第4話 〈父〉への啓示

 アフサはこの共同体の中でも明らかに異端だった。というのも、彼は望んでこの〈やし園〉に来たわけではなかったからだ。


 境遇としてはマニに近いものがある。当時マニは〈父〉によって母から引き剥がされ、強引に共同体へと連れ去られてきている。アフサも自分の父親に連れられて〈やし園〉へとやってきていた。二人とも自分の意思で〈やし園〉へと足を踏み入れたわけではなかったので、特にアフサはマニに対して親近感を覚えていた。


 しかしそんなマニとアフサでも大きく違うのが、その時の年齢だった。マニは当時四歳で、もう九年もこの共同体に身を置いているということになる。一方でアフサがこの村へ足を踏み入れたのは十歳という年齢になってからのことだった。今からおよそ二年前のことになる。


 つまり、アフサはマニとは違い、世界の造形をある程度知り得た状態で共同体での暮らしをはじめることになったのだ。さらには〈父〉の教えに自ら共感して自ら信者となった大人たちとも違い――あるいは思想を持つに至らない幼少のマニとも違い――そうではない状態で強制的に共同体での生活、教義、ルールを守らされる環境に置かれている。アフサにとってそれは理不尽以外のなにものでもなかった。


〝神から真理を受け取るためには――キリストの兄弟やエルカサイのような預言者となるためには――けがれなき清き心と身体を用意する必要がある〟


 だが、真理など知ったことか。


 人の心は明らかに汚れている。

 そしてそれは人間に深く刻みこまれた、決して洗い落とせない深い汚れだ。例えば、今まさにアフサを罵倒している〈父〉のどこに清い心があるというのだろうか。老いぼれでしわくちゃの身体のどこが清いというのだろうか。


「アフサ! 聞いているか!」


 長い白髭を弾ませて、〈父〉はさらに声を荒げた。


「神はすべてを見ておられる! お前のそのどうしようもないほどの醜い態度もだ!」


「五十年も修行を続けてようやく得られたものが、その罵倒ばとうですか」


 アフサは〈父〉の前で手を前に組んで堂々と立ち、そして若干あごを上げた。


「この世界に神なんていません。いたとしても、少なくとも全能なんかじゃない――なぜならその神とやらは、こんな僕の考え一つすら変える事ができないんです。大した奴じゃないですよ」


「無礼な口の利き方に気をつけろ! 神は気難しいお方なのだ! だからこそ我々は修行にあけくれている。神のお目にとまる準備を我々はしているのだ!」


「なるほど。ではそうやって怒ることも、また準備の一つですか。あれ、でもおかしいな。確か教義には安らかな心と言葉がなんとかと……」


「私はぜんぜん怒ってなどいない!!」


〈父〉は顔を真っ赤にしてアフサを指さした。


「教義の寛容さに感謝しろよ、アフサ! これが偽りのナザレ派であれば、お前の心は悪魔に支配されているとして火あぶりの刑となるところだ! だが、イエスもトマスも、人の醜さは認めておられる! そしてそれが更生可能だとも伝えておられるのだ!」


「ありがたいことです。言葉もありません」


 アフサが一礼する。その態度にさらに激高する〈父〉が大きく息を吸い込んだ時、その教会にマニが入ってきた。


「お呼びでしたでしょうか」


「祈りの時間に遅刻するとはなにごとだ! と言っておるのだ!」


 マニは丁寧に頭を下げる。「ちょうどメロンが一つ売れまして。その客となんやかんやと話をしているうちに、このような時間になってしまっていました。アフサも、足の悪い私を置いてさえいけば祈りの時間には間に合ったことでしょう。申し訳ないことをしました」


 そう言いながら、マニは〈父〉に気付かれないようこっそりアフサに目配めくばせした。そのアフサは〝お前は荷台で寝てただろ〟と言いたげだ。それを視線で牽制けんせいしたのだ。


 マニからの無言の圧を受けたアフサは、言葉を選びながら言った。「と……友達を置いていけるわけないだろ」


「お聞きになりましたか、〈父〉」ハッと目が覚めた口調になるマニ。「アフサは、祈りの時間に遅れたらどのようなことになるか知っていたはずです。けれど彼にはこのように自己犠牲の心があり、私を見捨てない選択をしました。これこそまさに、イエスやトマスが言う寛容の心ではないでしょうか」


 マニのその大人びた口調に、〈父〉が少しだけ気圧される。


「無論、人の心にはだれにでもそれが備わっている。それを曇らせるのは欲望だ。アフサは、不思議とマニに対しては純朴な真のナザレの使徒でいることができるようだ」


「私たちは未だ誰しもが未熟です。アフサが私以外の者に対して私に接する時と同じように振る舞うことができれば、彼はきっとエルカサイを継ぐ者となるでしょう」


〈父〉を見上げるマニの笑顔はどこか不敵だった。まるで会話がこれで終わることを悟っているかのような鋭さのある表情だ。そして実際に〈父〉は深呼吸をして頷いた。


「マニよ、その通りだ。アフサのこの態度がいつの日か改められる――その時こそが、アフサにとって修行を完了し啓示をたまわる瞬間といえよう」


〈父〉はマニの言葉に対し、さも以前から知っていたかのような口ぶりで答えた。そしてすぐさま、二人に背を向ける。自らの崩れた表情――マニに対する畏怖いふを見られるわけにはいかなかったからだ。


