第20話 「……」

 〇高原夏希


「……」


 俺は…その感触を思い出して、少し泣きそうになった。


 …さくらの、大きなお腹。

 そっと触ると、そこから…元気な躍動を感じる事が出来た。


 …貴司の子供だ。

 そう言い聞かせながらも…俺は、貴司の好意に甘え続けている。


 ためらいがなかったと言えば嘘になる。

 さくらは人の妻だ。

 …貴司の、妻だ。

 俺は、何の関係もない。

 なのに…気安く触っていいのか?

 夫も、義母も見ている前で?


 そう思ったが…

 さくらの、困った顔を見て…触る気になった。


 俺が触らなかったら…さくらは落ち込むんじゃないか…なんて。

 勝手な想いだが。



 触れた瞬間、不思議な気持ちになった。

 この中に…子供がいる。

 さくらの…子供が…


 元気に産まれて来いよ。

 そう念じた途端、そこから返事のように反応があった。

 つい、驚いてさくらの顔を見て…目が合った。


 …俺の喜びや動揺が、貴司にバレなかっただろうか…


 後になって、少し悔やんだ。

 しかし…

 そんな物を忘れてしまうぐらいの、感動があった。

 生命というのは、なんて神秘的で素晴らしいものなんだろう。



「高原さん、ゴキゲンっすね。」


 ロビーでスタッフに声をかけられた。

 そんなに見え見えか?

 普段なら鼻で笑ってやり過ごすが…


「おう。」


 つい…手を上げて、笑顔で応えてしまうと。


「…な…何があったんだろ…」


 数人が、コソコソとそう言った。


 ははっ。

 だよな。

 俺は…酷く機嫌の悪い顔はしないが、誰にも彼にもいい顔をするわけでもない。

 その辺は、マノンのお株だ。



「…なんだ…ひどくゴキゲンだな。」


 エレベーターホールで一緒になったナオトが、俺の顔を見るなり…そう言って首をすくめた。


「そうか?」


「いつだったか…見た事あるぞ。こんなおまえ。」


 ナオトは俺の肩にしがみつくと、覗き込むように顔を近付けた。


「ははっ。やめろよ。誤解される。」


「マノンとはこれぐらい顔近付けて話してるだろ?」


「バカ言うな。勘弁してくれ。」


 ナオトは…何か察したのか、深くは聞いてこなかった。



 八階でナオトがエレベーターを降りて、俺はそのまま最上階へ。

 部屋に入ってすぐ、ドサリとソファーに沈み込んだ。



 …さくらは貴司の妻で…

 俺は周子の夫で。

 もう…俺達はお互い手を離したはずなのに。

 なぜか、こうして…会うチャンスがある。

 もっとも、さくらはいつも複雑な顔をしているが。



 さくらを手放して…俺は抜け殻だった。

 だが、何とか踏みとどまっていられるのは…

 今となっては、あの貴司の無茶な提案のおかげとも言える。


 貴司の親友として、桐生院家に出入りする事…


 さくらだけじゃない。

 知花も千里も…最初は戸惑っていた。

 だが、今は…二人とも俺を受け入れてくれている。


 …さくらの事を思うと、戸惑いはゼロではないが…



 廉の歌が、頭をよぎった。




 思い出にしがみついてるって?

