第33話 日本国特区ガンジス諸島、自宅

 

 ソファの上に寝かせ、タオルケットをかけてやる。台風の勢力下でこれだけでは寒そうだったので、毛布も。

「アオラ?」

 声をかけると、瞼を薄らと開ける。碧い目が覘く。レイラニと同じ色の瞳が。

「なに?」

 アオラの声はか細い。意識はあるのだ。歩けるし、たぶん、走れもするだろう。そう悪い体調ではないのだ。ただ、少しだけ身体が熱くて、息が苦しそうで、辛そうで、だがなぜそうなったのかがわからない。


 血液感染の伝染病。

 勇凪の脳裏に朝のニュースの言葉が浮かび上がる。


 アオラが乗って来た海面効果翼機の便は、ニュースで感染が陽性だったという男性とほとんどすれ違いだっただろう。ほとんど接触はないに等しいとしても、同じ空間にいれば、この陽気だ、蚊の一匹や二匹が港に紛れ込んでいてもおかしくはない。ガンジス空港は寂れているのだ。虫対策に腰を入れるような場所ではない。

 即座に死ぬような病気ではない。医者に見せれば薬はあるし、重症化するとは限らない。それはわかっている。そもそも本当にその伝染病なのかどうかわからない。それもわかっている。停電で電話もネットも使えない。携帯電話にしても勇凪の場合は電話回線を契約しているのではなく、インターネット回線を使うIP電話なので、医者に連絡しようがない。わかっている。


「ちょっと疲れちゃったかな……楽しいから、はしゃぎすぎちゃった」

 ただの疲労かもしれない。それはわかっている。

 勇凪はアオラのそばを離れて台所へ行き、冷蔵庫から牛乳を取り出した。まだ冷えている。当分は大丈夫だろう。コップに注ぎかけ、停電していることを思い出し、鍋に注いだ。ガスコンロの上に乗せ、火にかける。沸騰するまえに火を止め、コップに注ぐ。砂糖瓶を手にとってから少し逡巡し、蜂蜜に持ち替えて注ぐ。かき回す。

「牛乳?」

 ソファまで戻ると、アオラは半身を起き上がらせて首を傾げた。ホットミルクだと教えてやる。蜂蜜入りなので甘いと。

「なんで?」

 カップを握らせてやる。やはり熱い手だ。


 ミルクを飲ませている間に机に向かって書き物をする。手紙だ。書き終えるとビニールでぐるぐる巻きにし、表面に赤の油性ペンででかでかと読むように書いておく。玄関のドア用とポスト用のふたつ。

「さなちゃん、何書いてるの?」

 強風の中でも飛ばぬようにと手紙を外に貼り付けはしたが、これだけでは不安だ。少し考えてから、パソコンへと向かう。停電はしているが、バッテリーが稼働している間は動く。エディタを起動してプログラムを書いていく。単純なプログラムだ。一定時間ごとに電話をかけるように試行するだけの。停電の間は電話が繋がらないので、エラー表示が帰ってくるだけだ。だがもし電気が復旧して電話が通じるようになれば、指定した番号に繋がり、自動でメッセージを流すようにしておいた。


「これ、甘いね」

 二階に上がり、物置の中を探る。さすがに直ちに使えるようなものは少なかったが、ロープが見つかった。身体を縛るくらいのことならできる。合羽、ヘッドライト、あとは軍手。その程度か。軍手は濡れるから、あまり役に立たないかもしれない。

 一階の居間に戻ると、アオラは寝息を立てていた。ホットミルクのカップが近くに転がっていたが、飲み干したのかほとんど溢れてはいなかった。その小さな身体の上に毛布を一枚追加して、嘔吐しても大丈夫なように顔は横向けにしてやった。


 地図を確認する。

 蝋燭の灯りを消す。

(暗いな)

 既に陽は落ちた。夜がやって来たのだ。嵐を伴って。

 引き揚げて玄関に入れておいたヨットを引きずり、海に浮かべる。風は酷い。ヨットが海に浮かばなくなるわけではない。起動。充電量、問題なし。モーター、問題なし。動力、問題なし。すべて大丈夫だ。ちょっと天気が悪いだけで。


 勇凪はヨットに乗ると、ハンドル右手側のアクセルを捻った。モーターが回転、海中のプロペラを回し、ヨットは嵐の海を進み始めた。

 ガンジス諸島は本島でも面積二十平方キロメートルもない小さな島だ。だが勇凪の家のある西部から病院や港湾のある繁華街の北部に行くために徒歩で行くのは非現実的だ。海岸沿いに道はないでもないが、途中に他の家などほとんどなく、道も悪い、らしい。長年この島に住んでいる勇凪ですら、使った覚えはない。もしかすると、途中で道が途切れていて無駄足になるかもしれない。足を踏み外して海に落ちるかもしれない。闇夜で迷うかもしれない。なんにしても、時間がかかるし、不確実だ。この島では海路が基本なのだ。陸路では数時間かかる道のりでも、海路なら数十分で行ける。ただ、少しばかり雨が強く、風が吹いていて、波が高いだけ。


 まぁ、この程度だ、と勇凪は思う。風速はせいぜい秒速三十メートルだろう。観測でもっと大型の台風の中に船で入っていき、気球を打ち上げたことだってある。雨が強いとはいっても、雹や霰ではない。痛いほど顔や手を叩いているが、それだけだ。

 高波がヨットを揺らすだけなら良いが、巨大な波が持ち上げるとヨットが飛んでしまう。着地に失敗すれば横転するだろう。横転しても航行機能に支障はなかろうが、漆黒の海に投げ出されてしまえばヨットに戻ることができず、そのまま溺れ死ぬだろう。

 大丈夫だ。昔からこの立ち乗りのヨットに乗っていた。タイプは違うが、慣れている。子どもの頃は、誰よりもヨットの扱いが上手かったのだ。 子どもの頃はモーター駆動のヨットなんて邪道だと思っていたが、なかなかどうして悪くはない。特に、こんな風が不安定な嵐の夜は。


(海岸沿いは無理か………)

 岸辺に近づくほどに風が強く、波が高い。砂浜に打ち上げられるだけなら良いが、岸壁に叩きつけられたらたまったものではない。これ以上進めなくなってしまう。家の灯りを見つけ次第接近して電話を借りようと思ったが、大きく回って直接島の北部へ向かったほうが良さそうだ。朝に回した予報計算の結果を考えても、少しでも風がマシな場所を通ろうとすればそうなる。

 夜の暗さと雲の分厚さも手伝って、少し岸辺から離れただけでも島が見えなくなる。ナビがなければ、方位すら覚束なくなっていただろう。


 周囲に何も目印になるようなものが見えなくなると、三十年ほど前の日を思い出す。海のど真ん中で漂っていたレイラニを見つけた日を。

 あの日、勇凪はレイラニを放っておいた。

 知らなかった。海の真ん中を漂っていた箱の中に、呼吸も心臓も止まった女の子が載っていたことなど。

 想像もしなかった。自分が助けてやらなければ死んでしまう生き物がいるなどとは。あんなに悪い結果になるだとは。

 そんなふうに、いくらでも言い訳ができた。いくらでも誤魔化せた。

 だがどれだけ言葉を連ねても、勇凪が助けるのが遅れたせいでレイラニの足に障害が残ったという事実は変わらない。

 勇凪はこれまでいくつもの、いくつもの選択肢を間違えて生きてきた。


 もう後悔したくない。

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