5章 3

「おはよう水無月さん」

 目の前が真っ白になる感覚。危うくその場で崩れ落ちそうになるが、教室の壁に手をついて体勢を保つことに成功する。

 それから声をかけてきた玲を睨みつけるようにしてみて、ため息。無言で自分の席へと向かう。そうだ。声をかけてきても無視をすればいい。そうすればいつか声をかけてくることもなくなるだろうと、教室を中程まで進んだ所で


「お、おはよう水無月さん」


 驚き、よりもそれ以前に理解できなかった。

 それは男子の声だが秋山玲の声ではなかった。一番後ろの列の席に座る少年が、ぎこちなく笑顔を浮かべて彼女へと手を振っていた。


「……遠藤……くん?」


 少年の名前は覚えていた。こうなる前に何度か話したことがあったからだ。

 大柄で体育会系の少年は、声をかけたことによって自分へと飛んでくる視線に背すじを冷たくしながらも、それでも笑顔を保った。

「ど、どうして……ですか?」

 静かな教室内で問いかける。遠藤はやはりまだ視線に少しだけ怯えながらも

「昨日……ボクも水無月さんと秋山くんのやりとりを聞いていたんだ。それで、水無月さんが帰ったあと秋山くんに、聞いてみたんだ。

 どうしてこんなことをしているのって」

 その言葉に留美が玲へと振り返ると、そこには笑顔で腕を組んでいる少年の姿。

「そしたら、自分がやりたいことをやっているだけだって。みんなだってそうでしょ? 自分が彼女をいじめたいから、そうしているんでしょって。

 だからボクも挨拶をしたんだ」


 深呼吸をして、背筋を伸ばして

「水無月さんに挨拶をしたかったから、ボクはそうしただけだよ」

 ざわつき出す教室。

 一人、玲だけはニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 そしてもう一人。

「あーもう、なによなによ。この空気で出て行ったらあたしがそこの彼に続いたみたいに思われるじゃない。

 別にそうじゃなくて、さ」

 一番前の席、女子が数人集まっていたグループの中の一人が

「ちょ、ちょっと理恵子?」

 他の二人が驚く顔をよそに

「ごめんね。あたしさも、もうやめたの。

 なんていうかさ、こんなことしていた自分に腹立ってきたってのもあるしさ、みんなもこんなくだらない事、もうやめたら」

 留美へと振り向いて


「おはよっ、水無月さん」


 3人目の挨拶。 


 なにかが変わり始めた。

 しかしそれを少女は素直に受け止めることができない。この世界は自分が創りだした夢。自分にとって有利に世界が進むことは当たり前のこと。予測していなかった展開だが、無意識に変化を望んでいたとしてもおかしくはない。


「そう。喜ぶ理由なんてない」

 不意に口にしていた言葉を

「それは違うかな」

 少年はたしかに耳にしていた。声をかけられて目を開けて、そこで少女は初めて自分がいま、目をつむっていたことを知る。

 臭いものに蓋をするように世界から目を背けていた。

 玲は中庭のベンチに腰を掛けていた留美の隣に座って、正面を向きながら

「ここは留美さんの夢じゃないんだ」

「……え?」

 驚く留美の視線を横目に

「実はここはボクの夢なのさ。そこに留美さんを招待しているのが現状。だからここは留美さんの思い通りの世界ではない」

「……玲さんの……夢?」

 頷く玲。

「もちろん基本となっているのは留美さんの夢。登場人物もその思考も留美さんの夢が元になっている。大変だったんだよ? 彼ら彼女たちの思考と行動パターンを確かめるのに、あの夢を百回以上体験したんだからね」


 言葉が出て来なかった。


「相変わらずボクには動く権利がないし、結末はいつも一緒だし。どうにかなりそうだったよ。でも、おかげでこの夢がある。これは、限りなく現実に近い、夢」


 力説されても留美はそれでも頑なに、すべてを受け入れることはできなかった。

 しかし変化は確実に起こっている。少しずつだが確実に。

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