第12話 米国西海岸、サンフランシスコ

「面白かったよ。ありがとう」

 そんな言葉で片づけられれば、自分の研究に興味を示されなかったということは明らかだ。

 面白い研究だ、というのは余程食いついてこない限りは褒め言葉ではない、という話を聞いたことがある。面白かった、というのは、つまり、それ以外に言うことが無くて、質問をしたり、疑問に思ったり、もっと訊きたいと思ったり、そうした情動が産まれないときの文句だ。おまえの研究はつまらない、というのを婉曲的に表現すると、面白かった、になるというわけだ。


 学会四日目。ポスター発表日であったが、なかなか客が来ない時間帯が続いていた。

 ポスター発表とは、その名の通り研究内容を描いたポスターをボードに貼り、その前で解説をする発表形式だ。もうひとつの発表形式に口頭オーラル発表があり、学会を知らない人間が一般的に想像するのはこちらの発表だろう。ある程度の広さの部屋で壇上に上がり、スライドをスクリーンに映して発表する形式だ。特に明確な敷居があるわけではないが、基本的には口頭発表のほうが敷居が高い。時間が制限されているし、発表が終われば質問に対してその場で的確に返答しなければならないからだ。

 一方でポスター発表はひとつの部屋で複数の研究発表が同時に行われており、興味を持った人間がやってきて話を聞きに来る。AGUの場合は体育館をふたつくっつけたような巨大な空間でポスターが百も二百も並んでいるのだから、圧巻だ。その場で議論がしやすく、質問の答えがその場で明確にできなくとも、逆に質問し返したり、尋ねたりしやすい。

 だから一般的に学生はポスター発表が多い。特に国際学会では、日本人が急に出向いて口頭発表するなど簡単なことではない。だから勇凪も今回はポスター発表だった。


「まぁ、こんなもんだ」

 そんなふうに独り言ちるだけ、わかっていたことだ。研究には流行り廃りがある。

 簡単にいえば、金に集まる。

 というより、集まらざるを得ない。計算機、人員、観測と、研究には金が必要だからだ。企業と提携する工学系とは違い、理学系の研究の資金源の多くは政府だが、それでも金の動き方は同じだ。スポンサーの好みに合わせ、より魅力的に映る研究を行う。行うと見せかける。

 勇凪の研究は二百年ほど前の隕石衝突に伴う大規模な地殻変動によって、突如として出現した新島——つまりオングル諸島のような島々における、過去二百年間、ほとんど新島出現直後からの気候の変化について述べたものだ。


 新島の領土権の多くを持っているのは日本である。これは単に、新島は太平洋に出現したものが多く、その中でも特に日本付近に出現したものが多かったというだけの理由だ。

 今回勇凪が研究対象とした中には、大西洋やインド洋の新島もある。しかしメインは日本の新島であり、そうなると世界からの興味は薄まる。所詮は極東の田舎島の小さな小島の話でしかないからだ。発表で人々の関心が引けない理由のひとつは、これだろう。

(とはいえ、それだけが原因というわけでもない)

 勇凪は学会を出発の二ヶ月ほど前のことを思い出していた。大学院でのセミナー内での発表だ。


 大学院の研究室では、週に一度セミナーが行われる。発表者は基本的には修士から博士課程の学生で、論文紹介や進捗報告を行う。現在研究室の学生は十人だが、修士以上の学生は五人なので、月に一度は担当が回ってくることになる。今日は勇凪の担当だった。

 一回のセミナーの時間は、途中の突っ込みや質疑応答も含めると、二時間程度が慣例だ。しかし今回は三時間近くかかった。

 三時間立ったままで、発表を行い、質問に答え、説明をした。それだけで相応に疲れる。喉が枯れ、声の調子が悪い。だがそれだけなら、満足感にも似た充実感があったはずだ。こんな疲弊と挫折の感情ではなく。

 発表のスライドはきちんと作ったつもりだ。構成も、一応は。自分なりには。だが二十五枚のスライドのうち、三分の二は突っ込まれた。その突っ込みの多くには、自分なりの回答は出せたつもりでいる。明らかなる論理的な破綻は無かったはずだとも思っている。

