剣の台座

 エレベーターを待つのがもどかしく、二段飛ばしで階段を上がる。小さな島とはいえ、いちおうの観光地であれば繁華街の病院は周りの建物と比較しても大きい。上階の緊急外来まで到達する頃には、息があがっていた。運動不足だ。間違いない。あと、年齢もあるかもしれない。もう、若くはない。その自覚はある。

「あ、来た」

 勇凪が五階の病室に到着したとき、アオラはベッドに腰掛けて鼻歌を唄っていた。左手の肘の内側に採血の止血痕としてガーゼが貼られているものの、それ以外にはなんの変わりもない。


 ベッドから降りて来たアオラと手を繋ぎ、ナースステーションの看護師に挨拶をして一階へ。受付で支払いをして病院を出る。

「暑いねぇ」

 台風一過で晴れていた。また体調を崩しては良くないので、アオラに帽子を被せる。島に来たばかりのときも被せてやった麦わら帽子。

 病院から空港までは歩いてすぐだ。すでに荷物は空港に預けてある。照りつける太陽の下、歩く。

 アオラは無事だった。というのも、伝染病になどかかっていなかったからだ。


 昨晩、嵐の海をどうにか渡りきった勇凪がたどり着いたのは、幸運にもガンジス本島病院のすぐ近くだった。ふらつく足で救急救命部に駆け込み、事情を説明した。

 勇凪はそこで力尽きたので、それ以降のことは伝聞になる。

 伝染病の可能性ありということで、防護服を着た救急隊員が船で勇凪の家まで乗り付けた。その際に家の近くの桟橋が破損したらしく、今日の朝見にいってみると飛び石のようになってしまっていた。ま、それは良い。直せば良いので。救急隊員は眠っていたアオラを運び出して船内で検査をしたが、伝染病の兆候は認められず、病院に到着したあとでさらなる検査に回した。結果としてわかったのは、過労というだけだった。疲労がたたり、熱を出したというだけのことだったのだ。アオラ自身が言っていたとおりだった。


 前回の二の轍を踏まぬよう、既に次の便のチケットは購入済みだ。アオラにチケットを渡し、肩掛け鞄を返す。

「まだ時間があるし、中で一緒に待とうよ。そういうのって、できないの?」

 海面効果翼機には乗らずに手荷物検査場の奥に入ることのできる、見送り用のチケットというのはある。空港内でゆっくり休めるような場所は、待合ロビーの喫茶店だけだ。空港の外で待つという手もあったが、体調を悪くしたばかりのアオラをあまり歩かせたくはなかった。チケットを買って、一緒に中に入る。

 早めの便は見送ったのだが、感染対策と台風による欠航のあとのため人は多かった。喫茶店兼土産物屋の店頭で飲み物だけ注文して、飲食可の待合ロビーの長椅子で待つことにする。


「さなちゃん、昨日はごめんね」

 アイスクリームの乗ったメロンソーダを啜りながら、アオラがぽつりと言った。そう気落ちした顔をしていたようには見えなかったが、自分が倒れて勇凪が嵐の中海に出ることになったことを申し訳なく思っていたらしい。

 勇凪は、疲れたなら仕方がないし、アオラが重病だと勘違いして海に出たのは自分だと言ってやった。

「うん、それは……そうかもしれないけど」

 いまいち納得していない表情であったが、勇凪としてはとにかく、良かった、以上の感想はなかった。アオラが死ななくて良かった、と。本当に、それだけだ。

「さなちゃん?」

 アオラは生きているし、勇凪も生きている。自宅の桟橋は壊れたらしいが、修理くらい自分でできる。ヨットは幸いなことに岸に流れ着いていたらしい。積んでいた物品が流されてはいたが、ヨット本体は無事だった。そうでなくとも、アオラが生きている。それだけで、十分だ。

「さなちゃん、泣いてるよ」

 アオラの指先が頰に触れる。小さな指先に水の玉が浮いていた。勇凪は泣いていた。


「泣くなんて、珍しいね。さなちゃんが泣くの、初めて見た」

 珍しい。そうかもしれない。ほとんど会う機会がないアオラからすればそうだろう。いや、誰から見てもそうかもしれない。勇凪は人前で泣かない子どもだった。

 だが勇凪はいつも泣いていた。

 転んでときも、滑って海に落ちたときも、助けるのが遅れた女の子の身体に障害が残ったことを知ったときも、彼女を守るために人を殺してしまったことを知ったときも。

 大人になってからもそうだった。論文が通らなかったとき。学会発表で失敗したとき。母が死んだことを知ったとき。答弁でうまく喋れなかったとき。レイラニが結婚したとき。自分が事故で入院していたとき。絶食して飢餓状態のときにラーメンのコマーシャルを見たとき。レイラニが死んだとき。


