第14話 旅立ちの正面突破

 怒りに満ちた洗礼者によってシメオンも証言者として〈父〉のもとへと同行することになったが、その少しあとに慌てたパーティクも駆けつけてきた。


 マニを監禁した高位洗礼者たちやシメオンの話を聞いた〈父〉はこめかみに血管を浮き上がらせながら極めて不快そうにして聞いていたが、やがて辛うじて穏やかな口調を保ちながら言った。


「パーティク。マニはお前の子だ。あの未熟者が今度は何を考えているのか、教えてもらえないか」


「それを私に聞きますか?」とパーティクは驚いた。


 なぜなら、実の父のもとからマニを奪った張本人が〈父〉その人だったからだ。〈父〉こそがマニ唯一の〈父〉となり、生みの親であるパーティクのことは忘れるよう洗礼を施していた。いうなれば、パーティクから父としての威厳と幸福とすべての権利を奪っていたのが〈父〉だった。マリアムなどはそもそも文字通りマニを奪われている。そんなふうに家庭を壊しておきながら、ここにきてなぜかマニの行動について、彼はパーティクを父として呼び出したのだ。これにはさすがのパーティクも戸惑った。


「今まで私はマニに対する一切の教育の機会を与えられていません」ただ、そういった真実を伝えることでどれだけ〈父〉を苛立たせてしまうかは心配だ。「そのため、マニの真意を私が代弁することは、私には叶わないと思います。……直接マニを問いただしてはいかがでしょう。私もできる限り協力します」


「……そうだな。やはりそれしかないか」大きな決断を決めたかのように、〈父〉は大きく息を吸い込んだ。「マニをここに連れてきなさい」


〈父〉と目が合ったシメオンは否応なく頷いて、他の洗礼者たちと共にマニを連れ出しに向かった。


 なんだろう、とてつもなく嫌な予感がする――パーティクは〈父〉の様子を見て思った。もしかしたら本当は〈父〉もマニを悪いようにはしたくないのかもしれない。しかし直接会ってしまえばそうもいかなくなってしまう――あのマニが大人しく〈父〉の言うことを聞くとは思えないし、ましてや頷かせ納得させるなど簡単なことではない。


 おそらく――いや、間違いなくマニは〈父〉に向かって言い返し、それは壮絶な論争を呼ぶはずだ。〝やはり〟と言った〈父〉にも、もはやそれがわかっているのだ。だからこそ彼は仕方なく実父たる自分パーティクを呼び出し、なんとかこの事態をおさめようとしたのかもしれない。


 途端にパーティクは、身体から力が抜けてしまうほどの無力感に包まれた。自然と足がガクっと折れ、地面に膝をついてしまう。


 自分は、これまでにない機会をみすみす逃してしまったのだ。


 息子を守るという神が与えてくださった父としての役割を、自分は担うどころか気付くことすらできずに素知そしらぬ顔で通り過ぎてしまったのだ。



 マニが連行されてきた。

 屈強な洗礼者たち両腕を掴まれているが、彼は暴れることも抵抗することもなく、むしろ気品すら纏っているかのようだ。洗礼者たちがマニから手を離すと、それこそ二人はまるでマニの付き人であるかのようにみえた――実際はその真逆であるにも関わらずだ。それは親の贔屓ひいき目ゆえではないだろう。


 マニは、パーティクの祖父のそのまた祖父から伝えられているような古い戦士の服装で、それは異端のよそおいながらも立派で凛々しい姿だった。特に黒檀こくたんの杖がよく似合っている。


「マニ」〈父〉が呼ぶ。見守る洗礼者たちが息を飲む。「お前は今まで、私たちの共同体の中で、綺麗な物だけを食べ、綺麗な物だけを聞き、綺麗な物だけを見てきた。それなのにどうしてこれほどまでに道を踏み外してしまっているのかね?」


「おれは真理に従って歩いているだけなんだけどな」気品を纏いながら、マニは首を傾げた。


「では、我々の方が歪んでいるとでも? 救世主エルカサイの言葉を歪曲しているのはお前ではないか」


「故人の言葉の解釈よりも、経験則……かな。例えば、今あなたが言った〝綺麗な物〟というのは相対的な産物ではないかなと思うんだ。それ以外のものを知っていて、はじめてそれが〝綺麗な物〟だと知ることができるということだ。そして、綺麗だと思っていた物が、実は特段取り上げるほどでもない普遍的な物であると気付くこともある」