「二人とも、今日はもういい。これからも修行に励みなさい」


 背後でアフサがいち早く教会から外に出たのを感じる。マニは足のこともあり、ゆっくりと出口へと向かっているようだ。そんなマニに、ふと〈父〉は聞いてみた。


「マニ。お前は本当に十一歳の子供なのか?」


「いえ」


 悪意や皮肉とは一切無縁のその響きに、〈父〉は思わず振り向いた。そこには純粋無垢な、まだ背が小さく、あどけない、まっすぐな笑顔の少年がいた。


「明日、十二歳になります」


〈父〉は頷いて「誕生日には、水の洗礼を忘れないように」と指導者らしく伝えてから、再び背を向けた。丁寧な返事があってから、杖をつく音が移動して、マニが教会から出ていく。


 そして扉が閉まりきった音を聞いて、溜めていた息を大きく吐きだした。ようやく水面に顔を出せたかのようだ。


 自分は今、とんでもない子供を導いているのではないか――


〈父〉は教会奥の自室へと入り、馴染みの揺れ椅子に座る。

 そして、考えた。


 神は時に河を氾濫はんらんさせ、我々人類に試練を与えようとなさる。もしかしたら、それは人の知恵についても同じではないか――〈父〉はマニに対し危険な運命を感じずにはいられなかった。


 マニの父パーティクは、当時パルティア帝国だった国の主都クテシフォンにてナブーへ祈りを捧げる祭りの中で出会った男だ。あのような祭りは信者を増やすにはうってつけで、必ず一人や二人はその祭りの在り方に疑問を抱えている者がいる。パーティクもまさしくその一人だった。彼は、知恵の神であるナブーに対し真実を求めたが応えてもらえなかったと語った。


〈父〉は、そのパーティクを自分の教団へと誘った。彼は食い入るように〈父〉が語る真実についての言葉を聞き、彼が自分を家へ招いた時、出迎えてくれたその妻の身体には子が宿っていることを知った。子は貴重だ。外界のけがれとは無縁のまま、その人生を真の意味ですべて神に捧げることができる。


 四歳という年齢で母親から離れ共同体生活をはじめる子はマニの他にもいたが、その多くは彼の半分ほどの年齢で死んでいた。つまりマニは〈父〉にとっても共同体の中で特別な存在だったのだ。


 昔から本が好きな子だった。すでにナザレ派の教義については深く理解していて、排すべき多宗教についてもその悪たる所以ゆえんをよく学んでいる。他の大人などよりも遥かに豊富な知識を所持している優秀な信者だ。


「あぁ……! なんていうことだ!」


 唐突に〈父〉は確信に至った。

 そんなマニの存在について、〈父〉は神のお導きによる運命の出会いに違いないと理解していたところだ。〈父〉みずからパーティクを誘い、〈父〉みずからマニを迎え、〈父〉みずから教えを授けている――理由を挙げれば挙げるほどに、マニは自分が導いた選ばれし子であるということは疑いようがなかった。


 そして今、マニは〈父〉みずからの言葉を凌駕りょうがする言葉を獲得しようとしている。弟子が指導者に言葉を与えるなど、普通であればあってはならない。

 

 つまり――間違いない。

 神はマニの身をもちい、知の水の氾濫を起こそうとしているのだ。〈白装束〉という〈父〉が作り出した河から発生する知の氾濫――それはすなわち、新たな預言者の誕生だ。思わず〈父〉は拳に力を入れ、椅子の上で身を乗り出した。ぐわんぐわんと揺れ椅子が揺れる。


(だが……)


 不意に〈父〉の拳から力が抜ける。


(だが、この一抹の不安は――危惧にも似た焦燥感は――なんなのか……)


〈父〉は目をつむってゆっくり考えた。


(河からあふれ出すその知とは、果たして毒水か甘水か――つまりマニの存在がこの世に破滅をもたらすか救済をもたらすかは、彼の〈父〉である私に委ねられているのだ)


 正しい道を指し示すことができるのは自分しかいないのだ。これからマニは思春期を迎える。。肉欲は罠だ。この罠にちた者を神は軽蔑なさり、決して正しい知など与えない。そうして間違った知を得たマニの洪水は、このメソポタミアの地において毒の水となろう。


「神よ。私は選ばれし者ではなく、選ばれし者の知をたくわえる水瓶みずがめだったのですね」


 揺れ椅子の上でハッと目を覚ました〈父〉がそう天を仰ぎ膝をついた時、すでに夜は明け、窓からは朝日が差し込んでいた。どうやらあれからずっと眠っていたようだ。


 しかし同時に〈父〉はまた別の意味で目を覚ましていた。


 マニ、十二歳の誕生日の日。

 時にして二二九年、四月十四日のことだ。


 ユダヤ教ナザレエルカサイ派洗礼ムグタシラ教団の指導者である〈父〉――本名シタイオスは、この日、人知れず啓示を受け取った。


 そして同じ日の早朝、彼とは別の建物で一心不乱に書物を読みふけるマニもまた、のちに〝私の双子が天より降臨し、私と親しく言葉を交わした〟と語る体験をしていたのだ。

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