十三譚ノ壱 変容

 朝から霧の濃い日だった。

 普通であれば清々しい、とか、もっと行けば神々しいとか評するのだろう。

 だが立ち込めた濃霧はそんなものじゃなく、重苦しいと言えた。

 湿気を孕んだ煙で肺をいっぱいに満たせば、まるで石油の様な重い液体に沈められている様だった。

 太陽は昇りきっているのだが、霧の向こうにうっすらと見えており、光を霧散させている。

 どうにもおかしな天候で、しかし超常現象と呼ぶには少し手が届かなかった。

 珍しかったので店の準備も放り出して外を眺めていたが、その内に文鳥が迎えにきて店の準備を再開する。

 踵を返そうとした瞬間、着物の裾をくいっと引かれた。

 振り向いて見ればそこには、二足歩行の猫又が私の着物を引いていた。

 きっちりと着物を着こなし、鳥獣戯画の様に動物そのままの姿で二足で立っている。

「もし」

「私めに何の御用でしょうか」

「糸猫庵と言う料理屋の店主とお見受けします。その腕を見込んで、改めてお願いしたい事がございます」

 ああ成る程こう言う事か、と一人納得しながら、この猫又を店に通して話を聞いた。


          *


 今日は糸猫庵に遅めの朝食でも食べに行こうかと、四月一日と連れ立って歩いて行く。

 先程まで立ち込めていた霧も晴れ、時候に相応しい日射しが降っていた。

 まるで始めて糸猫庵を見付けた日の様で。

 日射しに目を細め、路地が作り出す影へと逃げる。

 硝子戸を押し開こうと思ったが、内側に『定休日』の札が提げられていた。

 今日は定休日ではない筈だと、首を傾げて戸を押してみると、開いた。

 鍵を掛け忘れている。

 あまりにも無防備だと、四月一日が呟いた。

 入ってみると、糸は厨房で大量の料理を生産している最中だった。

 夢中で私達に気が付いてもいないので、声をかける。

「糸」

「──っはい」

 何秒かの間があって、返事をしたがこちらを振り向かない。

 すると、仕方無し、と言った風に、文鳥が糸の肩に乗って頬をつついた。

「手鞠、痛い」

「痛いじゃないわよ。あんたお客様が来てるのよ」

「…………」

 漸く糸はこちらを認めると、失礼しました、と言って茶を出した。

 しかし元はと言えば店に押し掛けた私達が悪い。

 多忙に水を差す様な真似をした非礼を詫び、氷を浮かべて涼しげにしている麦茶を飲んだ。

 糸は一段落つけた所で私達に向かって話し始める。

「お二人に気付く事が出来ず、誠に申し訳ありません」

「いやいいよ、押し掛けた私達も大概だしさ。それより何で急に休みになったの?」

 一番の謎はそこだ。

 黙々と料理に腕を奮っているのはいいが、しかし数百人分はあろうかと言う量を一人でこなしているのだから、尚更である。

「実を申し上げますと、先日名のある猫又衆から直々に仕出しの依頼がありまして……」

「仕出しにしては多くない?」

「そうね。親族や一つの派閥の者全員が集まるなら兎も角、あの量は多いでしょう」

「それがですね、法事の主役がかなりの権力者だったらしく、派閥関係なく全員集まるんだそうです。私にも縁のある所でしたので、断る訳にも行かず……」

 再び厨房を覗いてみる。

 どう見積もったってあれは数百人前ある。一体どれ程大所帯の猫又衆だと言うのか。

 猫又衆は此岸の人目につかない場所で群れを作って生活している。

 その中で序列ができ、より力が強く聡い者がより上の役職につく。

 下の者はそれぞれ幹部について行き、自然と派閥が形成されていった。

 これらの知識は全て師匠の受け売りだが、糸がそれ程大きな猫又衆と縁があると言うのは初耳だ。

 糸は再び厨房に戻り、何人前あるんだか判らない料理に手をつけ始める。

 側に置いてある材料も量が量で、果たして終わるのだろうかと心配になった。