 そうかもしれないな

 でもそんな人生があってもいいだろ

 これから輝くために

 過去に励まされる事があっても



 まさに…俺の気持ちを代弁している気がした。


 俺は…人の妻になったさくらのお腹に手を当てて。

 そこに居る…自分と血の繋がった子供を感じた。

 思い出のさくらを思い浮かべて、小さく笑う。


 過去を思って辛くなるのはやめよう…

 どうせなら、幸せな事を考えたい。

 そう切り替えてからは、俺の幸せは…

 妄想でしかなくても、それでも。

 この手に残る感触を、幸せと思って噛みしめる以外…他なかった。




 〇島沢尚斗


「なあ、ナオト。今日、ナッキーに会うたか?」


 俺とマノンしかいないプライベートルーム。

 二人きりなのに、マノンは声を潜めて言った。


「ああ。」


 俺がそう答えると。


「…なんや気持ち悪いぐらい、機嫌えかったんやけど。」


「…そうだな。」


「なんでや思う?」


「…何だよ。おまえ、何か知ってんのかよ。」


 俺が目を細めて問いかけると。


「たぶん…」


「たぶん?」


「孫やないかな。」


 マノンはニヤリと笑ってそう言った。


「…孫?」


「今日、千里が連れて来てるやん。双子。」


「そうなのか?」


「あの愛くるしさ言うたら…なあ。」


「……」



 確かに、千里からオフの日に子供を連れて来ていいかと聞かれた。

 と言うのも、臨月の知花を少しでも休ませたいとの気持ちでだ。


 だが…

 ナッキーの機嫌の良さは…違う所にある気がした。



 周子さんと籍を入れてからのナッキーは、ずっと…左手の薬指に指輪をしていた。

 だが、エレベーターで一緒になったナッキーは…指輪をしていなかった。

 どうした?と聞こうとも思ったが…

 機嫌のいいナッキーに水を差すのが嫌でやめた。


 …が。


 その少し後で会長室に行くと、ナッキーは指輪をしていた。

 指輪をして…鼻歌まじりで書類を読んでいた。



 相変わらず、何があっても俺達には話さない。

 いつも事後報告。

 そんなあいつに、イライラする事もあるが…

 それがナッキーだからな…

 仕方ない。



 コンコンコン


 ルームのドアがノックされて。


「はい。」


 返事をすると。


「おやましましゅー。」


 開いたドアから…


「おっ、サクちゃんやないか~!!」


 マノンがギターを置いて、ドアに向かった。


「もうあっちこっち行って来たんか?ん?」


「しゃくね、しょくろーいって、ちゅるちゅるしたのー。」


「ちゅるちゅるしたんか~。えかったなあ~。」


 マノンが、メロメロにな声を出してる。

 俺は初対面だが、SHE'S-HE'Sのプロデューサーでもあるマノンは、まるで自分の孫のように可愛がっているらしい。



「すいません。ちょっと入れてもいいっすか?」


 千里が申し訳なさそうな顔をして、一人を抱えたまま言った。


「入れ入れ。ええよな、ナオト。」


「あ…ああ。」


「咲華、ちゃんと挨拶しろよ。」


 千里にそう言われた女の子は…


「きうーいん、しゃくかっ、えしゅ。」


 俺の前に来て、そう言った。


「あっ…島沢尚斗です…」


 自己紹介された俺は、つい…真面目に答えてしまった。


「だはっ!!なんやそれ!!」


「う…うるさいな。」


 たぶん俺は…元々子供が苦手なんだと思う。

 真斗が産まれた時はものすごく嬉しかったし、愛おしく感じたが…

 どう接すりゃいいんだ。って思いが、常に頭にあった。

 それは次男坊の奏斗に対しては、さらに強くあった気がする。

 そんなわけで、俺の息子は二人とも…

 どちらかと言うと…俺に対しては父親というより、母親の夫…みたいなイメージが強いんじゃないかと思う。


 真斗に関しては…今は仕事上ライバルだしな。



 …だが、息子二人で良かったのかもしれない。

 娘だったら、俺はもっと接し方に悩んだかもな。

 実際、マノンも最近娘の鈴亜ちゃんがどうだこうだと悩んでたし…



「…可愛いなあ。将来この子が嫁に出るなんて考えたくないだろ。」


 何気なく俺がそう言うと。


「……」


「……」


 千里だけじゃなく…マノンまで黙った。


「…何だよ、二人して…」


「いや、まだまだ先ですが…想像したくもありません。」


「…千里がこんなに子煩悩になるとはな…」


 首をすくめて小さく笑う俺の隣に座ったマノンは…


「…どうした?おまえ。」


「うっ…うっ…嫁になんて…」


 マノンは、椅子の背もたれに突っ伏して、な…泣いてる?


「おいちゃんー、らめよー。しゃく、よちよちしゅるから。」


 女の子が、必死でマノンの頭に手を伸ばして、『よちよち』なんて頭を撫でる…って言うか、叩いてる。

 俺としては、その光景は微笑ましくて笑えるんだが…


「おまえが笑うな!!」


 なぜかマノンは、俺にキレた。



 …なんでだよ!!



「ノン君はゴキゲン斜めか?ん?」


 マノンが、千里が抱いたままでいる男の子の顔を覗き込む。


「家に帰りたいみたいで。」


「ママが恋しいか。」


「いや…えーと…」


「しゃくりゃちゃん…」


「……」


 さくらちゃん。



「…さくらちゃんも、おめでたなんやてな。」


「…はい。」


「……」


 俺達としては…複雑な気持ちしかない。


 ナッキーの愛したさくらちゃんは、今は他人の妻だ。

 そして…妊娠もした。

 …だが、今日のナッキーの機嫌の良さを見ると…

 もう、さくらちゃんの事は吹っ切ってるのか?



「…おうちかえゆ…」


 男の子が千里にそう言うと。


「おまえ、さくらちゃんの事好きなんだろ?好きなら、もう少し我慢しろ。それが男だ。」


 千里は真顔でそんな事を言った。


 …子供相手に、本気で言ってんのか?

