第6話 少女との再会

「いらっしゃいませー」


 白い衣服に身を包んだマニは、小さな村へと繋がる小さな街道で野菜を売っていた。


「ティグリスの恵みを受けた聖なる野菜ですー。いかがっすかー」


「いかがっすかー」


 今日、その横にはアフサがいた。〈父〉は一人で野菜を売ることこそが洗礼の一環なのだと言っていたが――けれどアフサは、もっとマニの話を聞きたいと思っていたのだ。



 のどかな青空の下、時々流れる風が草を揺らし自然の匂いを運んでいる。時々、遠巻きに二人を通り過ぎていく人々がいる。いつもならただただ退屈な時間に過ぎないが、マニの話は止まらなかった。


「いずれ人はこの大空を自由に飛べるようになると思うよ。でも、宗教の教えはそれを許さない。空を飛んでいいのは、天使や神さまといった特別な存在だけだからね……。同じように、不思議なことを明確にするあらゆる科学的主張は否定されると思う。すべてのできごとは神の御業みわざの賜物ですってね。でも、どうしたって人は〝知りたい〟って思う生き物だ。その探究心によって、これからもおれたち人間は色々なことを知っていくだろう。そしてもしそれが博愛によって正しく扱われるなら、それに導かれるように人間は豊かで幸せになっていくんだ。いつの日か神さまの居場所がなくなってしまうくらいに、おれたちはなんでもできるようになると思う」


「居場所がなくなるんじゃなくて、もともと神さまなんていないんだよ」


「アフサ。たしかにそうかもしれない。でもそんな風に言ったらそれこそ世の中の人たちは聞く耳を持ってくれないし、そもそも神さまはいるんだって」


 マニは売り物の野菜のなかから、オリーブの実を二つ取り出した。


「簡単な足し算だ。オリーブの実が一つある。そこにもう一つ足したら何個になる?」


「二つだろ?」


「神の御業みわざだ」


「どこがだよ。一つに一つを足したら二つになるのは当たり前だろ」


「その当たり前を作ったのはだれなんだ?」


「それは……! ……それは知らないけど」


「それに、一つ足す一つが二にならない場合もある。例えばおれと君だ。単純に人間を見れば一人から二人になった、ということまではわかるけど、それによってこの野菜たちの売り上げが二倍になるかというと、決してそうじゃない。足し算は表面上は単純だけど、よくよく観察するとそれ以上の複雑性を内包しているんだ。……今までは、こういう〝計算できないところ〟に神さまがいると考えられていた。だから宗教家からすると、あらゆることが計算できてしまってはマズイんだ。でもきっと、それも〈叡智〉は暴き出すことができるんだと思う。不思議な事柄に関する知識を集めて、それをハッキリさせていく事がおれたち人間にはできるんだ。でもその前にちゃんと〝神さまは別の場所にいるから大丈夫だよ〟ってみんなを安心させてあげなきゃいけない」


「別の場所? それって――」


「シッ。アフサ」


 マニは目を瞑り落ち着いた様子で――しかしキッパリとした言葉でアフサの言葉を遮った。


「この話は後にしよう。ゾロアスター教の一団だ」


 アフサが道の左右を確認すると、自分たちが歩いてきた方面に白い法衣を着た集団がみえた。武装した兵士や馬の姿もあり、日光が演出する陽炎の中、ゆっくりとこちらへと歩いてきている。


 不安に駆られるアフサ。自分たちは彼らにとってむべき異端なのだから。


「マニ」


「大丈夫」マニのその言葉は、アフサの心を落ち着かせる不思議な温かさがあった。信頼に足る温かさだ。「……だと思う。そう思うことにしよう」


「思うことにするって……」


 信頼の言葉をマニ自らの手によって奪われるアフサ。


「騒いだところで、どーにもなりません」マニは一転して気の抜けた表情でそう言った。「逆に変に緊張してたりオドオドしてる方が目に留まるよ。おれらは淡々と野菜だけ売っていればいいんだ。もしかしたら大金で買ってってくれるかもしれないぜ」


