第7話 学問の伝道師

「そもそもカラカラがローマをめちゃくちゃにしたんだよ」そう娘に教え込む口調のカリトンは間違いなく博識な人間だ。


「〝お前のものはおれのもの、おれのものはおれのもの〟を本気でやっちゃった人でしょ?」と、対するエウラリアはもう何度も聞いているという風に言う。「おかげで、永遠の繁栄が約束されていたローマは、彼たった一人で大崩壊。貴族も兵士も気持ちがバラバラで、身内以外信じられなくなっちゃったんだよね。


 でもローマ人ってさすがだなって思うのは、そこで〝自分こそがローマを立て直すんだー!〟って意気込んで立ち上がれるほどのローマへの愛着と、自分こそが正義だって疑わない素直なところと、なによりそれで誰に対しても剣を振りかざせちゃう自己陶酔とうすいができちゃうところだよね。


 まぁ結局その気質が災いして、各地の将軍が〝自分こそがローマの皇帝にふさわしい!〟なんて同時に名乗っちゃうもんだから、内乱だ暗殺だって蛇の巣みたいな陰湿な殺し合いが各地で巻き起こる酷い国になってるのは皮肉だけどさ。きっと筋肉バカが多いんだと思う。私は好きじゃないな」


 エウラの言葉を聞きながら、マニはしみじみとした気持ちでうんうんと頷いた。マニが書物で知ったローマ帝国のイメージも彼女と似たようなものだったからだ。というのも、ローマ人は知識についてだいぶかたよった考えを持っているのだ。


 彼らはとにかく即物的で、とにかく今日明日の裕福や自分の強さ、ローマの強さを望んでいた。知識に対してすぐに目に見える変化を求めていたのだ。一方、マニが憧れるギリシア的な知識は、彼らの望みを叶えなることはしない。それはアリストテレスも同様で、ギリシアの人々は人類がいかに宇宙を知ることができるかという壮大かつ観念的な知識を探求していた。


 それゆえに、ローマ人は過去の偉大な知識を「そんなものがなんの役に立つ」とバカにしていた。そんな環境に嫌気がさしたり追放されたりした学者の向かった先が、地中海の真珠の港を持つ都市、アレクサンドリアだ。アレクサンドリアは同じローマ帝国領内ではあるものの、過去にアレクサンドロス大王がアテネから知識を移した伝統的な学問都市であり、この都市に限っては、ローマ人の言う〝無駄な知識〟に没頭することが許されていた。


(アレクサンドリア。いつか、そこに建設された史上もっとも巨大と語られる図書館に行ってみたいな)


 果たしてそれはどのような建物なのだろうか。きっと壮麗な芸術的建築物で、そこにはまだマニが知らないさまざまな知識が眠っているに違いない――マニは頬杖をついて、アレクサンドリアへと思いをせた。


「……なにニヤニヤしてるの」


 目を開けると、エウラが意地悪そうな笑みでマニを見つめていた。


「気持ち悪いんですけど」と蔑みの言葉を口にするが、そこに嫌味は感じない。


「べ、別に」慌てて取り繕うマニ。「それよりも、アリストテレスの書物! さっそく読ませてもらったんだけど、おもしろすぎてもう全部読んじゃったよ」


「もう全部読んだの!?」


「うん、本当にありがとう! あれは間違いなくおれの人生を変えるものだった」


「ねぇ、お父さん」


「……そうだな」


 カリトンと頷きあったエウラは、ずいっとマニに顔を寄せて言った。「ね。マニくん。ウチに来ない? アリストテレスの他の書物はもちろん、世界各地の学者たちの書物がウチにはあるよ」


「アリストテレスの他の書物に、世界各地の学者の……?」


「普段はどんな書物を読んでるの?」


「プトレマイオス、アッリアノス、マルキオン、バルダイサン……」


 マニが挙げたそれは、共同体に保管されている書物の作者たちの名だ。


「アッリアノスは好き!」と目を輝かせて手を握ってくるエウラ。「だって、あのアレクサンドロスの東方遠征を書いた人だからね。私たちの御先祖の活躍もしっかりと書き記されてて、なんども読みなおしてる! プルタルコスは知ってる!?」


「プルタルコス! 知ってるよ、何年か前に読んだ!」


「私、そこに出てくるエウメネスって書記官が大好きなんだ。アレクサンドロス大王は率先して軍の先陣に立ってたけど――」


「うんうん! わかる! 文官のエウメネスもなぜか兵を率いる機会があって、でも彼はアレクサンドロスとは逆に、決して矢面には立たなかった! マケドニアの戦士たちからするとそれは臆病にみえたみたいだけど――」


「だからこそ、エウメネスが兵を率いると――」


「「とんでもなく強かった!」」


 力のこもった二人の声が揃う。


 マニにとって、それははじめての経験だった。すなわち、自分が読んだ書物について共に語り合うなど、今まで一度としてなかったのだ。


 その初めての相手がまさか同じ年頃の女の子で、さらにあまり有名でもない歴史上の人物について、こんな風にも意見が一致したことにマニは感動していた。

 

「私はそういう戦い方の方が好きだな」とエウラが一息つきながら続ける。「やっぱり男の人は頭もよくなきゃね」


「僕は今まで出てきた人の名前、だれ一人としてわからないよ」アフサが降参したような表情で、楽しそうな二人の間に入ってくる。「僕も勉強してみようかな」


「興味ないくせに」とマニ。


「あるよ! ねぇエウラ、初心者向けの書物だってあるんだろ?」


「もちろんあるよ。ね、パパ」


「そうだな。いくつかオススメはある」とカリトンが髭をいじりながら関心している。「〈白装束〉の奴らを家に招くのはごめんだが、君たちなら歓迎だ。ゾロアスターの色をした、真の真実を拒まないナザレの異端崇拝者とはおもしろい」


