第10話 米国西海岸、サンフランシスコ

 本音をいえば、国際学会には行きたくなかった。


 というより、基本的に学会など行きたくもないのだが、国際学会となると輪にかけて厭だった。

 行きたくないのに行くのは、勇凪が奨学金の給付されている学生だからだ。T大学大学院理学研究科地球物理学専攻博士課程後期課程であり、日本学術振興会特任研究員。勇凪の現在の肩書きはそうなっている。勇凪はガンジス諸島を出て、本土の大学に進学していた。

 学士では奨学金に加えて喫茶店でアルバイトをしつつ授業料免除の申請を出してどうにか生きていたが、修士ともなるとそうバイトばかりしているわけにもいかず、奨学金に頼るようになった。奨学金にも種類はいろいろだが、理想的なのはしがらみが一切無いうえに返還義務が無く、さらに支給額が生活するのに十分なものだ。

 もちろんそんな都合が良いものはなかなか無いが、国の特別研究員になれば理想に最も近い立場となる。月あたり二十万円の実質的な給与には返還義務が付かず、おまけに学業関連に使える予算が年あたり百万までついてくる。そのぶん特別研究員になるのは狭き門だ。提出書類には研究背景、研究目的、これまでの結果、予想される成果、研究の位置づけなどを書かなければならない。殆ど論文を書くようなもの、とまではいかないものの、気軽に書けるようなものではないし、手軽に書いて通るようなものではない。

 実際、勇凪は博士課程一年のときに申し込んだものは落ちていた。


 落ちた場合はその評価が出るのだが、業績の項目が特に低かったため、書類に書けるような業績が無かったのが足を引っ張ったのだろう。特別研究員の門は総合評価だ。

 一年の間に、勇凪は論文を書き、小さい学会の小さい賞ながら賞を取った。これまでの研究内容や研究計画について詳細に書き綴った文書は何度も教授に推敲してもらい、それでも自信が無かったがが、なんとか通った。

 通ったは良いが、問題はまだ続く。特別研究員の学生は、毎年の成果報告を義務付けられている。成果とは主に三種類に分けられ、論文や書籍の著作、学会への参加、その他、だ。

 金が無い、は言い訳として通用しない。百万が付いてくるのだ。昨今では研究資金の横領や不正利用などという話もあるが、少なくとも学生である勇凪にとっては畏れ多い資金であり、怪しい使い方はできない。

 だから、学会に行く。行きたくもない学会に。


 勇凪は思考を現在に向けた。太陽が地平線の上に出ている。昨夜到着して、今日から学会一日目だ。七時には同じく学会に来ている准教授と後輩と朝食を摂ることになっている。

 勇凪は二時間近く、何もせずにいた。

 火災報知機の周期的な音は鳴り続けていた。

 朝食はホテルのバイキング形式ということになっているのだが、バイキングという言葉からこの部屋の様子を連想できる者は少ないだろう。バナナ、フレークに冷めたパンとバターやジャムがあるきりで、豪華とは程遠い。おまけにトースターはふたつある焼き口のうちのひとつが壊れていて、何度レバーを下げてもパンが入ってくれないという有様だった。

 それでもこのホテルは利便性がある。学会会場までが近い。迷わないで済む。公共交通機関を利用しないで済む。海外での公共交通機関の利用は手間取る場合があり、できる限り利用は避けたいのだ。勇凪の場合、バス以外の公共交通機関の無いガンジスから出てきたばかりの頃、電車に乗るにも苦労したくらいだ。


 学会開催地がアメリカで、そうでなくても国際学会だ。英語教育は小等部からあるものだが、実地で使うとなると練習通りにはいかない。言語がコミュニケーションの手段ならば、外国語を使う際の到達点は円満にコミュニケーションを取ることに違いないのだが、勇凪にはその自信が無かった。

 朝食を終えて、学会会場へと出発する。サンフランシスコは西部の大都市らしく人通りが多く、高層ビルだらけだ。日本は人口密度が多いと言われるが、この人波を見る限りでは、都市部ではアメリカもそう変わらないのではなかろうかと思う。

 もちろん翻訳機はある、が、一般に出回っているようなそれは、複数人の会話から特定の人物の言葉だけを抜き出すようなものではないし、言葉を文脈に沿って理解するにしても幾つかの選択肢を選ばなくてはいけないので、その場での会話では使えたものではなく、むしろ文章を音読したり、推敲したりするのに使うものだ。