 いつも、いつだって泣いていた。

 ただ、ずっと隠れていただけだ。隠れて泣いていた。人前で泣かないようにしていた。


 悲しいときが主だった。辛いときが主だった。後悔してきた。間違えた、失敗した、そんなことばかりだった。

 だが今回は嬉し涙だ。衆人環境の空港ロビーで泣くのは恥ずかしくはあったが、しかし、くそ、これくらいは仕方がないものだと思った。目元を拭う。

「ママの言った通りだね」小さく笑って、アオラが言った。「さなちゃんは、ほんとは泣き虫なんだって」

「レイラニが?」

 レイラニはアオラが物心つかないうちに死んでいる。それなのに、言った通りとは……。

「え? ビデオレターだよ?」

 当たり前のことを言うかのように、アオラは首を傾げた。それから、あれ、知らないのと確認してくる。


「ママのビデオレターだよ。えっと、ぼくが産まれてちょっとした頃に作ったんだって」

 そんなのは、初耳だ。

「なんで……」

 そんな頓狂なことを、と言いかけて、勇凪は気づいた。レイラニは若いうちに実の父と母、それに義理の母親をも亡くしている。であれば、彼女にとっては、死はいつ訪れてもおかしくないものだったのかもしれない。それで、それで、ビデオレターだ? 聞いていないぞ。八尾だって言っていなかった。

「なんでだろ。さなちゃんに直接言ってることがなかったからかなぁ。お父さんとぼく宛てだったよ。でも、さなちゃんのことはいろいろ言ってたよ。さなちゃんって呼び方も、ママが言ってたから知ったし」

 思えば、勇凪のことを「さなちゃん」と呼ぶのはレイラニだけだった。なぜアオラが同じ呼び方をするのか疑問ではあったが、そんな理由があったとは思わなかった。


「さなちゃんはね、ママにとっての騎士なんだって。いつも守ってくれてありがとうって。助けてくれてありがとうって」

 アオラが言った。

「あとね、アオラニって、ゆっくり流れる雲って意味なんだって。風がほとんど凪いでいて、それで、ゆっくり流れる雲だって。そういう意味で名付けたんだって。そういう意味なんだって」

 空港内にアナウンスが流れる。次の便の搭乗者は、搭乗者レーンに並べという内容だ。周囲にいた客たちが一斉に列に並び始める。アオラにも促して、一緒に並んでやる。


「さなちゃん、この帽子、貰っていってもいい?」

 もうすぐ搭乗者レーンを抜けるというときに、アオラがおずおずとした口調で尋ねてきた。遠慮しているのはわかるが、土産だの服だの遊び道具だのといろいろと買い与えてやっているので、今さらである。快諾する。

「ありがとう。さなちゃん、また来るね。あと、さなちゃんもたまにはこっちに来てね」

 勇凪はアオラが海面効果翼機に乗り込み、さらにその機体が海面すれすれに飛び立つまで見送った。


 空港を出て、港へと向かう。台風のあとなのでいろいろと買い物がしたかったが、それは一度家に戻って必要なものを確かめてからにしよう。

 港で、自分のヨットが修理されるまで借りているヨットに乗り込む。風は凪いでいたが、モーターフィン付きなので帰るのには問題がなかった。ゆっくりと、散歩するように船は進んでいく。視線は南へ。剣が見える。天から伸びる剣が。軌道エレベータ。


 勇凪はこれまで、たくさんの選択肢を間違えてきた。

 たぶん、もっと良い生き方があった。間違えなければ、成功できた。人生の勝者になれた。

 言い訳するつもりはない。勇凪は負けた。恋愛でも、仕事でも、何もかも。敗者として、何もできないまま戻って来た。

 確かに負けたかもしれないが、負け犬ではなかった。戦って負けた。

 負けたことは悔しい。そういうものだ。


 だが、敗者は敗者なりの楽しみもある。

 たとえば、アオラの成長を眺めるのは楽しみだ。自分だったらどうするだろう、と重ね合わせることもできる。

 あるいは、これまでの人生を振り返ることもできる。あのとき、こんなふうに思っていたのだなと、思われていたのだなと。

 もしこれが命を賭した戦いであれば、負けたら次はない。そこで終わりだ。死んで、終わりだ。だがそうはならなかった。これは殺し合いではない。いってみれば試合で、だから負けたら観客席で眺めれば良い。

 そうやって生きていく。まだ生きている。試合は終わったかもしれない。勝敗は決したかもしれない。だが、それでも生きていく。生きていける。 誰だっていつかは負ける。勝ち続きの人間だって、死んだら負けだ。終わりだ。まだ終わりじゃない。だから悔やむではなく、感想戦を語るように、生きる。そういうものだ。ゆっくりと、生きていく。

(了)

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涙の剣 山田恭 @burikino

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