第32話 日本国特区ガンジス諸島、自宅


 機体のトラブルで運休というのは、わかる。問題があるまま航行して墜落するよりは、安全を鑑みて運休してくれたほうが良い。海面効果翼機は基本的に海面すれすれしか飛行せず、特性としては船に近いが、構造そのものは飛行機に近いので、発着前には入念な検査が行われる。

 だが翌日も運休というのは、解せない。

 アオラはまだガンジス諸島で遊べるということを喜んでいたが、勇凪は不安だった。子どものときも、出戻りしてからも、こんなふうに丸一日運休になるということはなかった。海面効果翼機は一機だけではないので、トラブルがあったのが一機だけなら、便に多少の影響はあっても、他の機体で飛べるはずなのだ。


「すいません、結局、台風で帰せなくなってしまいました」

 翌々日、本来のアオラを帰す予定だった日の次の日の朝、勇凪は外の桟橋の先に立ち、本土の八尾へと電話をかけた。一昨日から便を確認するたびに電話をしていたのだが、結局運休続きで台風の暴風圏に入ってしまった。まだ雨は降ってはいないが、風はいつもよりも湿気を孕み、南西の空は黒く染まっていた。

『アオラは嫌がっていないだろう? こちらは大丈夫だよ。きみのほうは大丈夫かい?』

「おれのほうは大丈夫なんですが……」

 どうせ仕事もない身だ。予定も何もない。

『じゃあ、問題ないよ。長くなって悪いね。よろしく』

 例によって電話でのやり取りは短い。


 電話を切って家の中に戻ると、ソファに座ってテレビを見ていたアオラが手招きしてきた。

「さなちゃん、見て、見て」

 なにか面白い番組でもあったか、動物の可愛い映像でも出ていたかと思って見ると、画面に映っていたのはなんの変哲もないニュース番組の映像だった。だが、アオラが興味を示した理由はすぐにわかった。ローカル番組ではないのに、テロップにガンジス諸島の名前があった。

「なんかね、病気の人が来たから界面効果翼機エクラノプランとか船の便を止めてたんだって」


 勇凪はパソコンでニュースを調べた。全国ニュースになるような話題であれば、探すのは簡単だった。『血液感染症、あわや日本で流行か』という見出しがある。記事によれば、四日前に関東ーガンジス諸島間の便に乗っていた男性が本土に戻ってから南米特有の血液感染症を発症したらしい。死亡率が極端に高いというわけではないが、放置していれば死に至るような病だ。蚊などの虫を媒介して簡単に感染するため、パニックを避けるため、秘密裏に航路を封鎖して検疫を行っていたのだという。 勇凪は知らなかったが、海面効果翼機のみならず、船便も封鎖されていらしい。 二次感染者は現在までのところ確認できず、おそらく被害は拡大していないが、もし体調に異常が確認された場合は病院に連絡後、医師の診察を受ける旨が書かれていた。


「すごいね、大事件じゃん」

 アオラは自分がいる場所で事件が起きていることが嬉しいのか、ソファの上で足をばたばたとさせている。

 勇凪は調べ物を続ける。潜伏期間は数日。発症した場合、発熱から始まり、倦怠感、頭痛、嘔吐、筋肉痛、呼吸不全などが生じる。軽いものであればそのまま快癒へ向かう場合もあるが、重い場合は数時間で重症貧血や臓器不全から合併症を引き起こし、死に至る場合もあるらしい。老人や子どもの場合は、特に症状が進行しやすい。

 パソコンから離れ、ローテーブルの下に置いている薬箱から体温計を取り出す。

「なに?」

 ソファから身を乗り出すアオラに体温計を渡す。

「病気になっていないかどうか?」

「念のため」

「大丈夫だよ」

 と言いながらも、アオラは抵抗は示さなかった。すぐに体温計の表示を出してみせる。平熱だ。勇凪も念のため。平熱。


「心配しすぎ」とアオラは笑った。「でも、これで一安心だね。遊べる」

「外には行けないけどね。台風だから」

「窓から釣竿出して釣りするのって駄目?」

「風が強くなるから駄目」

 ちぇっ、と舌打ちしてアオラは台所へと向かう。冷蔵庫から取り出すのはビニール袋に入った魚だ。「さなちゃん、墨は?」スーパーの袋に入れたままで台所の隅に転がっている。「あとは布きれ」ヨットの手入れに使っているウェスがある。それに白のTシャツ。