 だいたい、学会で翻訳機など使っている者はいないので、そうそう使えたものではない。自分が英語ができない、そうした能力がない人間である、とアピールするに他ならない。しかし実際能力がないわけで、壇上で行われている発表内容は右から左へと抜けていった。欠伸が出て、夢現つだ。夜あまり眠れなかったこともあって、眠い。いつの間にやら昼になっていた。同行してきた人間は別のセッションに行ってしまい、ここから合流するのも面倒なので、勇気を出してひとりで飯を食いに行く。外は雨。あまり会場から離れると迷子になりそうだったので、傘を差して会場から一区画以上離れないように一周する。


 手頃な食事ができそうな場所はいくつか見つかる。見たところ、ハンバーガーなどが食べられる軽食屋だろう。内装はクリスマスの飾り付けがされていて、黄色や桃色の電飾が取り付けられているものの、入れないほど毒々しいわけではない。しかしやけに人が多く、店の外まで並んでいる。アメリカというと、国土が広く、人口密度が低いというイメージがあったが、道行く人々の数やレストランの密度を考えれば、先のイメージとは正反対だ。おそらく都市部と田舎の格差が激しいのだろう。

 ちょうど一周したあたりで、サンドウィッチの看板が出ている小さな店が目に止まる。会場でもサンドウィッチを食べていた人がおり、ここで買ったのだろうか、と思いながら中を覗くと、やはり店内で十人以上並んでいる。とはいえほかの店より行列が短く、テイクアウト可能な店なので、並ぶことにする。

 幾つかサンドウィッチの種類があったが、トマトやオニオンなどは自動で付くということで、スタンダードなものであろうハムを選択。これでいいのかと思いきや、肉の種類からパンの切り方、焼き方、野菜に苦手なものは無いか、香りが強いソースは大丈夫か、などまで聞かれる。昨日の食事のときも思ったが、この国はいちいち注文をつける機会が多い。それだけ我が儘なのだろうか。

 サンドウィッチは飲み物と合わせると九ドルを超えて、やはりなかなかに物価が高いと感じる。とはいえボリュームは十分すぎるほどで、味も悪くはない。外の公園のような場所で食べる。


 十八時を三十分ほど回ってセッションが終了する。帰り道が些か不安ではあったものの、記憶を頼りに進み、なんとか宿に帰り着く。

 ベッドメイクに着た宿の人間が奇妙なビープ音を直しておいてくれているかも、と期待を抱いて戻ってきたが、消えてはいなかった。意を決してフロントに行き、不慣れな英語で不便を伝える。

「火災報知器から一定間隔で音が鳴っているんですが」

「ピッ、ピッ、みたいな?」

「そんなかんじ」

「バッテリー切れだから、ちょっと取り外して来て。こう、捻って、引っ張れば抜けるから、それで見えるケーブルを抜けば外れる。引っ張りすぎてケーブルを切らないように」

 何か釈然としないものは無いではなかったが、五階の部屋まで階段で戻り、ベッドから天井に手を伸ばす、が、手は届き、捻って報知器を外すところまではできたものの、外すべきケーブルが見えない。キャリーバッグをベッドの上で踏み台にして、ようやく見えた。ケーブルを外しても未だ一定間隔でビープ音を発する報知器は、まるで切り離されても動き続ける蜥蜴の尻尾のようだった。もっともこの場合、電池は報知器の側に入っているのだが。

 動き続ける報知器を手にフロントへ。交換する電池が無いということで、明日まで報知器の穴は空いたままになる。そのまま夕食のために外へ出た。


 学会会場から戻るときに見つけた、客引きをしているレストランが気にはなったものの、些か離れており、迷子になりそうだったので、近場で探すと、比較的安値で食べられる東南アジア系と思しき店が見つかる。ディナープレートがおよそ九ドル。このあたりなら安い値段だろう。

 先に注文をしていた女性が頼んでいたものができあがっていくのを、カウンター越しに見つめる。薄いピザ生地のようなもののうえに、炊き上げられたタイ米や肉の、野菜、豆、ソースなどを載せていき、アルミホイルで包んで丸める。サルサというやつだろうか?

 ディナープレートはそれとは少し違っていたが、やはり小さなピザ生地のようなものを四枚渡された。量が多い。米、選択式だったチキン、謎の茶色いソース、トマトやキャベツに緑色のソースがかかったサラダをフォークでサルサに載せて、巻いて食べる。味はそこそこ、食べにくい。サルサが熱い。地元ビールは売り切れだったので、コロナをラッパ飲みした。


 日本人の男に出会ったのは、そんな日々の翌日のことだった。

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