺繍は金糸だった。

 これが以前の猫王も着用したと言う相応しい着物だと、黒が言った。

 顔に白粉を薄く塗り、目許に紅を差し、前髪は後ろに撫で付ける。

 着物の調整以外は、何の変わりもないただの着替えだった。

 これから私が、彼岸の住人の命を背負った災害を起こすと考えると現実感がない。

 他人事、上の空で事が進んでいる感覚に捕らわれたまま、抜け出せないでいる。

 黒に手を引かれ、一度広間に向かう運びになった。

 危険なので手鞠は部屋に置いていった。

「別に良いわよ。部屋の窓からでも、十分活躍を観賞出来そうだもの」

「言い方」

 最後に笑って部屋を出、未だ他人事の様に軽く振る舞う足を叱咤する。


 広間には衆に所属する猫又が集まっていた。

 寧が会議場と同様に、司会進行役としてバタバタと動き回っている。

 恐らく今ここで、挨拶の一つもするのだろう。

 そう悟った途端に膝が笑い始めた。

 そうなればあとはずるずるといってしまって、次第に呼吸も苦しくなって、冷や汗が頬を伝う。

 黒が背中をさすってくれるが、それでも苦しさは紛れずに。

 そうしている内に着々と準備が進み遂に終わってしまい、私が壇上に立ち話しをする時が来る。

 前座として寧が散々盛り上げて、私の肩にかかる期待が大きくなった。

 どうとでもなれ、と一言だけ唱え、壇上に足を進める。

 壇上に立ち顔を上げれば数百と言う視線が刺さった。

「ただいまご紹介に与りました、糸と申します。此度の忘却を止める役を任命されました」

 刺さる視線を、過呼吸でも起こしてしまいそうな重圧に耐えながら言葉を紡ぐ。

「──衆の幹部は鯉様が、生前私を育てる為だけに衆を抜けました。幹部の脱退と言う大事を引き起こした事実は消えません。それらを償う為にも、この大役を努めさせていただきたいと存じます」

 息を吐いて頭を下げると、わっ、と拍手が巻き起こった。

 らしいが、私はその時の事をあまり覚えていない。

 黒に聞いた話だが、胸を張って壇上から降りて退場したのだが、足取りが覚束なかったと言う。


 その後再び会議場に集まり、手順が説明された。

「糸殿、今一度詳細な順番を説明します」

「続けてください」

 寧は地図を開き、指を差しながら言う。

「まずここから船に乗り、日本海に進みます。そこから四時間程の移動になります」

 私は細い指を、コンパスの針の様な爪でもって指される地点を目で追った。

「予定通りに進めば、ここに干潮時にのみ現れる小さな浜がありますので、一時ここに船を停めます。そこが大鯰に一番近づける場所なのです。上陸したら、糸殿には単独で行動していただく事になりますが……了承を得ておく必要があります」

