鏡5

私には家族が居た。偉大な科学者である父と、美しい母と、そして美しい姉が居た。家は広く閑散としていて、掃除ロボットが床を滑る音以外には何も聞こえないような、無機質な屋敷だった。

父は仕事中毒だった。彼にとっては自己の昇華と科学の発展とが同一のものだった。彼は研究に明け暮れて、家にはロクに顔を出さなかった。そして母は、彼の業績に恋をした。彼の地位、彼の栄誉、彼自身に付随するあらゆる名誉を愛していた。確かにそれは父自身ではあったが、父の心を理解してはいなかった。

母は美しい人だった。そして完全な人であろうとした。自身のその完全な人生のために父を選んだのだ。だが、完成されたものはやがて朽ちる他ないという世界の法則は、彼女にもまた適用されたのだ。父は母を愛さなかったし、愛した素振りさえなかった。彼にとっては研究が自身そのものであった。

そして姉は、完全なる美だった。その精神と、肉体には欠点一つ存在しなかった。姉は出来る限りで母の心を癒そうとしたし、私の前では完全な、美しい一人の姉だった。

私が、科学に殉じようとする父に対する反発から、文学に触れようとした時も、彼女は肯定してくれた。彼女は、両親の怒りに触れないようにとだけ言って、私の行為を肯定した。私が読めない字を呼んでくれたし、理解できない箇所に説明をつけてもくれた。そうして本はあの無機質な屋敷の中で、姉と同じぐらい大事な友人となってくれた。だから未だに私は、本に対して親愛にも似た感情を持ち続けている。

そうして私は、あの完全な姉を愛していたが、母は別だった。

父は姉を定期的に研究室へと連れて行ったが、母を連れて行くことは一度もなかった。それどころか母は、父と共に何処かの場所へ行くということすら経験したことがない。母は徐々に、歪んだ感情を姉に押し付けるようになった。

いつからか、或いは最初から破綻寸前の危機にあった我が家に止めが刺されて、いよいよ本当に破綻したのは、父が事件を起こした時だった。

父は姉だけを連れ、研究所から逃げ出した。

母は発狂した。完全であるはずだった母の人生は砂場の城のように少しずつ崩れていったが、その時にとうとうその城は壊れてしまった。

母はあらん限りの言葉で私を罵った。その罵倒によって私は様々な事実を知ったのだ。私が父の精子と母の卵子を人工的に受精させて作られた子供であることや、父と母に一切の性的な交わりがなかったこと。そして母は母自身の人生が存在し、私は母から一切の愛を受けてはいなかったということを。

警察が毎日のように家にきた。それがまた母の神経を蝕んだ。

父はやがて捕まった。そして彼らは普段持ち出さないような法でもって父を処刑した。

そして、姉は帰ってきた。無機質で、そして、気の狂ってしまった母の居る、私の育ったあの屋敷に。

母は、姉を殺そうとした。もはやこの世に父もなく、栄誉もなく、彼女の完全な人生は遠い過去となりながら、途方も無い憎しみだけは母の心のうちに残っていた。

母は表では不幸な未亡人を気取っていたが、屋敷の中では気の狂った暴君だった。母は私に、そして姉に暴力をふるった。より辛く当たられたのは、姉だった。姉は私をかばい、そして母は私よりもずっと強く姉を憎んでいた。

実際の責任の所在は母にとってどうでも良かった。ただ、致命的な破綻を起こした切っ掛けの一つが目の前に存在するというだけで、彼女にとっては暴力をふるう理由になり得た。

母は、表に見えづらい腹部を集中的に狙った。姉は服を着ていれば普通だが、その内側にはくっきりと『青痣』が刻まれていた。

日に日に姉は窶れ、食事もとれなくなり、死に近付いていった。そのさなか、姉が死に近いと自覚したある時。私に対してこっそりと、重大な真実を、その口から零したのだ。

「私は、父さんが作った一人目の人造人間なの」

 父は現在のアクターの元となる技術を開発した人物だった。そして姉は、父の実験作にして、初の成功作だったのだ。

私がその事実を知った数日後、姉は死んだ。

姉の死は世間に漏れることなく処理された。

母は自分の部屋に私を連れ込んで監禁し、私の目の前に姉の死体を切り刻み、姉の赤い断面を曝け出した。屋敷に敷かれていた赤い絨毯の上に、同じ色の液体が飛び散っていった様子を、私は未だに覚えている。

母はその死体を焼却し、あの無機質な屋敷に住む一人の亡霊となった。私と母が口をきくこともなくなり、大人になるにつれて私は屋敷を出ていった。それ以降、私の生まれ育ったあの家については何も知らない。

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