 だが興味を惹けるような発表ができたとは思えない。話を聞く側は、退屈そうな様子で、寝ているものもいた。


 自分が未熟なら、それも仕方がないといえる。ああ、まだ若いなら仕方がないさ。若いとはそういうものだ。熟成していない。経験が浅い。だから相手を満足させられない。

 若い。それは間違っていない。勇凪は二十六歳で、年寄りを名乗るような年齢ではない。若者といって十分に通じる年齢だ。

 だが研究室でどうかというと、けして若いわけではない。というより、学生の中では最年長だ。勇凪は現在博士課程の二年生だ。大学は学士が四年、修士が二年、博士が三年ある。これまで特に単位取得や卒業認定でつまづくことなくやってきた。だが今回はそうはならないかもしれない。勇凪の中には、そんな想いがあった。

 今日のセミナーでの発表内容は、博士課程卒業のための論文の構成に関する内容だった。学士の卒論や修士の修論でもそうだが、課程修了時の論文というのは、今までやってきた内容の集大成になる。しぜん、分量が大きくなるのだが、それをどうにかして一つの論文に纏めなければいけない。だから、課程修了まで一年以上あるこの十一月に、修論構成のための発表を行ったのだ。

「それが駄目だった」


 駄目だったのかどうか、それさえも覚束ない。よくわからない。やることはやっているし、やろうとしていたはずで、しかし、励まされた。

「まぁまだ時間はあるから」

 そんなふうに教授が励ましたのは、研究や発表内容が駄目だからだ。

「中身はこれから練っていけばいいし」

 そんなふうに准教授がフォローしたのは、中身が練られていないからだ。

 セミナー室でのセミナーを終えて学生室に戻ったあとは、紅茶を淹れて疲弊を癒すのが慣習になっていたが、その際に「長くなってごめんね」という言葉が後輩に向けて、口をついて出てきたものだ。

「謝るような話じゃないですよ」

 と後輩の返答が返ってきた。そうだろうか。そうか。セミナーをやっただけだ。謝るようなことではない。そうかもしれない。だがそれでは気が済まない。謝りたいのだから謝るんだ。くそ、問題あるか。情けないから。良い発表ができなかったから。だから。


 日本での出来事に想いを馳せている間に、ポスター発表時間の午前が終わっていた。溜息を吐いて、ポスターを畳む。ひとまず、やるべきことは終わった。結果は振るわなかったかもしれないが、外に出れば虚脱感とともに、開放感を感じることができた。

 発表が終わってからの計画は特になかった。もともと、観光を楽しむ部類の人間ではない。発表を無事終わらせるだけで精一杯だった。とはいえ実際に終われば、少しは観光したいという欲も出てくる。

 ぶらぶらと当て所なく街を歩きながら、しかし頭には研究のことがこびりついている。いや、研究の、というよりは、将来の、か。

 自分は本当に研究者としてやっていけるのだろうか?

 そんな思いが頭を過るのは今日が初めてではない。


 理学系の博士課程に進んだ以上、あとの進路は決まっている。研究者しかない——そのコースを踏み外すこともできないではない。たとえば、生物学や化学であれば、繊維や薬品、工業系の会社に就職口がある。数学は経済関係や銀行に研究を活かせる。だが勇凪のような地球物理系の研究が活かせる会社というのはほとんどない。つまり、潰しが効かない。だから、もはや研究者になるしかないのだ。

 だがそれは、現実的なのだろうか?

 教授から、博士課程修了後は面倒を見ると保証されている。就職先が少ないドクターなだけ、そう言ってもらえるのはありがたい。だがその理由は、勇凪が他の研究機関でやっていけるほど優秀ではないからお情けで面倒を見ると言ってくれているのかもしれない。そもそも自分は博士課程を修了できるのだろうか、それさえも不安なのだ。

(これで良かったのか?)

 夜が来るたび、月が昇るたび、そんなことばかり考える。何処かで人生を間違えたのではないか、と。道を踏み外したのではないか、と。研究者など、目指さなければ良かったのでは、と。

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