第5話 フィリアとソフィア

「結局、朝食にも来ないな。あのジジイ」


 信者が集う食堂で、アフサはマニに囁いた。

 昨日の夕食にも〈父〉は姿を現さなかった。二人の説教のあとから、教会の自室にこもりっきりなのだ。


「ほら見ろアフサ」二人の席の間にパーティクが割って入ってきた。たくさんのアーモンドを山盛りにした皿を持っている。「やっぱりお前に怒りすぎてぶっ倒れちまったんだよ」


「違うさ。なぁマニ?」アフサは懐からこっそり干し肉を取り出して、さっとそれを口の中に放り込んでから言う。「そりゃ僕と話しているときは顔が真っ赤でさ、もうどうしようもないって具合だったぜ? でも、いつもどおりマニがうまくその場を収めてくれたんだ」


「マニは本当に言葉がうまいからな」


 パーティクとアフサが共にマニの顔を覗き込む。そのマニは、皿の上に置かれた野菜一点を見つめたままボーっとしているようだ。


「マニ? まだ眠いのか?」


「どうした? 珍しいな」


 左右から交互に声をかける二人。しかしそれでも反応がないので、二人が首を傾げあってからそれぞれ自分の食事に戻ろうとしたところで、マニはバッと顔を上げた。


「アフサ。早く野菜を売りに行こう」


 そう言うが早いか野菜を一気に口にかき込むと、立ち上がって杖を持ち、信者が集う食堂を後にする。


「おい! ……おい、マニ!」


 目の前にあるものをできるだけ多く口に入れて後を追うアフサ。その二人の俊敏さに、パーティクだけが取り残された。


「なんだよ、おれが肉を食ったことが許せなかったか!?」


 初夏の陽気をみせる外に出たところで、アフサはマニに追いついた。納屋に置かれている荷車の上には、すでに早朝のうちに収穫された野菜が積み込まれている。


「違う違う。そんなことどうでもいいって」と軽く答えるマニ。


 とはいえ〈白装束〉は菜食主義の禁欲集団だ。動物の肉を食べることは許されていない。〈父〉はもちろん、他の信者にみつかったら大変なことになるだろう。


「それよりも、ついにおれは知ってしまったんだ」


「なにを」アフサは考えなしにそう返してから、改めて自分の頭で少し考えてみた。そして、思わず飛び上がる。「今日はお前の誕生日だったな、おめでとう!」


「ありがとう」


「それで!? 啓示はあったのか!?」


「……君は無神論者じゃなかったっけ?」


 二人は納屋に辿り着き、いつも通りアフサが掴み板の中に入り込んで、マニは荷台の固い野菜の上に腰を下ろす。


「君こそ無神論者じゃない?」と、アフサは荷車を持ち上げながら言った。


「いや。……いや、うん。隠してたけど、昨日までは本当にそうだったかもしれない。でも、たぶんそれは間違っていたんだ。神はいるよ、確実に」


「君がそう言うんならそうなんだろうさ。僕にはよくわからないけどね……でも、僕が信じているのは君だっていつも言ってるだろ。だから、もし君が〝天使からの声を聞いた〟っていうなら、僕はそれを信じるよ」