 麦茶を飲み終わったら帰ってしまおうと、一息に飲み干して椅子から立ち上がる。

 不意に、入口から音がして振り向くと、猫又がそこに立っていた。

 三毛の猫又だ。割れた尾の先がまだ短いのを考えると、まだ下の階級と見受けられる。

 行儀正しく頭を垂れて、猫の姿のままで二足歩行している。

 これが仕出しの依頼人だろうかと見積もっていると、向こうは細い針の瞳孔で私達を値踏みしている様だった。

 互いに睨み合う様な恰好で暫く立ち尽くしていたが、終いには向こうが目線を外して決着がついた。

 その猫又は少しの勢いをつけてカウンターに飛び乗り、糸を呼び何か話し込んでいる。

 打ち合わせでもしているのだろうか。時折糸の表情が曇ったのが気にかかった。

 私達は邪魔しては悪いと、逃げる様に外へ出る。

 強い日射しがコンクリートに照り返り、水が逃げていた。


          *


 もうすぐ昼かと言う頃、店に依頼人が来訪し、弁当を作った私にも法事に参加して欲しいとの連絡があった。

 強要するものではない、とは言ったが、あれは無言の拒否権剥奪なので頷く外にない。

 ならば喪服はあったかと、箪笥の肥やしと化していたそれを引っ張り出し、縫目の綻びはないかと確認する。

 作った弁当は猫又衆が運んでくれると言うので、私は着替えて出発するだけだ。

 手鞠もついて行くと手を挙げるので、脚に黒の飾帯を結ぶ。

 それから私が手鞠の指示で藍鼠色の着物と黒の紋付羽織に着替えた。

 足袋も下駄も失礼の無い様に手鞠が厳選したものを。

 やがて猫又衆が迎えに来た。

 何百人前作ったか判らない弁当を、敷き広げた畳十枚分の風呂敷に均等に並べ包む。

 それが二つ出来上がって、二人の猫又が巨大な獣に変化して口に咥えた。

 どうやら双子か兄弟らしい。

 流石は名のある猫又衆だけあって、下の階級であっても術などの質が高い。

 矢張、こいさんが元居た衆は違う。

 そして巨大化した二人に乗る様促され、深い毛に半ば埋もれながら背に登る。

 顔を上げると、水平線に陽が沈んでいた。

 二人の猫又は飛ぶ様に走り、しかし着地時には音を一切立てなかった。

 私は弁当の中身が寄っていないかと心配していたが、杞憂だ、と手鞠につつかれる。

 それもそうかと一人納得し、振り落とされない様手に力を込めた。

 身を切る様な風に耐えつつ背中に乗っていると、不意に、足が止まる。

 目的地に到着したのかと顔を上げれば、猫又衆が住み着く山はまだ少し先にあった。

 下から私を呼ぶ声が聞こえて、降りると提灯を一つ手渡された。

「参列者はこれを持ち、亡き王を偲ぶ夜行をいたします。どうか、お付き合いの程を」

「承知しました」

 首肯して受け取ると、予め用意していたらしい火打石で提灯に火が入れられる。

 酸漿の様な橙を放つ灯火が薄紙の向こうに揺らめいていた。

「……耳と尾はお出ししても構いませんよ?」

「え? ……ああ、はい」

 如何にも不可思議そうな表情を浮かべる猫又は、私に耳と尾が無いのを不審がった。

 警戒させるのも嫌なので素直に出す。

 私は猫又ではない。

 その辺に落ちていた猫の死体に憑依して延命しているだけの影法師だ。

 だから耳も尾もないし、今の様に影を伸ばして擬態させる外ない。

 こいさんがまだ衆に居た時に拾われ、私は一時期この衆に世話になったので、私が影法師であるのは周知の事である。

 それを知っていての嫌味だろうか。

 下駄の音がやけに響く。

 先を行く猫又について歩いて行くと、遠方に橙の光が点々と続いているのが見えた。

「あれに合流します」

 そう言い残し、早足で列に向かう。

 私もつられて駆け出し、列に合流すると最後尾につく。