「まるで拝火ゾロアスター教の二元論だな。ついに火の誘惑に負けたか」


「少し違う。水は好きだ。そもそもおれからしたらゾロアスター教も二元論とは到底思えないけど、まぁそれはいいとして」


「何が言いたい」


「おれには、あなたが普通のおじいちゃんに見えるってことだよ。老人シタ」


 だれの目からみても無礼な言葉だった。


 そもそも〈父〉のことは〈父〉と呼ばなければならないし、そうでなくても敬意をこめてシタイオスと呼ぶべきところだ。そしてなにより教団の中で最も神に近い存在に向かって〝普通のおじいちゃん〟などと言い放つとは許しがたい愚挙であり、洗礼者の一人はマニを殴りつけようと詰め寄ったが、拳を振り上げたところで、マニの不思議な威圧――ただ彼を見つめただけ――によって、その勢いが抑えつけられる。


 シタは言った。「私はこの洗礼を続けてもう半世紀になる。いたずらに歳を取り老いていく異教徒とはまるで別格だ」


 首を振るマニ。「残念ながら、あなた程度の老人ならこの村の外にたくさんいるよ。朝から酒を飲み、昼間に寝て、夜は肉を食べている老人であっても、人生のなんたるかを語ることはできる。そして最期は家族に看取られ友愛の中で永遠の眠りにつくんだ」


「ではお前は、我々のこれまでの洗礼の日々は無駄だというのか」


「そのとおり。全くの無駄だ。無意味な洗礼であり、無意味な苦痛であり、無意味な感謝でしかない」


「お前の二十年という時も無駄ということになるが?」


「非常に損をしたとは思ってる。ただ、ある意味で守られていたのかもしれない。というのも、どうやらおれはパルティアの王族と貴族の家系であったようで、もしアルデシールがクテシフォンに入った時にこの村にいなかったら、王家の処刑に巻き込まれていたかもしれないからね」


 知っていたのか――という表情でシタはパーティクをみた。おしゃべりパーティクとあだ名される彼は、自身の家系――パーティクはパルティア貴族、マリアムはパルティア王族の生まれだった――について包み隠さずほぼすべての洗礼者たちに語り尽くしている。そのパーティクが自身の父であるとマニが知ったなら、それは必然的に自身の血筋を知ることにもなったのだ。


 だがマニのその言葉はシタの主張を補強するもののように聞こえた。


「お前が守られたと感じたそれは、どう考えても我らが神の加護だろう」


「そう考えてもいいんだと思う。この世界に無意味なことなんて存在しないからね」


 あぁマニ……

 パーティクは見ていられなかった。


〈父〉にあらがおうとするばかりに、自分の主張が支離滅裂になっているのだ。


 シタも首を傾げて言う。「おまえはさっき、この教団のすべてが無意味であるかのような事を口にしていたな。だがこの世界に無意味がないとすると、おまえの先の主張はどうなるのかね」


「一見、矛盾しているように感じられることにも、共通する答えはあるんだよ。晴れた日に降る雨を矛盾と断じて空に叫んでも、なんになる?」


 パーティクは顔をあげた。

 もしかしてマニは、すべてを理解して言葉を口にしているのか?


「その共通する答えとやらを教えてもらえるか?」


 シタの純粋な問いかけだったが、この時、マニの目が光ったようにシメオンは感じた。まるで肉食獣が獲物を見つけた時のような目の奥の光だ。


「私からの宣教をご希望ですね? 老人シタ」とつぜん丁寧な口調になったマニは、他にいる洗礼者たちを見回した。「みなさんが今まで熱心に続けていたこの共同体での人生は、ハッキリ言って無意味でしょう。みなさんはこのままでは何も得ることもなく、真の楽しみも真の苦しみも知ることなく、ただただ平坦な日々を過ごして命尽きていくのです。しかし、わたしはそれを望みません。なぜならわたしは信じているからです。だからこそ、わたしがみなさんに、今までの人生に意味を与えてみせましょう」


 急に饒舌じょうぜつにしゃべりだしたマニに驚く一方、その場にいる一同は思わず聞き入った。


「人の心の中にはだれしも光を宿しています。光とはすなわち神の欠片です。だれの心の中にも、神は少なからず存在しています。しかしその神は、悪なる身体、悪なる心によって魂の中に巧妙に隠されてしまっています。罪人でも英雄でも、奴隷でも王族でも、失敗者でも成功者でも、男でも女でも。ユダヤ、ミトラ、ゾロアスター、キリスト、エルカサイどの教えを信じようとも。みなさんの内に神はるのです。その根拠に、みなさんはどんな行動であれ、良かれと思ってその一歩を踏み出しているではありませんか。そもそも、わたしたちは良い事をしたいと願っているのです――キリストの自己犠牲はもちろん、殺人や拷問、迫害であってすらも。つまり問題は、その〝光の動機〟に対する〝暗黒の手段〟なのです。暗黒の手段に手を染めないみなさんは確かに清浄ですが、光の存在を忘れていてはどうしようもありません。だからわたしは無意味と言ったのです。……決して光を見失わないよう。そしてどの神であれ構いません。信じ祈り続けることが大切です。この世界では、物事はなかなかうまくいきませんから」