「承知しております」

 部屋には私と寧以外に居らず、襖の向こうでは人避けがされている。

 冷えた麦茶が盆の上で汗をかいていた。

「あとは大鯰を叩き起こすだけです」


          *


 くしゃみを一つ。

 潮風で冷えたらしいので、羽織を手繰り寄せて屋形船の内側に戻る。

「いくら日射しが強いとは言え、そりゃ風を浴び続けたらそうなりますよ」

「でも羽織はちょっと暑いんですよね」

「もー……ちょっとの間団扇で扇いであげるんで、船先には出ないでくださいねえ」

 そう言って黒は、団扇を持ってきてぱたぱたと扇ぎ始めた。

 暑さにかまけ、加えて船に乗った試しがない為に船酔いも相まって頭がくらくらする。

 船頭が散らした櫂の雫が、ひどく涼しげだった。

 起き上がる気力も起きないまま、黒に団扇で扇いでもらっていると、不意に、船の底に何か衝突した様な衝撃が起こった。

 誰かが持参した卓上時計に目をやると、出発からとうに四時間経過している。

 とすれば、ここはもう件の浜なのか。

 見れば船頭が寧を呼んで確認を取っている。

 揺れる頭を押さえて起き上がり、羽織を着て身なりを整えた。

 寧がこちらを振り向き一言、

「行けますか」

 凛とした声で言う。

「勿論です」

 私は浜に下り立ち、水に足を踏み入れた。

「ここから出来るだけ離れてください」

「杞憂です。何の為にわたくしが同行してきたと思うのですか」

 そう寧にぴしゃりと言われ、私は改めて海に向き直る。

 そのまま水を掻き分けてざばざばと歩んだ。

 後方で船の進む音が遠ざかる。

 水が腰まで到達し、これ以上歩いて行けるとは思えない。

 ここまで来れば誰かに見られる事もないだろう。

 ならば、と、己を影に沈めた。

 背面から徐々に、まるで水面に溶ける様に沈んでいき、意識は残して静かに溺れていく。

 普段仕舞い込んでいる影法師の面を出すのだ。

 最後は小鳥遊さんが彼岸の住人に連れ去られてしまった時だ。

 それより前の記憶が数十年前なので、随分と久方ぶりになる。

 影になれば質量がなく身軽になれるので楽に移動出来るだろう。

 大鯰の元までこのまま行く心算だ。


          *


 ここ最近は酷く不安定だった。

 何の事はない。ヒトが私達を忘れかけているだけ。

 最初は四月一日わたぬきの輪郭が霞んでいて気が付いた。

 その次は手足の痺れ。次に視界の異常。

 今までにも何度か経験した事だけど、自分が亡くなる様な、徐々に消失していく感覚は誰も慣れないだろう。

 焦燥感が襲い、初めて体験した者程混乱に陥っていたのを思い出す。

 過去一番酷くなったのはいつだったか。

 まだ師匠が側に居てくれた時、私と四月一日の二人共、輪郭を保てなくなる直前までになってしまったらしい。

 成長してからはかなり耐えられる様にもなったが、それでも今回は直るまでが長い気がする。

 毎回、こうなれば界隈で力を持った者誰かが解決に向かうのだが、それが遅いのだ。

 昔挟み聞いた話では、地中に眠る大鯰を叩き起こして災害を一つ起こすのだと言う。

 そうする事で、ヒトが死後の世界やその他諸々を想像して補修される。

 私達は根源である黄泉の国が無事であれば、生きて居られるから。

 そして問題を解決した者は英雄視されるまでが一連の流れである。

「ねえ四月一日。暫く黄泉の方に避難する? もっと時間掛かったら危ないかも」

「そうねえ……でもお店を守る事の方が大事よ。地震か地滑りか、それとも津波か、兎に角何が来てもおかしくないんだから」