 列は前に半分に棺を運ぶ役と従者がおり、後方から最後尾にかけては参列者が列を成していた。

 茫とした淡い光が延々と列を成している光景は、知らない者が見たら何を思うだろう。

 そうこうしている内にも参列者が増えて最後尾が遠ざかり、終いには見えなくなってしまった。

 私は後方の中央辺りで、二人の巨大な猫又の足許で歩く、何者だか測れない立ち位置になっている。

 浮いている、と気付いた頃には、後列からの視線が痛々しい程刺さっていた。

 赤、青、黄、緑、紫、茶、灰、黒、色々の目がこちらを向いているのに恐怖心を煽られ、背中に冷や汗が伝う。

 足音の一つも間違えば取って喰われそうな。

 猫の舌で舐められる様な感覚に総毛立った。

 その後も山が近づくにつれ参列者が増えたが、私に向けられる視線は変わらない。

 思えばそれもそうだろう。

 私は余所者に過ぎないのだから。

 葬儀に料理と言う花を添えた立場だとしても、顔も見せない私は猫又衆にとっては異物質だ。

 それはどう足掻こうが変わらない。


 猫又衆の住む山に漸く辿りつき、参列者は従者の指示に従い、一纏めに大部屋へ通される。

 しかし私はまた別の場所へ案内され、すれ違った参列者に目をつけられた。

 私を別室へ案内した黒猫の従者は、料理を作った者として挨拶をして欲しいのでここで身だしなみを整えてくれ、と言う。

 そして櫛や白粉などを置き、足早に行ってしまった。

 廊下からは準備に振り回されているのか、騒々しく足音や指示が飛び交っている。

 襖を閉じると、手鞠が鏡台に乗って待っていた。

 私は前髪を後ろに撫で付け、適当に化粧をして襟を正す。

 白粉を薄く塗り、色は使わず、分相応に。

 髪型も化粧も監修したのは手鞠だ。

 小鳥にあれやこれやと指示をこなす姿は、事情を知らない者から見たら滑稽だっただろう。

 支度が終わった頃、先程の黒猫から呼ばれて会場に入る。

 寺で育てられていたと言う猫又が経を読み、それが終われば順に焼香を。

 最後に故人の──猫又衆の王だった者の顔を拝見し、花を小さな棺に入れる。

 私の番が回る頃には棺が花で溢れた為、籠に入れた。

 その後広間に集合して食事を始めるのだが、私は役目がある為に休まらない。

 兎に角繕った言葉を並べ、暗記し、諳じるだけなのだが、失敗すればどうなるか知れたものではないので心臓に悪い。

 参列者として参加すると聞かされていた筈だったが。

「……本日はお集まりいただき、誠に有り難う存じます」

 司会の挨拶に心臓が跳ね上がる思いをした。

「我らが王も、さぞお喜びの事でしょう。此度の会は王を偲び、送り出す為の宴です。その料理の数々を振る舞っていただきました、糸殿に挨拶をいただきます」

 糸、と言う名前に外野が一斉にざわめく。

 こい殿が拾ったあれか、まだ居たのか、道楽者、あいつは、こい殿は居ないと言うに、こい殿が残した、異端児が、等々。

 生前のこいさんは、この衆で幹部を担っていた。

 その権力を持ったこいさんが、私を特に可愛がり、私を理由に猫又衆から外れてあの店をつくったのを満足に思っていない。

 ここはそんな連中ばかりだ。

 その頃からの生き証人である手鞠が、こうなる事を一番よく判っている。

 それ故に、私に普段から口酸っぱく言っていた。

 向こうから召喚命令がない限り、近づくなと。

 司会役の年取った猫又から合図が送られる。

 震える声を抑え、生きを吸い胸を張った。

 きっ、と顔を上げ、私を異端者を見る目を睨み返す。

「……ご紹介に預かりました。糸と申します。此度のご依頼を受け、参上いたしました。本日の料理は、かつての王が好んでおりました食材を使い、王の為の食卓をお作りさせていただきました。この誉れ、生涯光栄に思います」