「まさか」


 一団の先頭がすぐ近くにまで迫ってきたので、二人は息を合わせたように口をつぐんだ。その隊列は一スタディオン〔※およそ一七〇メートル〕はありそうなほどの大所帯だ。アフサは大きく息を吸い込んで不測の事態に備えたが、隣のマニを見てみると、今にも眠ってしまいそうなほどの退屈そうな顔をしている。


 兵士や教徒たちは、点々と聖火を掲げていた。マニたちを目の隅にすら入れない者や、怪訝けげんな視線を向けて通り過ぎる者まで様々だ。しかし集団は、マニたちにちょっかいを出すことでその隊列や移動速度を乱すようなことはしなかった。列の中盤になると、何頭かの馬も歩いている――本当にただ事ではない大集団だ。


 その馬の上に、まだマニやアフサと同じような年齢の少年が跨っていた。白いフードを深く被り、姿勢よく手綱を握っている。アフサの位置からでは表情はよく見えなかったが、透き通るかのような金髪がフードから零れていた。一方、その隣マニは、馬に跨る金髪の少年と目を合わせていた。その彼の凛とした表情をひと際引き立たせているのは、珍しいブルーの瞳だ。目尻は垂れているが、まつ毛や眉が黒くハッキリとしていて、どこか不敵な印象を受ける。


 その彼の目が、ふとマニの方を向いた。が、彼が乗る馬はすぐに通り過ぎていった。


 その後も隊列はしばらく続き、しかし野菜売りの二人に冷やかしや罵倒の言葉は一切なく、黙々とその集団は道を歩いていく。


「……ふぅ。なんだったんだ、今のは」


 アフサが九死に一生を得たような表情で、集団の背を見つめる。


「王家の一団だろうね」マニは相変らず冷静な口調だった。


「そりゃ見りゃわかるけどさ。でもどこの誰がこんなみすぼらしい道をあんな大げさな人数で歩くっていうんだ?」


「〈やし園〉なんかに閉じこもって生活しているおれたちだ。その真実を知ることは難しいね」


「私が教えてあげようか?」


 突然の女の子の声に、アフサは飛び上がって驚いた。「な、なんだ!? 誰だお前!」


 マニもアフサも通り過ぎていった一団に夢中で、目の前にまで来ていた少女に気付いていなかったのだ。


 少女は集団の背からマニへと視線を向けて、手をあげた。「や。今日も精が出るねぇ、へんたいさん」


 アリストテレスの書物をくれた、あの時の女の子――エウラリアだった!


「や、やぁ」マニはつられて、喜びを感じつつもしどろもどろに挨拶する。「べ、別にへんたいじゃないけど……」


「なんだよマニ! この子、お前の知り合いか?」アフサがボッと顔を紅潮させる。彼もまた同年代の女の子に対しての免疫は持っていない。


「き、昨日ね」と、マニはアフサにすらしどろもどろに答える。「ほら、話しただろ。昨日話した女の子がこの人だよ。例のアリストテレスの書もこの人からもらったんだ」


「〝この人〟じゃないでしょ、マニくん。エウラリア。私の名前はエウラリア。エウラって呼んでくれてもいいけどね」


 一見無垢そうな表情のペルシア人少女だが、ニッと笑う顔はどこかいたずら好きの様相だ。沢山の悪知恵をもっているかのような瞳の輝きを持っている。その少女がマニの額を指でこつんとつつくものだから、マニは取り乱さざるをえなかった。


「エ、エウラリア。……それってギリシア系の名前だっけ」などとどうでもいいことを聞いてしまう。


 ただ、それはエウラにとってよかったようだ。「そ。ウチの家系の起源は一説によるとアテネにあるらしくてね――」と、やや誇らしげに彼女は言った。


 「アレクサンドロス軍の東方遠征の時、クテシフォンに残って守護を務めたのが私の家系なんだって。そんな私の家の風習で、生まれた子供には必ずギリシア系の名前を付けるようにしてるんだって」