「それもそうだけどさあ……」

 まだ安定している彼岸により近づくか、それか黄泉の国に一時避難すれば消滅は免れる。

 ここは此岸に比較的近いとは言え、それでも彼岸の境界線にすっぽり入っているのだ。

 それなのに輪郭が霞む程忘れられている。

 避難すればいいが、その間に私達の家が壊されてもまた住む場所がない。

 だから皆黄泉へは行かず、自らの家を守るのだ。

 こうなればもう店に大量の客が来て、午前中に商品が無くなった。

 皆、不安から魂を保護しておく依り代を欲して。

 店頭に置いていた最高額の数十年物も、一番廉価な新古品も全て消えた。

 在庫も売り切れている。

 対応の遅延によって不安が更なる不安を呼び、倉庫が空になる勢いだった。

 稀に、師匠が依り代にしていた五徳を寄越せと言う珍客もいたが、殴って追い返した。

 店を閉めて、私達は外に出る。

 糸猫庵に行こうかとも思ったが、道中馬鹿と逢って、昨日から居ないと聞いた。

 それなら仕方ないと、結局家に戻って居間に落ち着いてお茶の時間とした。


          *


 暇潰しにかがみの様子を見に行った時、溶けているかと思ったのは自分だけの話だ。

 何の事はない、輪郭が霞み始めて机から立つ気力がなくなり、そのまま突っ伏していただけである。

「ほら起きて」

「あたっ、……叩くなやあ今頭痛が痛いんや」

「起きていないと、いずれ消えてしまうよ」

「そんな確証はないやろ……皆等しく忘れられる運命にあるんやから。構うなやにのまえ

 かき消える様な細い声で、眠そうに答える鑑を叩き起こして肩に担ぐ。

 もうすぐ地震か地滑りか、或いはもっと別の大きな災害になるかもしれない。

 外に出て家が潰されない様祈りながら災禍を耐えるのだ。

「前より重いけど太ったかい?」

「っ誰がデブや!」

「言ってない」

 叫ぶ元気があるなら自分で避難して欲しいが、腕や足から力が抜けているのは嘘ではない。

 鑑はこう言う時動けなくなるらしい。

 なら今までどう生き抜いてきたのか、素朴であり最大の疑問を抱えながら、薄暗い工房から漸く外に出た。

 すると、つづら折りになった階段を駆け下りてくる影があった。

池鯉鮒ちりふさんと茉莉マリーとちゃう?」

 鑑がまた細い声で言う。

 ここは此岸だが、個人差でここまで酷くなるものなのか。

 自分も此岸の側に住んでいるとは言え、まだまだ耐えられる。

 階段を下りてきた池鯉鮒と茉莉は、鑑を一目見るなり頭を軽く叩いた。

「あいたあ」

「ほおら起きんさい」

「起きてください、鑑様。私が破損したら修復するのは誰だと存じているのですか」

「や……それは俺やけど、判ってるから寝かせてくれや…………」

 それだけ言って、ぐったりとして起き上がらない。

 池鯉鮒と茉莉も連れ立って、兎に角被害を受けない場所まで移動する。

 今回は忘却が激しい。

 その故対応側はどれだけ大きな災害を起こすか判らない。

 入り組んだ路地から高台に避難しなければ。

 池鯉鮒と茉莉も連れ立って、兎に角被害を受けない場所まで移動する。

 今回は忘却が激しい。

 その故対応側はどれだけ大きな災害を起こすか判らない。

 入り組んだ路地から高台に避難しなければ。

 小走りにつづら折りになった階段を駆け上がって行く。

 頭の奥で警鐘がひっきりなしに鳴っていた。

 直後、地中から上方に突き上げる巨大な震動。

 割れる様な轟音と縦に揺れる地面。

 その直後階段にひびが入って足を崩した。

 鑑が背面から落ち、呻き声を上げる。