 形だけの拍手を一身に受け、息を吐き出す。

 肩で手鞠が小さく鳴いた。


 会場の隅で味のしない弁当を食べ、気分が悪いと嘘を吐いて退席する。

 また黒猫従者が私を部屋に通した。

「それでは、ごゆっくりとお休みください。失礼します」

「ありがとうございました」

 互いに頭を垂れ、静かに、かつ素早く襖を閉めた。

 羽織を脱ぎ、化粧を落とし、髪をぐしゃぐしゃと崩し、用意されていた寝間着に着替えて蒲団に身を投げ出す。

「ちょっと! 着物が投げっぱなしじゃないの……全くもう」

「疲れたんだよ。明日やるからちょっとだけ放っといて」

 枕に顔を埋め、掛け蒲団を頭まで被り、手鞠の声を遠くに聞いた。

 耳を澄ますと、廊下からばたばたとした足音が響いている。

 片付けに追われているのだろうか。

 嘘を吐いてでも退席したのは正解だったかもしれない。

 きっと片付けに駆り出され、夜更けまで奔走していただろう。

 目を閉じれば、緩慢な睡魔が徐々に蝕んでくれた。


 夜明けまで続いたどたばた騒ぎが終結し、午前三時前には皆呑み疲れて眠った様だった。

 私はそれをうっすらと聞きながら、蒲団からもそもそと抜け出した。

 手鞠はまだ起きるべき時間ではないので、籠に布を掛けたままにする。

 音を立てない様に立ち上がり、黙って部屋を後にした。

 一度目が覚めてしまったらもう眠れないので、気の向くままに辺りを散策してみる。

 日の出が早くなったとは言え、空にはまだ星がちらつき、紺と橙が九対一の割合で水平線で混ざりあっていた。

 山肌に沿って作られた集落は階段と坂が多く、つづら折りに曲がり入り組んで、迷い込むのは容易な事だった。

 ここは此岸だがより彼岸に近い場所に位置しており、人からより隔絶された環境になっている。

 地形は此岸と粗方リンクしているが、双方は互いに干渉していない。

 迷った先で階段に座り込んでいると、ふと、全く人気の無い事に気付く。

 猫又衆の王の葬儀で、出払っているのかもしれない。

 一つ欠伸をし、ここから抜け出す方法を考える。

 手鞠も連れてくればよかった。

 上空から地形を把握出来ただろうに。

 かと言ってこれ以上下手に動くと、更に深い場所まで行ってしまいそうだ。

 上に向かって歩く外ないだろう。

 重い腰をあげ、下駄を鳴らして上へ上へと昇っていく。

「糸殿~~~~!」

 一つ階段を昇りきったその時、上空から甲高い声が降りかかった。

 見上げると、向こうから坂を下ってくる者が目に入る。

 あの黒猫の猫又だ。

 私に張り付いている様指示でもされているのだろうか。

「寝間着のままでふらつかないでくださいよお~」

「すみません」

 作り笑いで誤魔化し、迷った事を伝えると私の手を引いて進み始めた。

 黒猫の猫又は、昨夜とは違い私と背丈が近くなっている。

「まあ、目線を合わせた方が何かと都合が良いでしょう。わたくし、お恥ずかしながら変化は不得手ですので、ヒトの姿になるのはまだ無理なんですよ」

 私が猫又だと言う事を知らないのだろうか。

 この黒猫は、完全にヒトの姿に擬態している私が羨ましい、凄い、等々言っている。

「……こんな早朝に何のご用でしょうか」

 ふと空を見て気付く。

 まだ夜明けまでは遠い。

「いえ~わたくしはあまり存じ上げないのですが、上司が連れてこいって命じましてね。理由を聞こうとしたんですが、兎に角早く、との事でした」

 頼りにならない回答を反芻しながら歩いて行くと、あっという間に宿泊した場所へと辿りついていた。

 昨夜は暗かった事もあり、全体像をじっくりと見る暇もなかったが、今になって漸く見る事にもなった。

 山肌に沿って建れられている為、階段状になった渡り廊下やら突き出した部屋やらが岩壁を走り、独特な重力の様な、違法建築の様な不可思議な屋敷が構成されている。

 地滑りでもすれば全て崩れてしまいそうだ、と縁起でもない事を考えさせられる。

「地滑りでも起きたらどうしようとか思ったでしょう」

「その通りで」

「わたくしも、初めてここに参った時は杞憂したものですよ。ですがそれは皆が思う事ですので、お気になさらず」

「はあ」

 建物に入っても階段を昇ったり下ったり、時に遥か上から見下ろす渡り廊下を渡り、外も屋内も複雑な構造をしていた。

 途中私は部屋に戻り、昨夜着た羽織に着替え、手鞠を連れ、そこからまた黒猫に案内されて黒猫の言う上司の元へ行く。

 その上司の階級がここでどれ程の権力を持つのか知れた事ではないが、少なくとも私は余所者だ。

 例え下の者でも従うに限る。

 ふと気付けばかなり奥まで通された様子で、長い渡り廊下を未だに渡っていた。

 漸く端が見えたと思っても、襖が両脇に続くばかりで。

 あちらこちらに梁から吊るされた風鈴が、僅かな風を受けて揺れている。

 吹き抜けになった廊下の梁に風鈴ばかり吊るされている光景は、幻想的でもありおぞましくもあった。

 外も中も入り組んだ構造はとても実用的とは言えず、まるで籠城戦でも想定している様だ。

 奥の部屋まで案内してくれる黒猫も流石に疲れた様で、時折肩で息をしている。

