鏡4

その夜。宿の部屋の中で、私はあることに気がついた。

「あれ、鏡が」

 私があの家から抜け出す時に、唯一持ち出した手鏡がなくなっていたのだ。

きっと、鉄道か或いはバラナシの何処かで落としたのだろう。あの人混みの中だ。物が落ちても分からないだろうし、仮に落としていたとするのなら、返ってくることはあるまい。

それはただの手鏡でしかなかった。何の変哲もない、ただの手鏡だ。けれど私は、この逃走の間、何度も手鏡で自分の顔を見て、自分を安心させてきたのだ。

けれど今はもう、その手鏡がないのだ。あの家と地続きでいるという保証は、インドの人混みの中に落とされ、砕かれてしまった。

私は、ご主人様に質問をした。

ご主人様は少ない手荷物の中から一冊の本を出し、ボロボロのベッドに座り込んで、それを読んでいる最中だった。その小説のタイトルは英語で『夜明けの寺院』とあった。

「ご主人様。私、あの鏡をなくしてしまったようなんです」

 ご主人様は私の様子を少し見て、言った。

「あの人混みの中だ。取り戻すのは諦めて、明日また別の鏡を買ってやろう。それでは駄目かな」

 言ってご主人様は読んでいた本を閉じ、ベッドの上に置いた。

 私は言った。

「ただの鏡なら、何処にだってあります。この宿にもありますし、探さなくても色んな鏡があります。けれど……あの鏡こそが、私とあの家とを地続きで繋ぐ唯一のものだったんです。私は今この瞬間に、あの家から続く連続性を失ったんです」

 私は素直に、そう告白した。自分でも具体性のない、まるで戯曲か文学の台詞のような言葉だと思った。けれど、それでもご主人様は真剣に考え、私に言葉をくれた。

「鏡か……そうだな。鏡は重要だね」

 ご主人様は隣に座って、私をじっと見た。ボロボロのベッドが軋む音がした。

話は続く。

「青薔薇。人はどうやって自分を自分だと認識すると思う」

 随分と哲学的な質問だな、と思った。

私は答えた。

「私が今感じるものをもって、私を私であると認識することが出来ます。つまりそれは今私の目に映るこの手のような身体の一部を見て、私は私だと認識できるんです」

「なら、例えば君がサバンナに一人佇んでいたとしよう。そして君はその中で生活を営んでいる。木の実をとり、野の獣を狩り、野草を食べて暮らしていたとしよう」

 私が頷くと、ご主人様は言葉を続けた。

「さあ、君は何者だ。君には五肢が揃い、触覚もあれば音だって聞こえるだろう。しかし、君は何者だ」

「私は……私は私です。ですが、私は何をもって私が私と『成って』いるかを理解する術が、その状態の私には存在しません」

 私がそう答えると、ご主人様はとても喜んでくれた。その様子は無邪気な子供のようですらあった。

「そうだ。その通りだ青薔薇。君がただ一人で生きていたら、君は自身の存在は認識出来ても、自身が何者であるかを認識することは出来ないのだ」

 一拍置いて、ご主人様は言葉を繋げる。

「君も私も、他者を通じて自身が何者であるかを認識するんだ。君にとって私がご主人様であり、私にとって君が青薔薇であるように」

 そう言い表した後、ご主人様は私にぐっと近付いた。ご主人様のその目には、私がなくしたあの手鏡と同じように、私の姿が映り込んでいた。

「鏡は、ここにもある」

 ご主人様は、そう言った。

「ご主人様にとって、私は鏡になっていますか。そこにひびの一つたりとも、ありはしませんか?」

 私が言うと、ご主人様は私の手を取った。その手つきはまるで、高級なシルクを取り扱うかのような、慎重で、暖かなものだった。

「君は、美しい」

 一拍置いて、繰り返した。

「君は……美しい。ひび一つありはしない。美しい、私の過去と現在。そして未来の鏡だ」

 私は、その言葉が嬉しかった。私は、初めて私という存在を肯定されたと感じた。アクターとしての美醜や、資産的価値といった部分を内包しながら、私という一人の人間を見てくれた。そう感じた。

「なあ、青薔薇」

「なんでしょう。ご主人様」

「君は自身を美しいと思うかね」

 私は首を横に振った。

「私は醜い存在です。アクターは完成されていれば完全な美として成り立ちますが、私にはあの青痣があります。一部以外の全てが完成されていながら、その一部は永遠に欠けたままであるという存在は、完成を夢見ることの出来ないぶん、中途半端な何よりも醜いのです」

「だが、私にとって君は『青薔薇』だ。ありえない、奇跡的な存在だ。そしてその呼び名には、輝かしいほどの美が付随している」

「なんで……?」

「どうした。青薔薇」

「なんでご主人様は私を美しいなんて、そう言い切れるのでしょうか。私はこんなにも醜いというのに、何故」

 ご主人様は応えた。

「そうだね。確かにそろそろ、理由を話すべきかもしれない。君が何故私にとって、かけがえのない『青薔薇』であるかについて」

 ご主人様は頼りなくぶらさげられた引き紐に手をかけ、言った。

「この話は長くなる。君と私が床について、部屋を暗くしてから、その話をしよう。何だったら途中で眠ってくれても構わない」

 私もご主人様も、既に就寝の準備は済んでいた。

灯りが消され、夜の帳が下りる。部屋を漆黒が支配し、境界が消えたその瞬間。ご主人様は滔々と語り始めた。

ここから終わりに至るまでは全て、ご主人様の紡いだ言葉だ。

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