「じゃあ、始めますね」


 二階から本を取りにもどってきてから、アオラは居間の卓上に俎板と魚と墨、ウェス、本を並べる。魚拓を取ると、アオラは言った。台風で家の外に出られないならば、とアオラは昨日のうちに家の中でできる遊びをいくつも考えていたのだ。大半は実行できないようなものだったが、魚拓は悪くはない。台風の中、海に落ちる心配はないし、屋根から落ちる危険性もない。

 魚拓を取るのは直接法と間接法があります、と本の内容を見ながら魚を横にし、Tシャツ被せてその上にウェスで作った墨付きのタンポンを当てる。薄く、柔らかく、ゆっくりと、何度も繰り返す。するとTシャツの形が浮き上がって来る。

「さなちゃんも作ればいいのに」

 魚拓なんて一度も取ったことがないというと、アオラは信じられないとでも言いたげだった。アオラはなにかと形に残したがったが、勇凪はそうするつもりはなかった。


 しばらく叩き続けて、最後に墨で瞳を入れたら、魚拓が胸に入ったTシャツが完成した。正直なところ、洒落たデザインとは言い難い。しかしアオラは体格にしては大きめのそれを身に纏い、くるくる回って気に入ったようだ。

 魚拓の道具を畳んで昼食を作ろうとしようとした頃、雨が降りはじめた。すぐに豪雨になる。

 昼食が終わり、風が窓を叩くようになってきたとき、急にテレビの電源が切れた。

 のみならず、電灯も切れた。停電だ。

 勇凪はブレーカーを見に行った。分厚い雲が空を覆っているとはいえ、夜ほど暗くはないので確認は容易だ。ブレーカーは落ちてはいなかった。ということは、電圧が原因なのではなく、供給のほうの問題だろう。このあたりの送電線は地下埋め込みだが、切れたのかもしれない。電源がやられてしまうと、テレビもネットも使えない。電灯も、調理器具も。幸い、蝋燭だのガスコンロだのといった道具はある。水も非常用のものがあるので、夜になっても真っ暗闇で飲み食いができないということはないが、それにしても不便ではある。修理が必要だが、具体的にどこの送電線が壊れているのかわからず、わかったとしてもこの台風の中では直せないだろう。


「台風だねぇ」

 状況を聞いたアオラは、なぜか嬉しそうだった。電化製品は使えないし、夜は暗いと説明しても、「キャンプみたい」で済ませてしまう。

「外には出ないようにね」

「出ないよ」

 そう言うが、いまひとつ信用できない。母親のレイラニも、雨の日にわざわざ外に出てびしょ濡れになってくるような少女だった。いや、子どもの頃の話ならば、よく海に飛び込んでいた勇凪のほうが濡れ鼠になる機会は多かったかもしれない。


「なんか面白いことあったの?」

 思い出し笑いのせいか、アオラが少し拗ねたような調子で尋ねる。正直に思ったことを答えてやった。

「へぇ………そうなの? ママは海に飛び込んだりはしなかったの?」

「飛び込みはしなかったけど、よく落ちてた。そこの桟橋から」

「ママって運動神経悪かったんだね」

 主として足が悪かったせいだが、それを差し引いてもおっとりしているというか、鈍臭いところはあった。


「もっと子どもの頃のこと、お話ししてよ」

「話にするほど面白いことはないよ」

「でも、今の話は面白かったよ。お父さんだと、大人になってからのママしか知らないんだもん。さなちゃんは、子どもの頃からママと一緒にいたんでしょ?」

 勇凪は台所でコーヒーを淹れた。アオラのぶんは「葡萄ジュースがいいなぁ」葡萄はなかったのでオレンジジュースを入れてやる。


 雨と風の音を聞きながら、レイラニの話をしてやった。


 海の上に浮いているところを拾ったこと。

 片足に麻痺が残ったこと。

 最初は言葉もろくに話せなかったこと。

 ブーメランを買って投げたこと。

 観光客の女性にブーメランの投げ方を教わったこと。


 レイラニを助けようとして観光客を海に突き落としたことまではさすがに話さなかったが、勇凪はレイラニとの思い出を具に語った。子どもの頃のレイラニは、勇凪といつも一緒だった。

「まぁ、そんなかんじかな」

 勇凪の身体に頭を寄せるアオラの返事はなかった。さすがに話が長すぎて疲れて寝てしまったのだろうかと最初は思ったが、そうではなかった。吐息が荒く、身体は熱く、アオラの体調は明らかに変わっていた。

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