「天使ね。……天使か。なるほど! その呼び方はおもしろい」マニは膝を叩いて笑う。


「なに言ってんだ、聞き飽きた言葉だろ」


「そうじゃなくてさ!」


 マニは言葉を区切り、一度だけ振り向いた。荷車はすでに〈やし園〉から出ていて、車輪の二本の平行線が砂の道路に伸びている


「アフサ。今からとてもマズイ話をするんだけど、大丈夫?」


「大丈夫も何も、僕と君の仲だろ」


「君にはうっかりがあるからね。……でもまぁ、それは後で考えよう。天啓を得たんだ」


「ほらやっぱり!!」荷車がアフサの興奮で揺れる。「それで、声の主は誰だったんだ!? 姿は見たのか?」


「姿は見てないし、誰からという声もなかった。おれは書物を読んでいたんだ」


「いつも読んでるじゃないか」


「〝人は生まれながらにして、〈叡智えいち〉を求める〟」


「なんだそれ。イエスの言葉かなにかか?」


「アリストテレス。禁書だよ」


「ふぅん。書物のことはよくわからないな。でも〈父〉が禁じていたということは、きっとすごいものなんだろう? この干し肉みたいにさ」


 アフサは懐から肉をチラリと見せてニッと笑う。


「そうかもしれない」つられてマニも笑った。「でも、アリストテレスが示唆するのはその先さ。例えばその肉みたいに、人がたらふく知識を得たらどうなると思う?」


「たらふく知識を得たら? 肉と違って腹はいっぱいになんかならないよな」


「人は空を飛べるようになるかもしれない」


「まさか。人が天使になるってのかい?」


 アフサは鼻で笑い飛ばしたが、マニは構わずに続ける。


「空に貼り付いた太陽や月、夜空の星々にだって旅行することができるようになるかもしれない。永遠の命が手に入るようになるかもしれない。離れた場所にいる――例えばパーティクと自由に話ができるようになるかもしれない。人を自由に生み出せるようになるかもしれない」


「本気で言ってんのかよ。そんなこととても信じられないぜ」


「そうだろう!? おれも信じられない。だからすごいんだ」


 ガタガタと心地のいい荷車の音を感じながら、二人は会話を続ける。


「頭が良くなるだけで、君が空を飛べるようになるってか?」


「少し違う。そういう手段を見つけられるようになるってことさ。この荷車だって知識の産物だろう? 普通の人間なら決して運べないような量の野菜を君一人で運ぶことができているんだ。知識は知識だけで終わらない――それを活用してはじめて意味を成すことができる。知識は使わなければ意味がないんだ。でも正しく使わなければバベルの塔崩壊やアトランティス滅亡のような事がおこってしまう……この二つはどちらも創作らしいけどね。まぁつまり、知識を正しく扱う存在がいてはじめて、その知識は〈叡智〉に昇華するってことさ」


「えいち……難しい言葉だな」


「フィリアとソフィアだよ」


「なに?」


博愛フィリア知識ソフィア。この二つが融合してこその〈叡智フィロソフィー〉だ。それがおれたちを新しい世界に導いてくれるのさ!」


 自分の言葉に興奮するマニだったが、一方のアフサは足を止め、遠い空を見つめた。まるで存在するはずのない生前の記憶でも思い出しているかのようだ。


「でもさ、マニ。お言葉だけど、僕たちは導かれるどころかんだぜ。――そうだろう? それこそ知識を求めたばかりにさ。……僕たちはあらゆることを知ろうとして果実を手に取った。だから僕たちは、神さまにエデンから追放されたんだ」


「〈父〉と同じじゃないか」あっけらかんとした口調で、マニは野菜の上に寝転んだ。「〈父〉もその神さまとやらも、要はおれたちに無知のままでいてほしいんだろ? 無知は無垢だ。知らなければ穢れることもない――だから〈やし園〉とかエデンとかを作って知識を制限して、身の回りのこと一切の面倒をみてやるから、その代わりお前たちは何も知るなって言ってるんだ」


 少しためらった後で、荷車が動きはじめる。マニは続けた。


「悪いけど、そんな生活は人間らしいとはおれは思えない。でもナザレ派もゾロアスター教も、自由な知識については懐疑的だ。みんな〈父〉みたいな古い考えなんだよ。……いいかい、アフサ。これは非常に心苦しい預言だけど、もしこのままこの二つの宗教、あるいはこのうちどちらかが広がり続ければ、いずれそういう時代が来ると思うんだ。すなわち、真実が迫害されて、呪術と占いが蔓延する地獄みたいな未来がさ」


「破滅の預言者か。もし王の王アルデシールにこの話が聞こえたら、君は火あぶりだね」


「だから、共同体の外で、だれもいないところでこの話をした。そして、その未来をおれたちの手で変えていかなければならないという話に繋げたいんだけど、このまま聞いてくれるかい?」


「もちろん。なにより天使で爆笑した理由をまだ聞いてないからね」


「あれ、言わなかったっけ?」


「言ってないな」


「言ったつもりでいたよ。知識はおれたちを導いてくれるんだ。つまり、簡単な言い換えさ。知識は天使なんだ」


「ほう?」荷車が興味深そうに揺れる。


「そしてその天使が舞い降りた先にあるのが博愛さ。博愛と知識、この二つの共鳴によって、人は〈叡智〉を獲得することができるんだ。博愛は、おれたち人間のどんな人の心にも秘められている。善人でも悪人でも、聖人でも罪人でも、どんな人の心にもね」