 視界の隅で、茉莉が池鯉鮒を庇って崩落する建物に巻き込まれていた。

 地獄だ、と無意識の内に口から零れる。

 自分も揺れに巻き込まれる。

 傾ぐ体、崩される均衡、割れる地面、倒れる屋根。

 瓦が屋根から落ち、踞った背中に当たった。

 そこが裂傷になり血が滲む。

 体が跳ね上げられ、大災害に翻弄されていた。

 小鳥遊家はどうなった事であろう。

 崩落していたならば、修復にどれだけ掛かるのか。

 暫くして揺れが治まった。

 改めて見回すと、全く見覚えのない光景ばかりが広がっている。

 瓦礫に埋もれた通路は使い物にならず、周囲の民家も何もかも崩れさった。


          *


 揺れが始まると同時に、茉莉は私をその細腕でどん、と強く押した。

 私を倒壊する民家から逃がし、自分だけが瓦礫に埋もれて。

 しつこく思えた長い揺れが治まり、私は茉莉を下敷きに寝そべっている瓦礫をどかそうと手を差し入れる。

 ああ邪魔だ。

 たかが無機物が私と茉莉を引き裂こうと言うのか。

 瓦礫の隙間から茉莉の白魚の如き手が、こちらに差しのべられている。

 だのに、私が力一杯にそれを引っ張っても、茉莉は救われない。

 こんな事ってあるものか。

 私は手を血だらけにしながら瓦礫をどかしていたが、漸く茉莉の顔が見えた時は酷く後悔した。

 茉莉は修復不可能な段階まで破壊されていた。

 側に落ちていた鑑を叩き起こす。

「鑑、鑑、茉莉が瓦礫の下敷きになって、壊れたんだよ。直せるのは、あんたしか居ない。お願いだ、私の、茉莉を」

 藁にもすがる思いで背中を叩くと、鑑は一等苦しそうな呻きを上げ、緩慢な動作でやっとこさ体を起こす。

 茉莉を直せない事を理解していながら、私は愚者として振る舞った。

 そうでもしなければ壊れてしまう。

 鑑は己に降りかかった硝子片を払い落とし、覚束無い足取りで茉莉を見た。

 瓦礫の間から覗く茉莉の顔を一目見て、鑑は黙って首を振る。

 そんな事ってあるものか。

 茉莉は偽物の皮膚の裂け目に無機質な金属を表出させ、眼球のかたちをした、かつて私をそこに映した機械を粉々にされていた。


          *


 背中を強く叩かれて目を醒ます。

 先の地震で忘却が弱くなったのか、倦怠もない。

 だが腕が動かない。肩をやられたかもしれない。

 骨の一本や二本折ったかもしれない、肋骨も曲がったやも知れん。

 ああ、肉体があるとはこう言う事か。

 肉が裂ければ血が出、骨が折れれば体は動かなくなる。

 そして、我が身が一番可愛くなる。

 ああなんて人間臭いんだ。

 自分の存在を守る為に災害まで引き起こし、更にそれから逃れたいと望み、傷つけば悲観し、死ぬやもしれないと絶望する。

 兎に角池鯉鮒が叩き起こすので起きない訳にも行かず、ゆっくり時間をかけて体を起こした。

 皮膚を切ったらしく、こめかみから鉄臭い血が流れる。

 池鯉鮒が指差す瓦礫の下に、自信作が見えた。

 一目見て判る。

 あれは修復不可能だ。

 池鯉鮒もそれを解っている筈だろうに、だが理解したくないのだろう。

 ざわり、と総毛立った。

 若しかしたら、破壊された茉莉と同じになっていたかも知れない。

 我らは人より生み出された虚空の存在だと言うのに、それでも己が身が可愛いと思うのか。


          *


 地震が始まる前に、鉢植えに水をやろうと外へ出た。

 するとその途端に地面が揺れた。

 四月一日がまだ居間にいる。

 下からいっそう強い震動が突き上げた時、師匠が残した家はがらがらと崩れていった。