(真の真実……)


「学問はいい」と、カリトンは続ける。「今までそれとなしに暮らしていた日常の中に、柔軟で強固なルールが無数に存在していることに気付かされるからな。おそらくこの世界のあらゆるできごとに神秘など存在しないのだろうとすら思えるくらいだ」


「でも宗教家たちはそう言われるのを嫌がるだろう?」アフサが聞く。


「その通り」カリトンは頷いて人差し指を立てた。「だが、そのような宗教の在り方は短絡的だと感じるな。たしかに学問は、一見しただけではまるで神の居場所や存在を否定しているかのようだ。だが実は、もう一層深いところにそのり所があることを多くの学者が語っている。それについて私は、短絡的な宗教家ごときからは見ることのできない真の真実だと考えているんた。そしてもしかしたら君たちには、それを見る力が備わっているかもしれないとも思っている」


 マニの考えに近いことを、この髭もじゃの男性は語っている。マニは、かねてからの疑問を聞いてみることにした。


「……一体あなたは何者なんです?」


「写本屋だよっ」


 隣からエウラがきらきらと目を輝かせて、マニの顔を至近距離で見つめながら回答した。その一言に、マニはようやく――そして一気に納得した。


(そういうことだったのか!)


 カリトンが言う。「実は私たちもアレクサンドリア帰りでね。昨日はこの近くの村に泊まって、今日はこれから自宅に戻るところなんだ」


「じゃ、じゃあ、いま二人が抱えているのは……!」マニの心がそわそわし、好奇心が押し寄せる。


 カリトンは、斜め掛けにしていた布に大量に挟んだ巻物を叩きながら笑った。


「アレクサンドリア図書館のきちょ〜〜な書物さ!」


「きちょ~~な書物!」


 つまりこの親子は、アレクサンドリアにある貴重な書物を世界に広げる学問の伝道師だったのだ!


「どうだ? 少年。私たちの写本業を手伝ってみないか? ……というのも、実は私たちも人手不足に悩んでいてね。……世の中がこんな状況だろう? いつ兵士がやって来て本を差し押さえられるかわかったもんじゃないからな」


「なぁマニ、シャホン業ってなんだよ?」エウラではなく、敢えてマニに聞くアフサ。


 その様子をクスクス笑いながらエウラが答えた。


「きちょ~~な書物を複製して、色んな街のお店や別の図書館に売ったりする仕事だよ」そしてまた、マニを見つめる。「ね。ウチにくれば、そんな書物を読み放題だよ」


「読み放題……!」


「読みたい?」


「読みたい!」


「ウチに来たい?」


「行きたい!」


「行きたい!」とアフサも手をあげる。


 少女からの誘いとあって、明らかに下心に満たされた表情だ。そのいやらしく零れる笑みをみていると、たしかに〈父〉が徹底している禁欲は正解なのかもしれないと思えてくる。


「……なんだよ」


 マニの蔑みの視線に気付いたアフサは、一転して開き直ったかのような表情をみせる。こんなお調子者を相手にしていた〈父〉はさぞかし大変だっただろうと、今更ながら少しだけ同情した。


「僕も勉強したいってさっき言ったろ。これからこれをきっかけにがんばろうと思ったんだよ」と弁明を続けるアフサ。


「じゃあ決まりだね! 早くいこ!」


  エウラはマニの手を引っ張って立ち上がらせ、杖の代わりに自分の手を握らせて歩きはじめる。


(本当に起こった……! 女の子と話すよりもすごいこと……!)


 思わず口をつぐんで下を向くマニだったが、その表情を覗き込むエウラに笑われていることに気付き、さもなんでもない風に背筋を伸ばして前を向く。しかしエウラはそれをみてさらに笑うものだから、ついついマニは顔を赤らめる。


 慌てて野菜をまとめ荷車に放り込んだアフサが、ガタガタとそれを引きながらエウラとマニに追いついてきた。そして強引に話に入ってきて、なんとかエウラを笑かそうと試みる。その様子をカリトンが一歩後ろで見守っている。


 なんだか、怖いものなんてなにもない――仮に怖くても、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。そんな風に思わせてくれる仲間だなぁだと、ふとマニは思った。


(こんな毎日が続けばいいな)と、マニはそのあたたかな陽気をしみじみと感じていた。


   *


 エウラが暮らすダストマイサーンという村には、昼前に到着した。


 ここから徒歩で半日ほどのところに首都クテシフォンがあるからだろう――村は、その交差点として多くの旅行者や商人などが行き交っている。


 この日から、マニとアフサは定期的にこの村に来てカリトンとエウラリアの写本業を手伝うようになった。朝早く起きて、朝食を手早く平らげ、野菜を積んだ荷車を引いてエウラの村に行き、写本の手伝いをして、夕方の祈りの時間には共同体に戻る――そんな、洗礼とパピルスの巻物や羊皮に筆を走らせる秘密の毎日が続いた。


 ちなみに野菜はというと、村の人々がそのほとんどを買ってくれていた。


 マニにとって、見知らぬ村で過ごす時間というのは新鮮な経験だった。特にその野菜の売れ方には目を見張るものがある。というのも、名もなき街道で野菜を売っていた際に、なぜ野菜が必要でない人ほど野菜を高値で買っていくのか――その不思議な現象の答えをここで見つけ出すことができたのだ。

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