「なるほど」


 アフサの頭の中は少しぐちゃぐちゃになりかけていたが、マニの口調が楽しそうにノっているため邪魔しないことにした。


「一方の天使――つまり知識は、自然の中のあちこちに散りばめられている、森羅万象しんらばんしょうの根源だ。天使はいたる所にいるってことさ。そしてそれを見つけ出すのもまた、おれたち人間だ。〈科学スキエンティア〉だよ」


知るスキエ……なんて?」


「〈科学〉。知識を探す行為のことを指している。ナザレやゾロアスターによって、そのうち迫害を受けるだろう、ある種の学問だ」


「マニ。僕はいい加減こんがらがってきたから、そろそろ単語の整理をしてくれないか?」


「実はおれも君に話すことで整理しているから、ちょうどそうしたいと思っていたところだよ」


 マニは荷車から飛び降りて、杖を使って道路の砂地に文字を書きはじめた。


「人は生まれながらにして〈叡智〉を求め続ける。〈叡智〉とは、博愛と知識の結晶だ。博愛はおれたち人間の心の中にあって、知識は自然の中に散りばめられている。そしてその自然の中から知識を見つけだす行為が〈科学〉というわけさ。そうして多くの〈叡智〉を獲得することによって、おれたちはあらゆることができるようになる」


 地面に書かれた箇条書きを、アフサは目をしかめて睨みつけた。シンプルなようではあるが、……よくわからない。よくわからないけれど、でも。


「やったな、マニ」とアフサは祝福した。


「……なにが?」


 杖で地面をひっかくのをやめ、アフサを見上げるマニ。


「今日からそれが君の教義ってことだろう? 少し淡泊なような気もするけどさ。十二歳の誕生日に、君はイエスと同じくして、天啓を得ることができたんだ。今ここに刻まれた砂の文章。これこそが君の考え、君の教えの源流だ」


「そうかもね。でも、これを言って回るだけじゃ相手にされないし、変人扱いだし、最悪の場合は異端思想で火あぶりだ。さっきみたいに知識を天使に言い換えたように、これからはいろいろな教義に合わせてこれを当てはめていかなければいけない」


「当てはめる? ナザレとゾロアスターじゃ言ってることは真逆だぜ?」


「一見するとそうかもしれない。でもどんなものにも共通点があるものさ。ただ、それを見つけるには途方もない勉強が必要になってくるってのが少しやっかいだけど」


「君ならできるだろ」とアフサはマニの肩を叩いた。「なぜなら――前から言ってるだろ? おれは神さまは信じないけど、君のことは信じているからさ。だから当然、君の教えも、君がそれをできるということも信じるよ」


 アフサはマニに荷台に戻るよう促した。そして再び荷車を引きはじめる。


「おれは信じるぜ、マニ」自分の中に言葉をしみ込ませるような、アフサの呟きだ。「マニの教え。マニの教義。……マニ教をさ」


「なんだよマニ教って。途端に怪しくなるからやめてくれよ」


 ガタガタと回る車輪が、黄色い砂の道路に二つの平行線を残していく。その線が人の往来や風によってかき消されようとしていた時、白い装束を身に纏った男たちの一団が道いっぱいに広がって歩いていた。それはマニたち〈白装束〉と似た衣装ではあったが、明らかに雰囲気をたがえている。そしてその中の――馬にまたがった一人が、ふとその隅で消えかかっていた砂の文字を見つける。


「……ふぅん。フィリアとソフィア。アリストテレスか」


 その声はまだ幼い少年のものだった。白いフードからは、透き通るような金髪が流れている。


「でもこの〝知る学問スキエンティア〟って言葉には馴染みがないな」


「シャープール様」


みつけたユーリカ


 砂の文字を見下ろしながら微笑んで、そう呟くシャープール。


「シャープール様!」


「あーはいはい! わーかってるって!」


 お目付役の神官の言葉に綱を引き、馬の向きを変える少年シャープール。白い集団はそのまま無言で道を歩き続け、野菜を売っているマニとアフサの前を通り過ぎた。シャープールはそのマニの様子に興味を示しかけたが、守護者たちにまたなにか言われるのもわずらわしかったので、ここはなにもせず通り過ぎるだけにした。


 ただマニとだけ目が合って、シャープールはその場を通り過ぎた。

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