第17話 ダストマイサーンの丘

 次の日の朝。

 エウラリアの予言通り、アフサは寝坊していた。


 ダストマイサーンの街の出口は緩やかな丘になっていて、街全体やこれからの旅路を見渡すことができるちょっとした高台になっている。すでに支度を整えたマニとシメオンに、それを見送るエウラと赤子。そこに大荷物を持ってやってきたアフサはすでに息を切らしていた。


「なに、その大げさな荷物」とエウラリアが冷ややかな視線を向ける。


「大げさ?」アフサはその大きなリュックを背負い直して、不服そうに言った。「三人分の食料やらなにやらを準備したらこうなっちゃったんだよ。もちろん、マニとシメオンが少しでも僕の荷物を代わりに持ってくれるっていうならこんなことにはならなかっただろうけどね」


「食料やなにやら?」


「そうさ」


「……はぁ」


 自信満々に胸を張るアフサと、溜息を吐くエウラリア。


「パウロの伝道を知らないの?」


「パウロ……パウロだって?」そう問い返したアフサはあからさまに驚愕して、身体から力が抜けたように地面に荷物を落とした。「物乞いの旅をするっていうのか? 冗談じゃない!」


 侮辱を感じたエウラリアが大きく息を吸い込み反論の準備をする。その彼女を、マニが穏やかに諫めた。


「アフサ。この世界は裕福だ。世の中の人たちは労働した以上の対価が簡単に手に入るものだから、とても退屈している。時間も食料も余っているんだ。おれたちはその〝退屈〟を埋める代わりに、食料や寝る場所を分けてもらう——ただそれだけのことをするだけなんだ。エウラはパウロの伝道って言ったけど、おれは特にそれを意識するつもりはないよ」


 パウロはここ最近——といっても百年以上昔の話にはなるが、アレクサンドロス大王がかき混ぜた各地の文化の変動の中でナザレ派を伝道した宣教師だった。この時代、宣教の旅に出るというならパウロを見習うのが通例となっている。


 彼は、着の身着のまま身一つでヨーロッパからアジアへ旅をしていた。それは〝この世の中が賢者を見捨てるはずがない〟という確固たる信念によって成しえることができた伝説の伝道だ。賢者がこの世界から追放される時、この世界は闇に包まれる。彼はそう語っていた。彼が街に訪れると人はこぞって彼の話を聞き、そして誰もが〝もっと話を聞かせてほしい〟と自宅へ招こうと声を掛けるのだ。


 もっとも、彼を招いた家のあるじがその後に語るのは〝賢者が我が家に宿泊し、我々はそれをもてなした〟という自慢話であり、彼の語りそのものではないのだが。


 マニは続ける。


「しかも行先は世界中じゃない。クテシフォンだ。それにおれの場合は彼みたいにイエスの教えを説くとか、自分が賢者だなんて宣言するつもりもない。おれはただ、みんなに伝えたいことができただけなんだ」


「伝えたいこと?」


「そう。伝えたいこと。子供の頃にこの街ダストマイサーンで野菜を売って感じたこととか、医者として地域を巡って感じたこととか、シタの無垢なまでの欲望をみて感じたこととか」


 そう言いながら、マニは自分自身の心境の変化をも感じていた。

 当面の目標はシャープールに会うことだった。彼に会って、自分がしたためた物語を読んでもらいたい——それは子供の頃から変わらない一つの夢だった。しかしそれを叶えようとした今回でシャープールの考えを知ってから、会う前にしなければならないことがあると気付いたのだ。


「おれは自分の物語をこの世の中で語ることで、自分が世界のどこに存在しているのか――その位置を確かめなければならないんだ」


〝座標〟という言葉を使おうと思ったマニだったが、天文学的用語はアフサをより混乱させるだろうと思いやめておいた。とにかく、現世における自身の座標をマニは知りたかったのだ。すなわち、これまでの偉大な哲学者たちが常に悩んでいたことがある。一つは〝なぜ我々は生きているのか〟という疑問であり、もう一つは〝なんのために我々は生きているのか〟という疑問だ。未だに答えのでない難問だった。ただ、もしこの答えを見出すことが人類全体の使命だとしたら、自分はそのどの部分の解を担うことができるだろうか。


「それならば、商人のように準備万端で出かけるよりも、パウロを見習った方がいい」


「そして彼みたいに投獄される覚悟ってことか」


「彼を見習うといっても、別に彼と同じ運命を辿る必要はないよ。あくまでそんな風にしてクテシフォンに行くっていう例えだからね。おれは特定思想を広めようとしているわけじゃないし、なにより彼が生きていた時代と今は違う。アルデシールは寛大だし、きっとシャープールも同じ姿勢だろう。彼のようにインドに行くつもりもないし」


