第1章 光の発見

第3話 やし園と信者

「いいかい、マニ。今日から君の〈父〉は私だ」


 ちょうど四歳になったころ、マニは〈白装束〉によって家族から引き剥がされ、この〈やし園〉という共同体に連れてこられていた。


 共同体に面する運河が運ぶ栄養は土の色を濃くし、木々や作物は力強くあっという間に育っていた。しかしその村には、日々の信者たちの清掃により草一つ生えていない。彼らはみな信心深く、熱心で、真面目だった。一様に真っ白のローブを身に纏い、髪の毛が長く、髭もじゃで――当時のマニからすると、誰もが同じような顔に見えた。


 その同じ顔の中の一人が、大衆から一歩前に出たマニと向かい合っている。彼はゆっくり手を伸ばすと、マニの頭に優しくそれを置いた。


「私は、この共同体に生きるすべての者の〈父〉だ。そしてこの共同体は、これから君が一生を過ごす場所になる」


 マニは、特に感情を持ち合わせていなかった。

 最後に見た母の姿が、四歳の少年に脳裏に未だ焼き付いている。取り乱しながら自分へ手を伸ばす彼女と、それをさえぎる〈白装束〉の男たち。


 マニの母はこの時まだ十七歳で、身体も小さく、マニをさらいにきた複数の男たちに抗えるはずもなかった。マニは男たちに身体を持ち上げられたが、これといって泣いたり暴れることはしなかった。もちろん、男たちへの恐怖はあったが、かといって、彼女に暴力や陵辱りょうじょくといったわざわいが降りかかるのを避けるため、マニは本能的に大人しくしていることを選んだのだ。


「マニ。君はこれからこの共同体で私の教えを実践しながら過ごすのだ。君は選ばれた子だ。特別な子だ。神から〈真理〉をたまわるべくして生まれた、祝福された人の子だ。悪しき火を捨て、清き水に触れ、洗礼者ヨハネとアダム、ナザレのイエスとトマス、そして預言者エルカサイへ祈りを捧げなさい。すべての欲を断ち切ることに専心すると誓いなさい」


〈父〉が言葉を終えると、マニの背後にいた大勢の信者が一斉に祈りの言葉を口にした。そして小さなマニの身体を持ち上げると、運河へ投げ入れた。運河の中には彼を待ち構える大人が一人いて、おぼれる身体を持ち上げると、三度にわたってマニを水の中へと沈めた。洗礼だ。


「今ここに、新たな子が誕生した! 真なるユダヤ教徒にして真なるナザレの使徒、マニ・ハイイェーだ!」


〈父〉が高らかにそう言うと、河岸の〈白装束〉全信者たちが大きな歓声をあげた。



「マニ。着いたぞ。……マニ!」


 アフサの声で、マニは荷台の上で目を覚ました。


「さてはお前、寝てたな?」


「全然?」


 あくびをしながら目を擦り、マニは身体をもちあげた。見慣れたヤシの木の群生――どうやら、我らが〈やし園〉に着いたようだった。


「絶対ウソだろ」と荷車をおろすアフサ。


〈白装束〉が真の宗教家たるべく修行を積む共同体〈やし園〉には、六十人ほどの信者が暮らしている。しかし今、その村には誰一人として姿がみえない。


 マニはすぐに、その理由を理解した。アフサももちろんわかっていただろうが、二人の行動は対照的だった。マニは荷車から下りて、野菜を売っていた時の絨毯を地面に広げると、通りの真ん中であるにもかかわらずそのうえでひざまずき、深くお辞儀をした。


 一方のアフサは荷車に寄りかかり、口笛を吹きながら空を眺めている。


〈父〉が定めた祈りの時間だったのだ。他の信者たちは、自宅や教会でマニと同じようにみすぼらしい絨毯の上で祈りを捧げているはずだ。


「なぁマニ」とアフサが聞く。


 祈りの時間に私語は厳禁であり、そもそも祈りとは信者にとって神をその身に感じる最も幸福な時間だ。例え話しかけても、本来は無視されるだろう。しかしアフサは続けた。


「この時間、お前はいつも何を考えて過ごしているんだ? まさかエルカサイに呼びかけているわけじゃないだろう?」


「もちろん」あっけらかんとした口調で答えるマニ。「おれにとってこれは〝おれの儀式〟であって、〈父〉や〈白装束〉、ましてや神や預言者のためにやってることじゃない」


「〝おれの儀式〟って?」


「未来を空想してる」


「未来?」暇そうにあくびをするアフサ。「じゃあもしかして、君はこの国をアルデシールが統治するということを見抜いていたんだ?」


 マニは絨毯に頭を落とし続けている。「そういう未来とは違うかなぁ。なんていうか、個人の動きを追うんじゃなくて、世界の歴史の未来を見据えているんだよ。これから人類がどういう風な歴史をつくり、どういう間違いをおかし、それでもどうやって文明を育てていくのか――そして自分はそれに対してなにができるだろうって、いつも考えてる」