 腰が抜けてその場に座り込み、それからはっとして崩れた家に入る。

 玄関から入れないから、縁側に土足で上がった。

 床板が抜けたり天井が剥がれた廊下を慎重に歩いて行く。

 雪見障子の硝子が割れ、照明器具が落下し、柱が壁に突き刺さっていた。

 こんな状態で四月一日わたぬきは無事かと、足が急ぐ。

 居間へ続く廊下を走って行くと、四月一日は既に部屋の外へ出ていた。

 床に硝子片が散乱しているから、躊躇っていたらしい。

「四月一日!」

鉄穴かんな、悪いけど私の靴を取って来て」

「判った! ブーツでいいんだよね?」

「ええ」

 今靴を履いているのは私だけだ。

 玄関が内側まで崩れていないといいが。

 ここから玄関まではすぐなので、倒れた家具などを避けつつ走る。

 倒れていた靴箱を何とか起こし、さっさと注文の靴を取ってその場から離れた。

 これ以上この家に居たら、いつ潰されるか判ったものじゃない。

 四月一日に靴を渡して、履いている間に私は硝子片や家具を足で退かした。

 それから師匠が依り代にしていた五徳だけ持って、家から出る。

 四月一日は大福帳や、一纏めにした書類なんかを持ち出していた。

 縁側から飛び出した直後、屋根が一部崩落する。

 ちょうど居間にあたる部分だった。

 兎に角誰かと合流しようと、糸猫庵に向かう。

 誰か避難しているといい。

 食料もあったらもっといい。

 出来れば人が集まって欲しかった。


 時折余震が発生する中、二段坂を下って歩く。

 津波が来るかもしれないとか、どうでもいい。

 どうせ私達は虚空の存在なんだ。何かあってもどうにかなる。

 今までもずっと無事に生き延びてきた。

 逃げ込む様に硝子戸を開く。

 鍵も閉めていないのか、とも思ったが、あの糸が鍵を忘れるとは考え難い。

 なら誰か居るのかと店内を見回した瞬間、見覚えのある影があった。

 四月一日が顔を上げるなり、想いが口から零れ出す。

「──師範」

 それは優雅に紫煙を燻らせ、私達を見やって皺だらけの口許に笑みを湛えた。

 手に抱えていた五徳が、カタカタと動き出した。

 次の瞬間、確りと握っていた筈の五徳が消え、私の手が空を切る。

 目の前の師匠が一際大きく息を吐くと、紫煙が辺りに立ち込め思わず咳き込んだ。

 しかし悪い気はしない。

 寧ろ、懐かしくて涙が出るのだ。

 そして師匠は、威勢良く呵呵、と笑った。

「久方ぶりじゃのう、不出来な弟子共よ」

「…………ばか」

「そう拗ねてくれるな、鉄穴。お前が五徳を持って来なければ、儂は今こうしてお前らと話せなかったぞ」

「そう言う事じゃなくて……会えて嬉しいのは嬉しいけど、またどうせ向こうに帰っちゃうから」

 涙目になりながら着物の裾をぎゅっと掴む。

 ほんの数瞬だけ、師匠の表情が雲ってしまった。

「そうさなあ。儂は今回の件を片付けたらすぐ帰らねばならん。じゃからその前に、暫しこの場所に留まっていた」

「真逆とは思いますが、私達の誰かが五徳を持ち出して来るのを見越しての行動ですか?」

「流石は四月一日、相変わらず鋭いな。褒美に撫でてやろうか?」

 撫でてやる、と言う言葉に四月一日は目を見開いたが、後悔が残らない様にか、ぐっと堪えた。

 これで会えるのは最後かもしれないのだから、好きなだけ言う事聞いてもらえばいいのに。

「片付け、とは何の事でしょう?」

「此度の大地震に決まっておろうが、鉄穴。儂らの存在を確立させる為とは言え、些か度が過ぎていよう。原因は既に判っておる。儂は解決に向かうだけじゃ」

 この地震の発生源を?