 そう言いながら髪の毛をかき上げる少女は、間違いなく黒髪のペルシア系の血が濃いように思える。ただ世間では、マケドニアの大王アレクサンドロスの伝説は五世紀経った今でも昨日のことのように語り継がれている――そしてその大活躍に自分たちも関係しているのだと思いたい人々は、この時代、無数にいたのだ。


 マニは、その話を広げていくべきか迷っていた。彼女の登場によって頭はごちゃごちゃ状態だ。とりあえずは……そうだ。まずはお礼だろう。アリストテレスのあの書物との出会いは、自身に天啓とも呼べるほどのひらめきを与えてくれたのだから。


 しかしその隣から、ずいとアフサが肩を入れてきた。


「ぼ、僕はアフサ!」


「アフサ。よろしくね」同い年くらいのはずなのに、妙に大人びた様子で頷くエウラ。「ちなみにこの人は私のお父さん」


 彼女が自らの後ろに指を向けたことで、マニとアフサはそこに人が立っているとようやく気が付いた。


「カリトンだ。よろしく」


 髭を生やした学者風の男が挨拶をする。

 エウラは、再び集団の遠い背を見つめながら言った。


「ねぇパパ。あの金髪とあの瞳。……絶対シャープールだよね。アレクサンドリアからクテシフォンに戻る途中だったりするのかな」


「シャープール!?」またアフサが飛び跳ねる。「あの王の王アルデシールの子、……つまりこの国の第一王子か!?」


「そ。そのシャープール」


「そんな人がこんなみすぼらしい道を!?」


 マニもアフサに同感で、どちらかというと信じられない気持ちだった。けれどあの子供ながらにしてどこか高貴な面持ちと青色の深い瞳の光は、王者として充分な説得力をもった風格だった。


(……あれ。でもたしかアルデシールの家系もペルシア人だったような?)ペルシア人は基本的に黒髪だ。(まぁ、どうでもいいか)


 母方からの遺伝かもしれないし、その前の先祖からの遺伝かもしれない。可能性は考えれば考えるだけ出てくるので、マニは特に気に留めなかった。


「アレクサンドリアに行っていたのかもしれないな」


(アレクサンドリア……!)カリトンが言い放ったその響きに、マニの心が躍った。


 髭もじゃのカリトンは穏やかに続ける。「そこからエデッサか、あるいはナザレを避けてパルミラあたりを経由してクテシフォンに戻る途中なんだろう」


「アレクサンドリアって。ローマの領内じゃないか」とアフサ。


「うん」とエウラが頷く。「だから、王族としてというよりは教徒としての遠征……布教活動じゃないかな。今、ローマ帝国ではナザレ派の勢いがすごいことになっているらしいんだ。もしそれがアレクサンドリアに流れ込んだら大変なことになる。一気に地中海を駆け抜けてローマを覆いつくすことになるだろうからね」


 カリトンも頷く。「ここにきてアレクサンドリアは宗教が入り乱れてる。ローマ帝国もミトラという自分たちの教えを持っているし、エジプトもラーを信仰している。そこにナザレが加わった拮抗きっこうの中に、聖なる火も飛び込んだというわけだろう。アレクサンドリアを制した教義はローマ全土に広がる公算が高いからな」


(それだけじゃない)マニは心の中で静かに高不運していた。(アレクサンドリアは過去にはアテネに集中していた伝説の知識人たちが書いた書物が大量に貯蔵されているローマ帝国最大の図書館がある学問都市! 宗教の中に科学派すら入り乱れて、神学やら真理やらローマ帝国のすえやらの舌戦を繰り広げているんだろうな……)


「カラカラが死んでからは――」とエウラが父と話している。「ローマも〝自称皇帝〟があちこちで旗揚げしているみたいだし、そのおかげでローマの宗教弾圧や迫害も少し落ち着いているみたいだから、ホントどの宗教にしても、広めるなら今がチャンスなんだよね」


「うわわ、なんだか難しい話になってきてるぞ」


 アフサは親子二人の会話に耳を塞いだが、一方のマニは目を輝かせてその話を聞いていた。〈やし園〉に引きこもってばかりの生活なので、外の世界の話はとても新鮮で魅力的だったのだ。

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