九相図2

バラナシから鉄道でインドの高山地帯に向かい、途中から車に乗り換えて国境を越える。

私とご主人様は道中、特別何かを話すでもなく、お互いに手を繋いで、二人でゆったりと流れ行く外の風景を見つめていた。

私は今に至るまで、外出時はずっとヒジャブを身に着けていた。もはや世界においてイスラム教徒は珍しくなく、ただこれを着るだけで私はその正体を探られずに済んだ。

車が国境の検問を超えたところで、ご主人様は言った。

「もう、無理にそれを身に着ける必要はないんだぞ」

 その言葉は親切から出ていたが、気楽な無謀さも同時に滲み出ていた。

私は言った。

「ご主人様、あなたは死ぬつもりでしょう」

 ご主人様は目を見開いた。

「あなたはあのインドのバラナシに至るまで、いや、あの場所に着いてからも、腰を落ち着けようとはしませんでした。きっとあなたはやろうと思えば何処かでのんびりと世間から隔絶された生活を送ることも出来たし、表には出ないでも、ちょっとしたビジネスぐらいはやることが出来た。けれどあなたはそれをしなかった」

 一拍置いて、私は言葉を続けた。

「物質は無限ではありません。有限です。ご主人様の持つお金は、あとどれほどあるのでしょう。これから何日かは続いても、私達が老いて塵に戻るほどには続かないでしょう」

「君の言う通りだ」

 ご主人様はそう言って、俯いた。

「私はあの死者の街、バラナシで死のうと思っていた。私は姉が死んだ時、それを止めることも出来なかった。私はそれを、ずっと後悔していた。そして、生きている間中ずっと、あの姉の幻影を追い求めてきた」

 ご主人様は、私を見た。そしてその瞳に、私の姿が映る。

「君は、完全だ。君は、美しい。君はとうとう、私を理解した。私が私を理解するように、私を理解したのだ。青薔薇。君の言う通りだ。私は今も死のうとしている。そして」

「そして、その道連れに私を選ぼうとしている」

「その通りだ」

 私は言った。

「私も、死ぬつもりできました」

 死が、死のみが私を救い得る。私は、私として生き続けている限り、この青痣と自己嫌悪と、自己愛から来る自己嫌悪の渦から逃れられそうもなかった。

私は、ご主人様に買われるまで何の価値も存在しなかった。そこにはただ青い自己嫌悪のみがあった。

しかし、私はご主人様に買われた。私は無条件に愛され、美の称号として『青薔薇』と名付けられた。そして私はご主人様と共に歩んで、自分を見つけた。自分を理解した。

私は、苦しみから逃れたかった。そしてその逃避を共にする相手がご主人様であるならばそれは、自分にとって最上の幸福になると思った。

「ですが、その死は美しくなければなりません。ご主人様が私を青薔薇として、美しい奇跡として呼んでくださった以上、この身を捨てるその瞬間にさえ、私は美を内包しなければならない。そしてそれはきっと……」

「青薔薇」

 ご主人様は言って、私を抱きしめた。

私は、その抱擁を受け入れた。

「君で、良かった」

 私も答えた。

「私も、ご主人様で、良かったです」

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