「はぁ。その言葉にほんの少しだけ救われたよ」アフサは天を仰ぐと、身に着けていた服以外の荷物をすべて地面に放り投げた。「わかった。なんちゃってパウロだね。旅路はマニの旅路、言葉はマニの言葉、そして運命もマニの運命で、彼にならうわけじゃないと」


 そして彼は、自分と向き合うマニとシメオンの元へと一歩を踏み出し、振り返って彼らと同じ方を向き、エウラリアを見つめた。


「……ごめんな、エウラ。ちょっとだけクテシフォンに行ってくる」


 彼女は少しだけ寂しそうな顔をした。それが自分に向けられたものなのか、マニに向けられてものなのかアフサにはわからない。ただ彼は、エウラリアの本当の気持ちは察していた。彼女は、本当はマニを人生のパートナーにしたかったハズなのだ。かつて自分がこの街に残り、それ以降マニの姿を見なくなってから、彼女にとってマニとの繋がりは自分だけになっていた。マニの友人である自分と一緒にいれば、いつかマニと会えるだろうとエウラリアは思っていたのだ。


 アフサは、そのどちらが真実なのか見極めようとする勇気を持てずに俯いた。今、マニの隣に立って改めて実感する——自分はマニに比べてなんて小さな人間なのだ、と。彼に勝てる部分なんて一つもない。彼は足を悪くしながらも杖を持って背筋を伸ばす姿は立派そのもので、対する自分は背が曲がり腹が出て卑屈な人間そのものだ。なんといやしい姿だろう――天から注がれる陽が落とす影を見ても、その風格の差は歴然だった。


 一刻も早く彼女の視界から消え去りたい。

 そんな焦りが生じていた。


「行こう、マニ。シメオン」


 くるっと背を向けて先陣の一歩を踏み出したアフサ。呼ばれた二人も、わずかな躊躇ためらいの間を置いてあとに続く。その三人の後ろ姿に、エウラリアが呼びかけた。


「気を付けてね。アフサ」


 思わずアフサは顔を持ちあげて、振り向いた。妻と子供が、笑顔で手を振ってくれている。そして彼は慌てて駆け戻り、家族を大切そうに抱きしめた。


「ありがとう……! 行ってくる!」



 単に近くの都市に数泊の旅をするだけのことだ。少なくとも、マニはそれだけのつもりのようだった。しかしこの時点でアフサもエウラリアも、またきっとシメオンも含め、これがたったそれだけでは終わらない旅であることはなんとなく感じていた。だれも口には出さなかったが、やはりこれはパウロの伝道なのだ。ヨーロッパからアジアへ——ここからの一歩が世界を旅する一歩になることを、マニ以外のみなが気付いていた。


 ダストマイサーンの丘から、三人が手を振って旅立っていく。その姿が小さくなり見えなくなるまで、エウラリアはそこに立って見送っていた。やがて〈やし園〉がある方角から一人の〈白装束〉の男性が走ってきて、その三人を追っていく——


 おそらくそういう風にして、一人、また一人と彼らは仲間を増やしていくのだろう。


『かくして世界を救う勇者たちの冒険が、ここから始まったのだ』



 エウラリアは自宅の書斎でそのように書き記した。今までに聞き知ったすべてのことを、彼女はパピルスの巻物に書き記し、ようやくここまで物語はやってきたのだ。


 あれから二年——

 彼らはまだ、旅から戻って来ない。


 旅のウワサも入って来ない。しかしシャープールはクシャーナを倒してササン朝ペルシアの新たな王の器を示し、逆にアルデシールはすでに病により没していた。ただしその病の影には、ゾロアスター教最高神官であるキルディールの影がちらついている。


 キルディール。

 エウラリアとアフサに自由写本を禁じ、聖書アヴェスター普及のため莫大な量の写本を依頼してきている張本人だ。


 シャープールが留守の間、クテシフォンの実権は実質的に彼が握っていた。彼は旧王や新王と違い、宗教的あるいは思想的な寛容は皆無といえる。ゾロアスター教以外の教えは——宗教だけでなく例え科学や哲学出会ってすらも——すべてが闇の侵食であり、すなわち悪とされていた。


 この街でさえ、パウロに触発され街頭演説をおこなうナザレ派の宣教師たちが次々に兵士たちに検挙され、残酷な拷問が気軽な見世物みせものにされている。



 マニやアフサたちも同じ目に遭っていないだろうか――


 エウラリアは、ボーっと窓から外の空を見つめていた。


「ママー? ごはんまだー?」


 成長した子供がその背中を呼ぶ。


「はいはい。今作るね」


 そうして席を立ったエウラリア。窓から風が舞い込んで、思わずそれが親しい者たちの帰省のように感じられて振り返る。けれどそれはいつも通りの風で、いつも通りの匂いを運び、もちろん、いつも通りにはだれもいなかった。

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一雫の光 - マニ教創始者の物語 前編 丸山弌 @hasyme

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