第16話 はじまりの夜

 アフサは続けた。「だからシャープールは、そのために東方統治を国民に約束した。インドのクシャーナ朝を叩くつもりらしい」


「……それは知らなかった」


「つい先日の宣言さ。古代の強力なペルシア帝国の再建をって、自らに王の資格が確かにあることを示したいそうだ」


「そうか」


「なぁマニ、どうする?」シメオンが顔を覗きここんだ。「君はシャープールに会いにクテシフォンに行くんだろ? でもそこに新王がいないとなると、そこに行く意味はあるのかい?」


「うん。ないかもね」


 どこかボーっとしたようなマニの淡泊な返事に、アフサとシメオンは顔を見合わせる。目当ての人物がいないと知り、ショックを受けているのだろうか? それともシャープールに失望しているのだろうか? 戦争反対主義を掲げる宗教家は多い。


 一方その当人は(シャープールのおかげだ……)と、心の中で深くそう感謝していた。


 なによりマニは、彼のおかげで自分自身の恥に気付いたのだ。


 あの王の王アルデシールの子シャープールでさえ、自分のような小さな人間に〝合わせる顔がない〟と言って国家行事よりも私情を優先させたのだ。統治のため、その権威を内外に示す――そういう意味では国の命運を左右することにも繋がる重要な伝統だ。きっと多くの反対にあい、それごとに彼は自身の強い思いを口にし周囲を納得させたに違いない。


 対して、自分はどうだろう。

 シャープールに会えなくてもいいから、一目姿を拝みたい? 〈共同体〉を追い出され、一冊の本と一本の杖だけを持ったボロボロの傷だらけの姿で?


 けれどかといって、自らの恥を受け入れたところで、戻る道はすでに自らの意思で閉ざしている。扉はこちら側からしか開かないように、固く固くかんぬきを止めている。その扉を叩く者はもういないだろう。


「とりあえず、日も暮れるしさ。マニもシメオンも今日はウチに寄ってけよ」とアフサが言う。「なんならずっと住みついてくれてもいいくらいだけどね」


「いや、それは遠慮したいかな」


「なんでだよ。エウラも会いたがってる」


「だからだよ」


「会いたくないのか?」


「その通り」


「なんで」


 なんでだろう? アフサに聞かれ、マニは自問した。シャープールには会えるのに、エウラリアに会えない特別な理由があるというのだろうか。自分がエウラに想いを寄せていたから? そしてその彼女がアフサと長年の仲睦まじい家庭を築いてきたというそのすべてを受け入れたくないから?


 結局は、前に歩みを進めるほかないのだ。シャープールが本当にマニに会うべく自らのその資格の証明をしようというのならば、マニもまた自身の資格を証明しなくてはならない。そしてシャープールに会えるほどの人物に自身が至ったと自負するならば、他に会えない者などいるはずもない。


 よくよく考えれば――いや、よく考えるまでもなく、マニはまだ何者でもなかった。このまま道端に倒れて命が尽き身体が朽ち果てようとも、それは世界になんの影響も与えない。せいぜい、自身の血肉がその周囲の養分となって雑草が覆い茂る程度の存在だ。


「ねぇマニ、ここはアフサの言葉に甘えよう?」シメオンがマニを覗き込むようにして言う。「もう僕もクタクタだし、マニだって相当疲れているようにみえるよ」


「……そうだね」と、マニは考えながらも頷いた。「本当にいいの? アフサ」


「いいどころの騒ぎじゃないよ。頼み込んででも今夜はウチに泊まってもらうからな?」


「ありがとう」


 こんな何者でもない自分に、こんなに自分のことを想ってくれる友がいる。


「本当にありがとう」


 途端に、マニの瞳から涙があふれてきた。それを見て驚くアフサとシメオン――なにせマニはこれまで飄々ひょうひょうとした態度で感情を見せずに長年過ごしてきていたのだから。また、これにはマニ自身ですら驚いていた。今まで必死にこらえていた感情が、〈やし園〉を抜け出したと同時に開放されたかのようだ。


 マニは、シメオンと共にアフサに案内され、懐かしの写本工房にまでやってきた。重たい木造りの机に、無数のパピルスの巻物。墨の匂いは相変らずだったが、エウラリアの父カリトンは、もう数年前に亡くなったという。しかし代わりに、彼らは新しい命にも恵まれていた。