 そして遂に最奥まで辿り着き、黒猫はその疲弊を隠して立派な襖の前に跪いた。

「黒です。申し上げます、糸殿をお連れしました」

 割と率直な名前だった。

 黒が祈る様な声を掛けた襖の奥から、くぐもった声で返答があった。

「お入りください」

 黒は作法に則った手順で襖を開け、私に入る様目で促す。

「失礼します」

 頭を垂れ、敷居を踏まず慎重に部屋に入る。

 そこはまるで茶室の様な内装で、最奥の部屋と言う先入観もあって拍子抜けしてしまった。

 書院風だが基準となる方丈よりもやや広く、部屋の中央に火鉢と、床の間に掛軸、向日葵が壁の筒に活けられている。

 大きく設えられた丸窓からは、長い軒に緩和された日差しが入り込むのだろうが、生憎今は日の出前だ。

 簡素な飾り棚には古い本と茶器があるくらいで、他に目立つものはない。

 顔を上げると、凛、とした喪服に身を包んだ女性が正座している。

 この人が先程の声だろう。

 艶やかな薄墨色の長髪、鶏冠石の目、陶器の肌を持つその人は、こちらを向いて僅かに口角を上げた。

「黒、下がって宜しいです。糸殿はこちらへ」

 言われた通り、黒は下がって襖を閉じ、私は下座に座る。

 双方の間に沈黙の幕が降りた。

 正面に座る美人は人当たりの良い笑みを顔に貼り付けたまま、私の出方を伺っている。

 鶏冠石の目がこちらを捕縛して離さず、居心地の悪さを感じる。

「わたくしは」

 沈黙の幕は向こうから切って落とされ、私は逃げる道を絶たれた。

「わたくしは、今はこの猫又衆の指揮を与っているむしろと申します。──糸殿には改めて、お願いしたい事がございます」

 猫王が不在の今、誰かが最高権力を握っているとは思っていたが、真逆その人物に直接召喚命令が下るとは。

「何なりと、ご命令ください」

 寧殿の刺す様な視線に思わず息を飲む。

 覚悟も置いていかれたまま、背中を冷や汗を伝った。

「糸殿には、一時的ですが衆の統率権力を託すべきと、昨夜、議論が纏りました」

「と言いますと?」

「……確かに、遠回しでしたね。では包み隠さず言いましょう」

 癖なのか、寧殿は小鬢のほつれ毛を直すふりをして耳を触る。

「糸殿にこの猫又衆の指揮権を託します。その上でご依頼したい事があるのです」

 段々と頭痛がしてきた。

 言い知れない予感と先が読めない事への恐怖で体がすくむ。

 寧殿が口を開くのが恐ろしい。

「ご依頼、とは」

「まず最初に確認を取りたいのです。話を聞いた上で意見を変えたのであれば、お断りいただいても構いません。引き受けてくださるのであれば、最後まで責任が付きまといます。それでも受けても宜しいと言うなら、何卒お願いいたします」

 そして頭を下げ、土下座されてしまった。

「どうか頭を上げてください。それ程重要な事かは察しました。お話を聞いてからお引き受けします」

 すると寧殿は頭を上げ、少しだけ安心した様な表情を浮かべた。

 これが恐らく、彼女の本来の表情なのだろう。

「では改めてお話しましょう」

「お願いします」


 わたくし共の暮らす世界は、ヒトの空想、虚妄によって形成されています。

 それらが少なく──則ち、ヒトがわたくし達を想像しなければ、わたくし達は共々、彼岸は不安定になり、崩れてしまいます。

 それを防ぐ為、定期的に災害を起こしてヒトに恐怖を植え付けます。

 そうする事により、ヒトは勝手に死後の世界やそこから派生した色々の事を考えてくれますから。

 死後の世界に当たる──まあ天国でも何でも宜しいですが、兎に角黄泉の国の存在が確率されてくれれば、わたくし達の存在もある程度保証されますので。

 さて、話の本題はその災害を起こす事とその役の勤め人です。

 先日からこの会議は進んでおり、わたくし共は数多くの猫又衆を代表して議に参加しておりました。

 そして長く続いた議論の結果、我らが猫又衆、今は亡き先代王が災害を起こす役に立候補したのです。それで事は終わる筈でした。

 しかし、今や王は永久に不在となりましたので、急遽臨時代表者を立てない訳にも行かず、かつ力ある者を指名しなければなりません。

 内輪に適任はいないかと、色々と調べていました所、昔こい様の従者を務めておりました、先程の黒から提案があり、黒が現在従者としてついている幹部から提言されました。

 こい様が当時保護されていた糸殿がその議論に浮上し、素性は知れていたので、衆の大多数から適任だと意見が出、こうしてお呼びした次第でございます。

 長い説明を終えた後、寧殿は再び私に頭を下げた。

 私は予想だにしなかった壮大な話に目眩を覚え、返事はしたがどう答えたかよく覚えていない。

 その後は話が拍子をつけて纏まり、私は置いてけぼりのまま目眩にやられた。

 夜が明け、葬儀の参列者や猫又衆が起きてくる頃に全て終わってしまっていた。

 黒が部屋まで送ってくれたが、道中私は魂が抜けた様だったと言う。

 その時私の頭をずっと支配していたのは、お店と常連客の面々等、兎に角自分以外に思考が飛んでいた。

 暫くお店は開けそうにない。


        ── * ──

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