 どうやって、と問うより先に師匠が口を開いた。

「此度の地震は、人為的に大鯰を叩き起こして引き起こされたもので、それを発生させたのは糸さんじゃ」

 まさか、と笑い飛ばしたかった。

 四月一日も同じだっただろう。

 糸を知る者なら、全員がまさか、と言ったかもしれない。

 だけど、今の師匠の発言は神の発言だ。

 月から全ての事象を見下ろす神の発言に、誰が疑を言えよう。

 糸が地震を起こしたのは確実だ。

 だけどそれを責める事は出来ない。

 きっと第三者が事を進めたのに組み込まれただけだ。

 師匠は一体どうやって地震を止め、かつ糸もどうにかするのだろう。

 師匠は柱の掛け時計に目をやり、煙管の火を消した。

 横で四月一日が息を止める。

 これは相当我慢している時のサインだ。

 師匠はそれをちら、と見たが、ふい、と視線をそらした。

「……儂はもう行く。話しが出来て楽しかった。五徳もすまなかった」

 恐らく五徳はもう戻ってこないだろう。

 師匠は海に行くのだから、そこで依り代の五徳から抜けて月へ帰ってしまう。

 私達の元へもう一度戻って来る余裕はない。

「では、身内の尻拭いに行ってくるでな」

 そう言って、すれ違い様の四月一日の頭を撫でて行ってしまった。

 硝子戸が閉じると、四月一日はその場に膝をついてわんわと泣き出した。

 床に涙が染みを作り、師を追い掛けた手は空を切る。

 四月一日の肩に手を置いて、ほんの慰めのつもりだ。

「ほら四月一日、行こう? 師匠の大捕物、見に行こう」

 半ば強引に立たせ、店の外に連れ出す。

 師匠は海上を歩いており、その背中はどんどん遠ざかっていく。

 もう米粒程に遠くなってしまった師匠は、とうとう海に沈んだ。

 ああ何て人間臭いんだろう。

 神格相手にまだ触れていたいと思うなんて。

 ここまで来たら砂浜に下りるのは危険だろう。

 次の瞬間、巨大な水柱が海面から噴き上がった。

 それに押し上げられた黒い影の様な生命体が、水流に抗っている。

 あれが糸だ。

 直感で判る。

 糸が地震を引き起こしたのは知っている。

 糸があんな姿をする程、私達は自分達の忘却について無関心だった。

 その巨大な影の塊は、体力が尽きて強烈な水流に飲まれていた。

 やがてそれは完全に飲み込まれ、それに伴い巨大な水柱も段々と小さくなっていく。

 ふと、海岸に誰か突っ立っているのが見えた。

 目を凝らしてみれば、馬鹿ましかが茫然自失としてそこに立っている。

 入水でもするのなら止めないが、今近付けばこの後来る波に飲まれてしまう。

 砂浜に下りると、馬鹿はこちらに気付いて振り向いた。

「馬鹿」

「ああ……お前か」

「何してんの?」

 素朴な疑問をぶつけると、馬鹿の目に哀の色が写る。

「海が凪いだらな、あいつを回収しに行くんだ。骨じゃなくてもいい。あいつは猫の死体に憑依しているだけの、影だからよ」

 そう言って馬鹿は笑っていたが、どう見てもその笑顔はひきつっていた。

 一際大きな波が砂浜を覆う前に避難し、その後で馬鹿は海岸沿いにあった木造船を片手で引っ張って、砂浜に線を残す。

「出来れば師匠の五徳も、見付けたら持ってきて」

「十中八九無理だろうな。金属だからすぐ沈む上に、今ので壊れて四散してるかも知れねえし」

「脚の一本でも見付けたらお願い」

 馬鹿は溜め息を吐いて、船を海に浮かべると、櫂を片手に漕ぎだした。


          *


 師匠の活躍で地震の発生源である大鯰の暴れは収まり、またそのお蔭で彼岸も安定する結果になった。

 身の回りや知人に起こった被害としては、私達の家の半分が倒壊、鑑は腕の骨折、茉莉は完全破壊。

 他にも細かい事を挙げれば枚挙に暇がないけど、目だったものはそれくらいだ。

 倒壊した住居の修繕や瓦礫の撤去も粗方終わり、徐々に前と同じ様な日々が戻ってくる。

 騒動が収まった後、私は師匠の五徳を捜した。

 店で一番高額な品と引き替えに、脚の一本でも捜しだしてくる様にと、人魚と交渉したのである。

 四月一日もそれに同意し、一番の骨董品を差し出した。

 すると向こうは数百年前の骨董品を出されるとは思っていなかった様子で、脚一本のみならず、全て見付け出すと約束してくれた。

 時間はかかったが、今は脚の三本が揃っている。

 残るは輪だけなのだが、それが流されてしまったらしく、時間がかかりそうだ。

 その時まで待てばいい。

 私達はそう言う存在だ。


 馬鹿は、あの時回収した欠片を寄せ集めて“猫”を作ったと言う。

 勿論後日見に行った。

 馬鹿は私達を快く迎え入れ、その“猫”を見せてくれた。

 その“猫”はまるで影の様に実体が不安定で、強い光を浴びれば引き立つが、一度暗い場所に溶け込んでしまえばもう見つからない。

 首輪につけた鈴も鳴らさず、畳の上を音もなく歩き、そして、なあ、と鳴く。

 四月一日が恐る恐る手を差し出すと、その手を嗅いで頭を擦り付けた。

 糸より愛想がいい。

「知り合いに頼んでさ、何とかここまで形にしてもらったんだ。人形に戻せれば一番良かったけどよ……何分足りなくてな」

 馬鹿がお茶を出し終えるのを察知し、かつて糸だった猫は馬鹿に甘え始めた。

 肩に乗り、角に頭を擦り付けてなあなあ言っている。

 すると、馬鹿が不意に泣き出した。

 ごめんなあ、ごめんなあ、と繰り返し言いながら猫を撫でて抱き締めた。

 後悔か、或いは贖罪か、いくら叫ぼうが泣こうが、糸は戻ってこない事を、否が応でも意識してしまうのだろう。

「……この子はこれからどうするの?」

「側にいるのが辛い様でしたら、私達が引き取りましょうか」

「いいや」

 私と四月一日の提案を、馬鹿は強く折った。

 腕の中で嫌がる猫を離さず言葉を紡ぐ。

「こいつは俺がずっと面倒みる。……何せ、こいつの元はあの性格悪い糸の野郎だ。俺が一番、勝手が判ってるんだよ」

 これがきっと、彼の思いの丈。

 するりと馬鹿の拘束を解いた猫は、私達の膝に手を置いて、なあ、と一声鳴く。

 甘えるでも、何かを所望するでもなく、それだけ。

 勿論猫なので何も話せないが、それだけで今の私達には十分だった。


        ── * ──

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糸猫奇譚 あてらわさ @touhu-inu

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