「エウラ、帰ったぞ! 客人も一緒だ!」


 工房の奥の明かりに向かい、声をかけるアフサ。マニの心臓がドクンと震える。本当は会いたくない人物だ。だが、ここで会えないのであれば今後一生自分は彼女に会う資格はなくなり、今後はシャープールのことも忘れ、何者でもない自分としてみじめに生きていくことになるだろう。それは虚勢ではあったが、マニは精一杯背筋を伸ばして凛とした。この今の偶然の自分自身を誇りに思うために。



 明かりの向こうで影が動き、そして、彼女が姿を現した。


「マニ。久しぶり」


 エウラリアは――当然ながら――大人の女性になっていた。黒い髪の毛は長く胸元にまであり、小さな赤子を抱いて、その子が泣きださないよう軽くあやしている。


「……久しぶり、エウラ」


 そう答えたところで、会話が途絶える。シメオンが横からなにか言おうとしたが、アフサが引っ張って奥に連れて行った。おかで、しばらく二人で見つめ合う時間が続いた。かつていたずらっぽかった彼女の大きな瞳は、今ではすっかり母性に満ちた柔らかな曲線を描いている。しかしその目の奥に輝く光は相変わらず好奇心に満ちたもので、そこに彼女の確かな面影をマニは感じ取った。けれど、それを覆い隠す長いまつ毛が、若干の憂いを携えている。


 マニは、背後の工房を見渡した。


「写本業は相変らず?」


「うん」とエウラ。「でも、最近はちょっとつまらなくなってきてるかな」


 彼女は、机の上に置かれた作業中の一冊の本に視線を向けた。マニがその本を手に取ると、表紙にはアフラマズダーの紋様が描かれている。


「アヴェスター。ゾロアスター教の聖典だよ。最近はずっとそれを書かされてる」


「ゾロアスター教に聖典なんてあったんだ?」


「今まではなかったよ。でもアルデシールの側近が製作を進めてるみたいで、まだ未完成なのに普及用として大量生産するように依頼されてる。ほら。最近はナザレ派の勢いがすごいじゃん。彼らの勢いの一つに聖書があるってウワサ。読み書きなんてできる人の方が少ないと思うけど、でもやっぱり口述での伝承よりも文字として記録としての伝承の方が確実なんだろうね。だから彼ら、今はものすごく慌ててる」


 エウラは、マニが持つ一冊の本に視線を移す。


「マニも同じ考え?」


「書物ばかり読んで育ってきたからね」


「……立派になったね」と、エウラは微笑んだ。「バベルの正装、バベルの本、黒檀の杖。……かっこいいよ」


「ありがとう。でもまだ、シャープールには合わせる顔がないんだ。本当は、君にもだけど」


「気にしなくていいよ、そんなこと。私は会えただけでうれしいんだから」そして腕の中の子供が静かに泣き出したのを合図に、彼女はマニを奥の客間へと招いた。「ゆっくりしてって。ここを自分の家だと思っていいからね」


 マニは丁寧に一礼して、アフサとシメオンの声がする廊下の向こうへと向かった。そして、エウラリアの姿が見えなくなったところで、ドッと身体の姿勢を崩す。全身に強い痛みが走り、汗が噴き出した。服をめくってみると、共同体で痛めつけられた部位が赤く腫れている。もしかしたら骨折か、骨にヒビが入っているのかもしれない。


 それでも、エウラリアの前でこんな姿をさらさずに済んで良かった――


 マニはそう思いながら身体に鞭を打ち、光が溢れる客間に顔を覗かせる。そこにはギリシア風の寝イスが複数置かれていて、すでにアフサとシメオンがカップを手に顔を赤くさせている。


「おう、マニ! 今までの話を聞かせろよ!」


 アフサがカップを掲げ、マニも寝イスに座るよう促す。マニも甘んじて、その光の中へと加わった。そして廊下では、その様子をエウラリアが見つめていた。


「無理しちゃって。男ってなんでいつもそうなんだろ。ねー」


 抱いた子供にそう笑いかけ、母乳を与えてから、エウラもその客間へと足を向けた。



「〈白装束〉の医師が追放されるってウワサを旅の商人から聞いたんだ。その時、おれは思ったのさ。これはマニだ! 間違いない! あの賢者がついにこの世に解放される! これは一大事だ! ――ってね」


