第11話 米国西海岸、サンフランシスコ


 火曜日。学会二日目。会場は昨日と同じで、道に迷うかも、などと焦る必要はなかった。もともと学会などというのは自由なもので、どこのセッションに顔を出しても咎める者はいないため、遅れても困りはしないのだが、出席しないは出席しないで後ろめたくなるので、遅れないに越したことはない。


 今日は特に待ち合わせなどもしていないため、ホテルの朝食会場でひとり朝食をとることにした。ホテルの朝食部屋は、安宿相当ということだろう、食事が粗末なだけではなく、狭い。片方の壁際にパンやトースターが、反対側の壁際にテーブルが三つ置いてあるきりの狭い部屋である。既に三人ほどいれば、十分に狭い。うちひとりは、トースター前で首を捻っていた。

 短い黒髪にラフなスーツ姿の男だ。年齢は、二十代だろうか。彼はパンをトースターに入れ、レバーを下げた。本来ならレバーはそこで止まり、加熱が始まるはずのトースターのレバーは、しかしすぐに持ち上がってくる。

「それ、壊れてますよ。もう片方のレバーは大丈夫です」

 勇凪が日本語で語りかけたのは、黒髪のその男が、日本人に見えたからだった。

「あぁ……なるほど、やっぱり」と男は頷いてパンを反対側のトースターに入れた。「そうじゃないかと思ったんだ」

 今度は正常に作動したらしいところを見届けてから、勇凪はテーブルに着いた。


 例によって味気ない朝食だが、無料である以上は利用する人間が多い。にも関わらず席数が二十に満たず、いずれもテーブル席であれば、しぜん相席の必要が出てくる。だから対面の椅子に座った者が居たときも、勇凪は気にも留めなかった。

 だが「や、さっきはありがとう」と声をかけられれば話は別だ。顔を上げれば、先ほどトースターの前で首を捻っていた男がいた。パンは焼けたらしい。

 勇凪は頷いただけで返そうとしたが、男が「きみも、学会で来たの?」などと訊いてくれば、何某かの反応をしないわけにはいかなくなってくる。

「ええ、まぁ……」

 どうしてそんなことを訊くのか、などと勇凪のほうから言わずとも、男は明るい声で説明してくる。「旅行に来たってかんじじゃあないよね。ひとりだし……今、サンフランシスコでは幾つか学会が行われているしね。半導体の学会とか。この時期は学会が多いんだよ。クリスマス前で、大学や研究機関もクリスマス休暇に入りつつあるから。忙しい人だと、この時期じゃないと休みが取れないっていう人もいるし。きみは、学生さん? 日本から来たの?」


 いやに親しげな語り口調は、勇凪を学生と見ているかららしい。その予想は正しくて、確かに勇凪は学生なのだが「学生さん」などという言い方をするということは目の前の男は学生ではないのだろう。見たところ二十代だが、研究者はたいてい若く見えるので予想が通用しない。

「T大の学生です。AGUに……」

「ああ、東北のね。行ったことあるよ」そうかそうか、と男は人懐こい表情で笑む。「ぼくもAGUに来たんだ。昨日着いたから、昨日のセッションは出られなかったけどね」

 男は筑波の研究所の研究員だと自己紹介をした。名前は特に名乗らなかったが、勇凪も訊きはしなかった。


「AGUは初めて?」

 と男がさらに問うてきたからには、人好きをする男だと思う。勇凪は正直に頷いて返してやった。

「毎回サンフランシスコなんだ。何度も来ているとあんまり新鮮味が無くなるけどね。終わったら、観光も良いと思うよ。せっかく海外に来ているんだから……少し外へ出るといろいろな観光名所があるしね。レンタカーが出せればいちばん良いけど、無ければバートかな」

 バートとはベイエリア高速鉄道の略で、その名の通りサンフランシスコ東部のベイエリアを繋ぐ公共交通機関だ。地域特有という意味では、九州の路面電車と似たようなものだろう。


「観光は良いよ。いろいろな物が見られるし、いろいろな人がいるし」

「ああ、ええ、まぁ」

「何処か行きたいところとかある? アルカトラズ島はきちんと下調べしておいてからのほうが良いと思うよ。ギリギリの時間だと困るだろうし」

「いや、でも、英語とかできないと、観光もわりと大変ですよね」

「まぁ、そりゃあね。でも英語はどうせできておいたほうが良いんだから、良い経験だよ。観光ついでに慣れておいたほうが良い。島国の端っこで何か言ってても、国際的には通じないからね。英語使えないと、馬鹿だってのが風潮だし。うちの研究機関でも学生は受け入れているけれど、セミナーは基本英語だね。最初はぜんぜん喋れないのが普通だけど、それでも一年続けていればわりと聞いて喋れるようになるものだよ」

 ああ、ええ、まぁ、と勇凪は同じように相槌を打った。男の言うことはいちいちもっともで、だから面倒だった。


 男は切れ目なくべらべらと話を続けたが、幸いにも朝食時であれば、こちらが食べるものを食べてしまえばそれが縁の切れ目になる。

 可能な限り急いで朝食を平らげて、「貴重なお話、ありがとうございました」と立ち上がれば、それで終わりのはずだった。

「今から会場に行くかい?」

 と問われ、勇凪は反射的に「午前中は特に聞くセッションが無いので」と答えた。

「そりゃ残念」

 朝食会場を出てから、勇凪は息を吐いた。危なかった。あそこで正直に答えていたら、一緒に行かなくてはいけなくなるところだった。学会会場までの短い道程とはいえ、殆ど見知らぬ人間と行動を共にしたくはない。

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