第13話 反抗

 

   わが子たちよ

   だまされないよう

   見える火に近づくことなかれ


   火は悪習なり

   遥か遠くにあってすらも

   なんじはそれを

   すぐ近くに見るだろう


   まして

   それを見に

   近づくことなかれ


   天命は

   水の声にこそあり



  *



 いつもと変わらない朝――

 そうであるハズなのに、マニにとってまるで生まれ変わったかのような朝だった。


 朝起きて、水で身体を清め、いつもなら野菜を収穫するような時期だ。けれどマニは、今日からそれをすることをやめにした。野菜売りも、畑を耕すことも、決められた洗礼も礼拝も、そのすべてをマニはとりやめた。


 火を嫌い水を賛美さんびする洗礼者たちの歌が聞こえる。この教団を創設した救世主エルカサイの言葉を歌っているのだ。


 空に響く遠い歌を聞きながら、マニはひとり、遅めの水浴びをする。


(一歩身を引くことで見えてくることって本当にあるんだな。なんで今さら気付いたんだろう。あんなことを歌っていたって、おれたちだって火は使うもんなぁ)


 水も火も、ただただ物質が存在するための形状パターンが違うに過ぎないというだけなのに。



 早朝の儀式や畑仕事を終えた洗礼者たちに合流したマニは、その後なにごともなかったかのように朝食の席に加わった。


 マニが役目を果たさなかったことについて多くの洗礼者がそれを認識していたが、だれもとがめることなく、震えるようにただただ黙々と食事を食べ続けていた。この時のマニには、周りにそうさせる不思議な威圧感のようなものがあったのだ。


 その中でどうしても我慢できなかったのは、アフサが去って以降マニの隣の席になっているシメオンという若い洗礼者だった。


「(マニ。今日の朝はなにをしてたのさ?)」


 好奇心が勝り、とはいえ恐る恐る、まわりに聞こえない程度の小声で彼は聞いた。けれど、なによりこの日は不自然に静まり返った朝食の場であり、だれがどうみてもマニとシメオン以外の洗礼者は息をひそめ聞き耳を立てている状況だ。パーティクや〈父〉ですらその一員で、会話は筒抜けだった。


「別にこれといって」マニの通常の声量に、何人かの洗礼者がビクリと驚き、思わず食器の音が鳴る。「今朝はいつもよりゆっくり水を浴びて、ゆっくりここに来ただけだよ」


 サラサラの黒髪にあどけなさが残るシメオンは、マニの悪びれない調子に驚いた。


「(体調が悪かったとか?)」


「むしろいい方かな」


「(じゃ、じゃあ寝坊したんだね? 昼間の農作業はちゃんとやるつもりなんだろ?)」


「やらないかな。でもかといって、このあと特にやることもなくてヒマなんだ。……本でも書いてようかと思ってる」


「(やらないって、なんでさ!)」


けがれるばかりだからね」


「コホン!」と、〈父〉が意味深に咳き込んだ。「静かに食べなさい、シメオン」


「(えぇ〜〜、おれかよ〜〜!)」


 マニはそんなシメオンに代わってゆっくり一礼すると、そこで食事を切り上げて立ち去った。そして自分が暮らす家屋へと戻り、部屋の中でエルカサイの教本をめくってみる。


 彼が残した数多くの言葉が収録されている教本だ。何度も何度も読んだことのあるその内容だったが、マニは改めて端から端までそれを読みはじめていた。気付けば昼食の時間になっていて――通常であればまた食事のために集まるのだが、マニはふらっと共同体の外へと歩いていく。

 

 シメオンは、とつぜん変な行動をはじめたマニの様子が気になっていたので、密かに彼を観察していた。さすがに〈やし園〉の外にまでついていくことはできなかったが、午後の農耕の時間にマニはふらっと帰ってきて、やしの木の木陰に座り、本を読みはじめる。そして夕食の時間になるとまたふらっとどこかへ行き、次の日の朝の食事だけはみなと一緒に食べる。


 マニのこの不思議な習慣は数か月続いた。


 その間、シメオンからすると〈父〉や長老たちが彼の異常行動を黙認していたことがなによりの驚きだった。一時は高位洗礼者のパーティクが見るにみかねてマニをとがめようとしたが、それを止めたのはなんと〈父〉その人だ。


 けれど〈父〉は、その時パーティクに伝えた言葉を――マニの行動に対し他の洗礼者たちが気を許しはじめた頃になって、朝食の席でみなに向けて言った。


「彼に関わるのはよしなさい。くれぐれも、マニには話しかけないように」


 その言い方は決して穏便なものではない。みな〈父〉の意図を理解し、マニが許されないことをしているのだと再認識する。つまりこの号令をきっかけに、マニに対する攻撃的な無視がはじまったのだ。


 朝食も、それからマニの分は用意されなくなった。洗礼者が集う食堂に足を運んだマニは、自分の食器がないことに気付く。一瞬だけ立ち尽くした彼の様子を見て、周囲からクスクスと隠れた笑いが起こる。