 つい、笑いそうになる。


「咲華はいい子にしてるぞ。」


 千里がそう言うと、男の子はマノンの隣に座っておとなしくしている女の子を見て。


「…しゃく、おうちかえよーよ…」


 そう言った。


「しゃく、かーしゃんと、しゃくりゃちゃん、しゅきだから、がまんしゆ。」


「……」


「ほら、どうする?」


「…がまん…」


 こういう時、男はよええな~…なんて、一人で心の中でつぶやいた。



「…真斗がホームシックになった時の事、思い出すな…」


 俺が足を組んでそう言うと。


「あー…ワールドツアーの時な。」


 マノンが女の子を膝に抱えて笑った。


「…あの時は、さくらちゃんに助けてもらった。」


「…そうなんですか?」


「ああ。客として来てくれたのに、真斗が彼女から離れなくて。」


「ふっ…」


「何だろうな。子供が安心する何かを持ってるのか…真斗は、ずっと彼女の事を忘れられなかったらしい。」


 俺がそう言ってる隣で、マノンは目を細めて。


「ずっと想い人がおる男のどこがええんやろか…」


 低い声でつぶやいた。


「は?」


「…いや、何でもない。」



 千里の腕でぐずっている男の子は…あの日の真斗のようだと思った。

 妊娠中の愛美を気遣ってツアーに連れ出したのはいいが…

 本当に、あの時は誰にも懐かなくなって困った。


 なのに…さくらちゃんには、安心しきっていた。


 他人に負ぶわれてる真斗を見た時は、少し唖然とした。

 俺が腕を掴んだ時、さくらちゃんは俺を蹴り飛ばそうとしたんだっけな…

 真斗も、子供ながらに…自分を守ってくれるかもしれない人物というのは、察しがついたのかもしれない。

 一度、愛美と共に助けられているわけだし…。



「…さくらちゃんのどこが好きなんだい?」


 男の子にそう問いかけると、チラリと俺に視線を向けて。


「…んっとね…ひみちゅきち、ちゅくってくえたり…」


「…秘密基地…」


 つい、マノンと同時に言った。


「ちゅうしんしゅるの、ちゅくってくえたり…」


「…ちゅうしん?」


 俺が聞き返すと。


「しゃくも、したよ!!しゃくりゃちゃん、しゅごいの!!おうちのもしもし、ちゅくったの!!」


 マノンの膝にいる女の子が、目をキラキラさせて言った。


「…おうちのもしもし?」


「ああ…うち、広いんで…どこの部屋にいても連絡がつくように、インターホン付けたらどうかって話をしたら…」


 千里が苦笑いしながら。


「…さくらさん、言った次の日には、作ってました。」


「……は?」


「…作ってたんですよ。」


「……インターホンを?」


「…はい。」


 信じられない事を言った。



「……どうやって?」


「…口では説明しがたいんですが…工具を駆使して。」


「……」


「それで、こいつは、さくらさんの技術ショーのトリコなんですよね。」


 千里は男の子の頭をグリグリしながら。


「華音、今日一日我慢したら、さくらちゃんもきっと誉めてくれるぜ?」


 耳元で小声で言った。


「…うん…」


 まだ納得いかないようではあったが、小さく頷く男の子。

 すると…


「とーしゃん、しゃく、なちゅのおへや、いきたい。」


 女の子が言った。


「…仕事中だからダメ。」


「しゃく、いいこに、しゅわってるから。なちゅのおしおと、いいこして、みてゆ。」


 俺とマノンは顔を見合わせて。


「…ナッキーの事か?」


 千里に問いかける。


「…はい。」


 千里はバツが悪そうに答えたが…


「よし。なちゅの所、行こうぜ。」


 俺が立ち上がると。


「せやな。なちゅの所で、美味いもんでも飲ませてもらおうで。」


「せやなー、こーも、ゆってたー。」


「なんやて?こーも言うてたか。あいつ、真似しおって。」


 マノンも、女の子を抱えたまま立ち上がった。

 千里は少し複雑そうな顔をしていたが…



 俺とマノンが先頭を切って会長室に入ると、書類から顔を上げたナッキーは。


「おっ、何だよ。勢揃いで…華音と咲華も来たのか。」


 双子を見付けて…笑顔になった。


「なちゅー、しゃく、おしおと、おうえんしゆよー。」


「あはは。それなら、ここに座ってここに丸を書いてくれ。」


「ろんもー。」


「任せたぞ。二人で仲良くやるんだぞ。」


「じぇす!!」


「ははっ。じぇすってなんだよ。」



 …ナッキーはめちゃくちゃ笑顔だが…

 今日の浮かれ具合は…

 やっぱ、孫の事じゃない気がする。


 …それ以上の何かが、あったんだろうが…

 まあ…

 今は…



「すいません…邪魔して。」


「いや、いい息抜きになる。」


 俺とマノンは、コーヒーを淹れながら…その様子を眺めた。

 膝に双子を座らせて、本当に…いつになく柔らかい表情のナッキー。

 千里は申し訳なさそうだが…こんなナッキーを見たら、毎日でも連れて来てくれと言いたくなる。


 さくらちゃんとは、もう結ばれる事はなくても…

 せめて…

 こうして、ナッキーに安らげる存在がいるなら…



 俺達は、安心なんだよな…。

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