 マニが短時間ながら強力な言葉を終えても、シタすらも、しばらく口を開くことはしなかった。


「みなさんはこの村で洗礼を続けるといいでしょう。しかし、わたしはこの村から出ていきます」


 杖の音にハッと目を覚ましたかのようなシタは、もう何かを考えられる状態ではなかった。マニの言葉に心打たれたのではない。とにかく弟子の若造が師たる自分に説教したことが気に食わなかったのだ。そしてそれを最後まで静かに聞きこんでいた自分自身を許すこともできなかった。まして、彼に言い返せる言葉すらない。しかしこの時、一つだけシタの心に思い当たりがあった。


「……ギリシアの思想か!」


 マニのその主張は、どこかで見聞きした覚えがあるものだった。それはまだシタが〈父〉という名を継ぐ遥か以前――エルカサイ教団にすら入る前のこと。真実を求めて様々な書物を追い求めていた若かれし頃に、少しだけ触れたことがある思想だ。


 急いで洗礼者に指示を出し、マニの部屋を漁らせる。すると案の定、すぐにギリシア語の書物が発見された。マニがはじめて手に入れた、エウラリアからもらったアリストテレスだった。


「これではっきりした! マニは汚染されたギリシアのパンを食べたのだ!」


 シタが高らかにそう言い放つと、まるで許可を得たとばかりに、洗礼者たちはマニをひっ捕まえて床に投げて転がし、殴る蹴るの暴行を加えはじめた。シメオンとパーティクは顔を見合わせて狼狽ろうばいする。これを無理に止めようとすれば、間違いなく自分たちもマニと同じ目にうだろう。けれどパーティクは迷っていた。目の前で痛めつけられている自分の子を救わないでいて、果たして自分は本当に父親なのだろうか。マニから父を奪ったのは〈父〉ではなく、自分自身ではないだろうか?



「麻袋を持ってきなさい! それにこの穢れた男を入れて口をキツく結び、聖なる河の底に沈めるのだ!」


 頷いた洗礼者の一人がすぐに大きな袋を持ってきて、その中にマニを入れようとする。


「お待ちください!」と叫んだのはパーティクだった。「たしかに水は穢れを落とします! しかし穢れそのものであるこの男を河の底に沈めては、以後、その河の水は汚染された毒の水になるでしょう! それこそ我々の洗礼は毒の水によって穢され、この男は死してなお我々を嘲笑あざわらうことになります! さらには、落としきれない穢れを放り込まれた河がどんな災いを起こすかわかりません! ここはマニを追放することでこの村を厄災から守ってはいかがでしょうか!」


 結局のところ、パーティクの訴えはマニの命いだった。しかしその訴え方は彼にしてはたくみで、なによりその主張は教義に背いていない。そしてパーティクは教団の高位洗礼者という立場だ。他にも洗礼者がいる手前、〈父〉はそれについて真剣に考え、最終的には頷くことしかできなかった。


「マニは追放だ」と、〈父〉は呼吸を整えながら言う。「今、この瞬間に」


 洗礼者たちの息遣いも冷静さを取り戻し、一歩二歩と地面に倒れ込んだマニから遠ざかった。


「マニ!」


 パーティクが駆け寄ろうとするが、「近づくな!」と〈父〉はそれをさせなかった。


「マニは自分の足でこの村から出なくてはならない」


 マニの身体が震えるように動き、上体が持ち上がる。口元が切れたのか、わずかに血が垂れている。よろよろと立ち上がり、杖を探し、それに体重をかける……が、洗礼者のうち一人がその杖を蹴飛ばすと、マニはまた地面に転がった。くすくすと冷ややかな笑いが起こる。


 その酷い仕打ちにパーティクが目を瞑ろうとした時、彼の横から小さな影が飛び出した。


 シメオンだ。


「マニ! 大丈夫!?」


 シメオンはマニの杖を拾い、肩をかしてなんとか彼を立ち上がらせる。そして、驚く洗礼者たちに呼びかけて道をあけさせ、マニを支えて歩きはじめた。その二人の背に〈父〉の声が響く。


「シメオン。私の言うことを聞かないのであれば、お前も追放となるぞ」


「言われなくても出てってやるんだよ! バーカ!」


 その言葉が予想外だったのか、〈父〉はそれ以上なにも言わなかった。

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