 しかしマニは表情を変えなかった。それどころか、少しだけ余裕めいた笑みを浮かべている。マニはすぐにきびすを返し、建物の外に出ていった。


 彼が出て行ってからしばらくして、「あの野郎。なにがそんなにおかしいんだ」という誰かの声が聞こえた。



 それからマニは朝食に姿を見せなくなり――食事については、三食とも共同体の外のどこかへ出かけて食べているようだ。また朝起きるのは遅く、朝食後の午前中は自室にこもって過ごし、午後はやしの木の木陰に座り、洗礼者の農作業を眺めながら本を読む――そんな日がさらに半年以上続いた。


 そして、マニが二十三歳になってからしばらく経ったある朝食の時間帯に、事件は起こった。


 シメオン含む洗礼者がいつもどおり朝食を摂っていると、突然マニが建物に入ってきて、一冊の大きく重そうな本をドンとテーブルの上に投げ置いたのだ。


 洗礼者たちは動揺しながらうつむいて〈父〉の様子を伺い見る。ヒゲも髪も白く長いその老人は、落ち着いた様子で器にある木の実を食べ続け、そしてゆっくりと飲み込んだ。マニは〈父〉のその様子を、一言も話さずジッとみつめ続けている。沈黙が充満し、凍り付いたような時間が過ぎていく。


「マニ」と、ようやく〈父〉が口を開いた。「哀れな子よ。〝この本はどうした〟と聞いて欲しいのか?」


「よかった。無視されるかと思ってヒヤヒヤしたよ」


「言葉遣いに気をつけろ!」と誰かが罵声を上げる。


〈父〉はそれをしずめるように手を掲げながら、穏やかな口調で言った。


「久々にお前の顔を見たような気がするな」


「部屋にこもって、夢中でこの本を制作してたからね」


「……仕方ないから聞いてあげよう。……この本は?」


「我らエルカサイ教団の新たな教本です、老人シタ」


 さすがの〈シタ〉も、これには表情を歪めて立ち上がった。


「未熟者め! 偽典ぎてんを作成したというのか!!」


〈父〉の激怒にあわせて、熱心な洗礼者たち数人がマニに飛びかかる。両手を掴まれ、後ろから首に腕を回されたが、マニは変わらぬ冷静さで言った。


「老人シタ。残念だけどこの教団の洗礼はエルカサイの教えと矛盾してるんだよ。ちゃんと引用元だって示すことができる」


 その言葉に戸惑いを隠せない洗礼者たち。彼を掴んでいた腕の力が少しだけ弱まった。


 マニは続ける。「たしかに救世主エルカサイは〝水の声を聞くように〟って言っているかもしれない。でも実は、彼が水の声を聞いたという時のことを、彼は次のように語ったんだ。〝ある日わたしが水で身を清めようとした時、水の中に一人の人間の姿を認めた。彼は毎日毎日、動物や人間が自分の中で沐浴するすることで傷つけられたとわたしに向かってなげいた〟と」


 洗礼者たちからどよめきの声があがる。


「さらに、水の少ない水たまりで身体の垢を落とそうとした時も、彼はまたこんな水の声を聞いたそうだよ。〝われわれと海の水は一つである。ここにもおまえは誤りを犯し、われわれを傷つけるためにやってきたのだ〟」


 今やマニに巻き付く洗礼者の腕は一つもなかった。


「おれが作った教本は、それらを元に作られてる。……どう? ちょっと読んでみたいって思ったでしょ」


 そう笑みを向けるマニに飛びかかろうとする者は一人としていない。


 しかしシタは違った。

 その本を――非常に巨大な本を――両手で抱えあげ、足早に建物の外に出ると、迷うことなくそれを河へと投げ捨てた。


「洗礼者は水を浴びなさい! いつわりの言葉によって穢されたその身体をいますぐ洗い流せ! マニ! お前は二度とこの教団の教えに逆らうな! 次はないと思え!」


 顔を真っ赤にして怒鳴どなるシタだったが、穏やかに外へと歩み出たマニは、まだ建物内で呆然ぼうぜんとしている洗礼者たちの方へと振り返り、言った。


「ある日のこと、エルカサイが畑を耕そうとしていたところ、土からもうめき声が聞こえたんだ。彼は土の塊を両手に取って接吻せっぷんし胸にあてると、土はこう言った。〝これは我が主の肉と血なのだ〟と。彼はそれを聞いて涙ぐみ、それ以降、くわを持つことをやめたそうだ」


 震えるシタを尻目に、悠々とした足取りで立ち去っていくマニ。シメオンは、そのうしろ姿を純粋に格好いいと思いながらみつめていた。自分でいろいろと物事を調べ、それを堂々と主張するというは並大抵の覚悟がなければできないことだ。とても自分にはできそうにないことだった。