 赤い顔をしたアフサが、そう言って強い酒を一気に飲み込んだ。彼はもう同じ話を何巡かさせている。マニは身体の痛みを堪えて立ち上がった。気付いたエウラリアがカップをテーブルに置いて遅れて立ち上がる。


「そろそろ休む?」


「うん」


「寝室まで案内するよ。シメオンは?」


「僕もそろそろ休ませてもらおうかな」


「なんだよお前ら!」呂律ろれつが回りきらないアフサが不満そうに言う。「もう寝るのかよ! 夜はこれからだろう?」


「確かに。この世界の夜はこれからだ」とマニは呟いた。


 少し酔っているようだ。同時に、失敗したとも思った。アフサが興味深そうな笑顔で——なにかおもしろいものを発見したぞというような表情で—―マニの背を見つめている。


「その世界のともしびにならんとするマニくん。明日はクテシフォンに行くのか?」


「そうなると思う」


「え、でも、目的のシャープールはそこにはいないんだろ?」とシメオン。


「それはもう目的じゃないってことさ」アフサが答えた。彼はマニの背を見つめ続けている。「マニ。僕は、君が頭の中で考えていることをこの世に生きる人々に分け与えていくべきだと思っている――それこそ、ナザレのあの方がパンをちぎって物乞いに配りまわったようにね。この世界は悲惨だ。僕はそれをあの忌々しい〈やし園〉の外に出て嫌というほど味わった。特に宗教が最悪だ。ユダヤだろうがミトラだろうがゾロアスターだろうがナザレだろうが、結局は自分たち以外の存在を否定しているんだ。おかげで僕もエウラも、好きでもない教典なんかの製作に携わるハメになっているんだけど。純粋につまらないよ、そんな仕事しかできないなんて。神の存在なんかよりも、僕は昔みたいに世界各地の知識を世の中に広めていきたいというのに」


「ちょっと。アフサ」


 エウラリアの口調にマニは同情した。アフサがゾロアスター教や神の存在を冒涜する口調でまくし立てたことはもちろん、なによりそれをマニが居る場で言うことが危険だった。


 もちろんアフサはそれを知っている――マニの父パーティクはパルティア王国の貴族、そして母マリアムは同国の王族なのだ。ササン朝ペルシアが滅ぼした亡国の血を引く王家の者に——その存在だけでもアルデシールにとって十分不穏であるのだが――先のような言葉を言い放つということは、それだけで国家転覆を狙う反逆者と捉えられてもおかしくない。


 ただ、それだけアフサは今の自分の状況に嫌気がさしていた。


「この世界の灯になれるかはわからない。なろうとも思ってない。でも……そうだね。この世界は少し不寛容だ。それをほぐすことがおれにもできないかなとは考えてるよ。アフサも行く? おれと一緒に、クテシフォンに」


 彼は、マニのその言葉を待っていたのだ。愉快そうに手のカップをテーブルに叩きつける。


「決まってるだろ! こんなクソつまらない教典の写本業なんてやってられるか! それにクテシフォンは妖しい宣教師だらけの街だ。温厚なるアルデシール大王の眼下の露頭に立って好き勝手なことをのたまっているいる奴はたくさんいる。マニとシメオンの二人じゃその中に埋もれてしまうんじゃないかと、どうにも心配だからね!」


「むしろアフサが一緒にいることの方が私は心配」


 そうピシャリと言ったエウラは、マニとシメオンを連れて客間を後にした。


「マニ! シメオン! 明日は朝一番に出発だぞ!」後ろの部屋からアフサの声が響く。


「もう……。自分が一番寝坊するくせに」廊下に出た暗闇の中、エウラの表情はどこかとろんとしていた。酒には手をつけておらず子供もすでに別室に寝かしつけてきているが、寝不足は慢性的で疲れていそうだ。「でも確かに彼が言う通り、今の仕事は……ちょっとね。主人がいないってのは仕事を断るいい口実にもなるし、ホントは私もついていきたいところだけど。我慢するのは、女の宿命だからね」


 そして彼女は、どこか切なそうだった。

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