第13話 日本国特区ガンジス諸島、実家


 冷たい。


 腰が熱い。痛い。寝ていなければいけないのに、腰の痛みのせいで、仰向けに寝ていることさえ辛い。横向きになり、身体を丸めていると多少は楽になる。胎児のようで、つまりは己は外気に晒されては生きていけない程度の存在なのだな、と情けなくなる。

 空気が暑い。一月だ。真冬だ。東北では雪が降っている。なのに常夏のガンジスでは、昼間は気温が二十五度を超える。冬の寒空に慣れた身体には、茹るように暑い。なのに寒気がする。

 心地良い程度にひんやりとしているのは、額に乗せられた手だけだった。


「下がってる? 下がってないかな……? うーん……、もいっかい体温計ってみようか」

 耳に体温計が差し込まれる。結果はすぐに出た。下がっていないらしい。

「さなちゃん、ご飯食べられる? お粥だったら大丈夫?」

 頷く。

 正直なところを言えば、腰の痛みが腹に抜けていっているかのように胃が痛く、水でさえ飲むのが辛いほどだったが、兎に角いまはゆっくりさせて欲しかった。幸い、満足げにレイラニは部屋を出て行ってくれた。

 眠れぬままに、ただベッドの上で呼吸をする。

「さなちゃん、ご飯できたけど、居間で食べる? こっちのほうがいい?」

 しばらくして、レイラニが戻ってきたので、勇凪は和室の布団から這い出た。心配そうな表情のレイラニに「居間で食べる」と言ってやる。ガンジスにはまともな上着は無いので、本州から着てきた上着を羽織り、居間へ。


 居間の棕櫚材のテーブルは勇凪が家を出たときとは変わっていた。テーブルクロスの模様も。粥が盛られた木皿も同じ色の匙も、勇凪が見たことが無いものだった。

「ほんと、良かったよね。帰って来て。さなちゃん、そんな体調じゃ、ね」

 粥を啜るレイラニの、彼女のその手の、匙を握り締めるその手の傍に置かれている杖で、どうしても視線が止まってしまう。十五年前と同じように、彼女の足は未だ障害が残っている。杖は必ずしも必要というわけではないが、補助として携えているようだ。彼女は変わらない。いや、変わったか。

「たぶん一年の疲れが溜まってたんだよね。もっとかな? 毎年、お正月でも帰ってこないんだもん。家でひとりだと大変だったでしょ? それとも、家にお見舞いに来てくれる彼女とかいたりして? でも、彼女がいるにしても、お正月くらいはこういうふうに毎年帰って来て欲しいんだけどなぁ。さなちゃんが大学行く前は、夏休みと冬休みと、あと春休みもきちんきちんと帰って来てくれると思ったのに……ぜんぜん帰って来てくれないんだもんなぁ。まぁ仕方ないけど。研究が好きで好きで、楽しいんでしょ?」


 匙を椀の中に置く。体調に気を遣ったのであろう、レイラニと同程度にしか盛られなかった粥だが、半分程度しか胃の中に収まらなかった。気遣うレイラニを尻目に、勇凪は居間の隣の和室に敷かれた布団の上に身体を預けた。わざわざ二階の自室まで上がる気にはならない。久しぶりに生まれ故郷のガンジス諸島に戻ってきた勇凪は、帰って早々に風邪をひいた。しかも、これまでに体験したことがないほど重いものを。インフルエンザかもしれないと思って病院に行ったが、陰性ということだった。であれば、あとは寝て治すしかない。

 実際、帰ってきていて良かったというのはレイラニの言う通りだった。一人暮らしを始めてから体調を崩したことは何度かあるが、ここまで体調が悪いのは子どものとき以来だ。海外か空港かで性質の悪い風邪を貰ってきたのかもしれない。

 勇凪が寝入ったと思ったのだろう、居間から話しかけ続けていたレイラニが静かになった。


 いや、歌が聞こえる。小さな声で、歌っている。


 薄眼を開けて居間の様子を伺うと、レイラニはキッチンの椅子に座り、洗い物をしていた。

 勇凪が家を出た頃より、当たり前だが成長していた。緩やかにウェーブした長い黒髪や大きな碧い瞳は幼いときのままだが、容姿は大人びていた。八年会っていなかったのだ、見違えるのも当たり前だろう。

 だが何よりも変わったのは、見た目ではない。

 彼女は今、ガンジス島の漁協の事務として働いている。

 対して学生である以上、勇凪は働いていない。大学学部四年、大学院修士二年、そして大学院博士三年。その最後の三年間の二年目だ。国の特別研究員として、月に二十万の収入がある。それは奨学金ではなく、給料だ。だから、働いていないにしろ、穀潰しというわけではない。

 勇凪は己にそう言い聞かせようとした。


 だがレイラニが無邪気に研究のことを尋ねてきたことで、自分を誤魔化すのも難しくなった。

 いわゆる、研究が楽しい、というのがどういう状態なのか、勇凪にはいまひとつわからない。研究が、楽しい。研究者はそういうものだ、という通念がある。だから会社員にならず、研究をしているのだ、と。研究者というのは白衣を着ていて薬剤を使った実験を行い、あらゆる物事は「科学によって説明できる」と曖昧な表現で主張し、癖毛で眼鏡をかけている、というイメージが一般に浸透しているのは理解している。そのイメージの中で、研究者というのは職業というよりは、趣味だ。楽しいから研究をしているのだ。研究をするという行為に意義を見出さなければ、他職のほうが自由な時間が多く、給料も高い。だから仕事そのものに意味を見出しているのは当たり前で、その理由が、楽しいから、というのは、わかりやすい。

 だが自己分析してみて、勇凪には研究を「楽しい」と感じてやっているかというと、どうにもそうは思えなかった。研究は、辛い。毎日が目標に追われ、歩み続けなければいけない。結果を生み出し、発表し続けなければいけない。勇凪にとって研究というのは「やらなければならないことであり、やれること」だ。とりあえず、できる。だからやる。やっているうちにある程度形になって、論文を書いたり、学会発表をしたりする。しかし、いわゆる「楽しい」という感情が湧き上がってきたことはない。

 そう考えると、自身には研究者としての適性がないのではなかろうか、と思えてしまう。

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