 ただそれ以降、マニは特別な主張をすることなく、さらに一年ほど大人しく過ごしていた。加えて病弱時以外はマニへの接触を禁ずる命令が〈父〉によって出されていたので、元気で健康が売りのシメオンはマニがまだこの共同体にいるのかどうかすらもわからなくなった。もしかしたら、もうすでに追放されている可能性すら考えていた。


 そんなシメオンが、マニがまだこの村にいたのだと確認することができたのは、また彼が教団に対して反抗的な騒動を起こしたからだ。



 マニが二十四歳の誕生日を迎えた四月。

 外の世界では、アルデシールがシャープールに王位を譲位するという国家の転機を迎えていた。その知らせは、マニが医者として近くの村に移動する途中、クテシフォン方面から歩いてきた旅人が教えてくれた。


(ついにこの国の王様になるのか。やったな、シャープール……!)


 同時に、彼が前に言ってくれた言葉を思い出す。


〝いつかクテシフォンにおいでよ。将来、しかるべき時にでも〟


 あの時のやりとりを、マニは昨日のことのように覚えている。然るべき時とは、お互いにまた話したいと思った時だと彼は言っていた。


 果たして今がその時なのだろうか。

 わからないが、少なくとも今のマニには話したいことがたくさんあった。なにより〈やし園〉での自分の立場は散々だし、けれど自分の主張は単なる事実でしかないし、とはいえ確かにそれは共同体の存在そのものを揺るがすほど破壊的な事実であることは明白で、今後これをどう扱っていけばいいのかわからない。


 シャープールなら、いいアイデアを出してくれそうだった。あるいはグチを聞いてくれるだけでもありがたいし楽になる。


 また、彼に宛てた手紙もあった。マニ自身の世界についての考えを、ゾロアスター教徒にもわかりやすいよう彼らの神話に置き換えた物語だ。


(行ってみるか。クテシフォン)


 もちろんシャープールは、そもそもマニとは出自が違う。マニにとって相手は一国の王だが、シャープールにとってマニはただの一介の国民――しかも怪しい教団の信者――に過ぎないのだ。昔の話を覚えているかはわからないし、覚えていたとしても会ってくれるとは考えにくい。


 しかし、たとえそれでも構わないとマニは思っていた。もしかしたら手紙すら渡せない可能性だってあるが、そうであっても、立派になったシャープールを遠目であれ一目見ることができれば自分はそれで満足だ。



 マニはいつかくるだろうこの日のことを考えて、実は密かに一着の正装を用意していた。正装といっても、〈白装束〉やゾロアスター教などの宗教によって取り決められたそれではない。思想以前に、マニはバビロニアの生まれだ。それゆえ、彼はこの地に古くから伝わる由緒正しい服装を準備していた。


 色のついた服に、あざやかな青色のカラフルなマント。かかとが極端に高く作られた革製の靴を履き、黒檀こくたん製の杖を持つ。決して豪華ではないが粗末でもない、古代バビロニア戦士のさすらいの装いだった。


(とはいえ剣の代わりに杖を持ってるから、どちらかというと魔術師みたいだな)


 自身の服装に新鮮さを感じながら家を出て、村の出口へと歩くマニ。颯爽さっそうとした足取りで杖の音も軽快だったが、その一方、奇怪きっかいな色をたたえた服装のマニをみた〈白装束〉たちは、規律破りに加え、その風貌ふうぼう唖然あぜんとした。シメオンもさすがに飛び上がって驚いて、マニの元へと駆け寄った。


「マニ! その恰好かっこう、いったいどうしたの!」


「古い衣装だよ」とマニはいつもどおりの笑顔で穏やかに言う。「これからクテシフォンに行こうと思って」


「クテシフォン!?」


「シャープールが即位するんだ」


「うそ! ついに王の王アルデシールが崩御ほうぎょしたの!?」


「いや、どうやら譲位じょういって話」


「へぇ……さすがマニ。外の世界のことには詳しいね」


「そりゃ、外に出てるからね」


 シメオンは、そんなマニの自由さが羨ましかった。どうしてここまで、自分とマニは違うのだろう――


 そんな風に思いながらマニを村の外まで見送ろうとしていたとき、うしろから数人の洗礼者たちが凄まじい勢いで追いかけてきた。高位洗礼者たちだ。


 彼らは今までのマニの行動にはらわたが煮えくり返るほどいきどおっていたこともあり、ついにその服装をみて、堪忍袋の緒が切れたに違いない。


 身体の小さなシメオンは軽くマニから引きがされ、足の悪いマニに対して彼らは複数人で掴みかかり、近くの農具入れの納屋にまで引っ張って連れていき、強引に放り込む。


「もうマニの侮辱ぶじょくには我慢できん!」


「ああ! もう無視だけではだめだ!」


「このままではマニをつけ上がらせるだけだ! 〈父〉に進言しよう!」


 頷きあった高位洗礼者たちはすぐに〈父〉のもとへと行き、今回のマニの所業しょぎょうについて処罰を訴えた。

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