「でもそんなの、そんな地面に這いつくばらなくてもできるじゃないか」


「そりゃね。でも同時に、これが肝心なんだよ。なぜって、もしこれをしないとした場合の未来は目に見えているだろ? というのも、君はこのあと〈父〉に大目玉を食らうことになる。その無益な時間を、おれはこれによって回避してるってわけさ」


「無益だな。本当に無益だ。〈父〉にもそれを言ってやってくれよ」


「確固たる信念があるから、おれがなにを言っても無駄じゃないかな。〈父〉だけじゃなく、君も含めてね」


 怪訝けげんな顔をしていたアフサだったが、マニが最後に付け加えた一言にはうれしそうに頷いた。


「それをわかってくれるのはマニだけだ。もちろん僕にだって信念がある。そして自分の信念を曲げるくらいなら、どんな罰だって受けてやるつもりだ」


「うん。みんなそうさ」


 村のどこかで太い貝の笛音が響き、それを合図に、あちこちの建物から白い衣服を纏った〈白装束〉の信者たちが伸びをしながら外へと出てくる。みな、髪と髭を伸ばしっぱなしの男たちだ。一般的にはだらしのない身だしなみだが、この共同体では神への祈りの成果とみなされている。


 顔のほとんどが髪の毛と髭により覆われているため、基本的に彼らの見分けをつけるのは難しい。その中でも割と見分けられる親しい大人が、二人の元へと駆け寄ってきた。


「マニ! アフサ!」


 叱咤しったの口調というよりは、単純に慌てている風だ。


「お前たち、また時間通りに戻って来なかったな! 私があれだけ忠告していたというのに!」


 彼はパーティクといった。共同体の中でも目立って信心深く、当然ながら口元は髭もじゃで、腰まで伸びる髪はオールバックで耳よりも後ろから流されている。アフサは彼のことを影で〝おしゃべりパーティク〟と呼んでいた。


 パーティクは自称、パルティアの貴族であり戦士の家系に生まれたそうだ。過去には妻もいて、彼女はカムサラガンという王族の家系にあった。パーティクが十七歳、彼女マリアムが十三歳の時に結婚したが、それまでには壮絶な恋愛劇があったのだという。


 彼は元々、古来からカルデア土着の宗教であったメソポタミアの知恵の神ナブーを崇拝していたが、〈父〉と出会い、世界の真理を求めて十二年前にこの共同体〈やし園〉へとやってきたらしい。そしてその時に妻と家と身分と故郷マルディヌを捨ててきたのだ。


 現在パーティクは三十歳になる。マニやアフサにとっては兄のような存在であり、彼自身もそう振る舞おうとしている風があった。


 アフサは、息切らす彼を無言で見つめていた。自分が何か言ってはマニが迷惑するということがわかっていたからだ。またパーティクもアフサから説明を受けようととは思っていないようだった。どうせロクな返答は望めない。一方のマニは先程とは打って変わって無言で頭を地面につけている――まるで本当に祈りを捧げているとでもいったように。


 その顔があがるまで、パーティクは待っていた。仲間の祈りをさえぎるなど、それ以上の冒涜ぼうとくはないからだ。


「お待たせしました」と、爽やかな笑顔で顔を上げるマニ。「僕の足が悪いのを気遣ってアフサが歩くのを遅らせたので、祈りの時間に間に合わなかったのです」


 他人行儀の丁寧な口調だった。


「もちろんおれはそんな事だろうとは思っていたが……」パーティクは狼狽ろうばいした様子で言う。「〈父〉はカンカンだぞ。説明を求めてる」


「すぐに伺います」立ち上がったマニは絨毯をまとめ杖を右手に持ち、荷車に回り込む。「アフサ。悪いけど先に行っててくれないか。おれもすぐに行くからさ」


「その方がいいよな」


 頷いたアフサは、特に緊張する様子もなく飄々ひょうひょうと教会へと向かった。どうせ彼と〈父〉は言い合いになるのだ。先に〈父〉とマニが話してから後半で彼と言い合いになるよりも、言い合っている中にマニが入っていった方が〈父〉の感情が収まりやすいことを二人は知っていた。


 だが今回に限りマニにとってそれは、アフサをこの場から追い払うための口実でしかなかった。教会へ向かうアフサの背を見て、ふぅ……と安堵する。そして野菜の山の中から、禁断のアリストテレスの書を引き抜いた。保存状態は良好だ。


「書物を持ち出していたのか?」


「はい。まだ読みかけなので、寝床に置いたらすぐに〈父〉のもとへ向かいます」


「お前は本当に読書が好きなんだな」


 行きの荷物を知らないパーティクはそう解釈してくれる。これがアフサだったら〝出る時はそんなもの持ってなかったのに、いつそんなものを手に入れたんだ?〟となってしまうだろう。祈りの時間に遅れたための説教は勘弁だが、おかげで今日の夜には問題なくこの中身を読むことができそうだ。


「野菜はおれが片付けておくから」とパーティクが申し出てくれる。「早く〈父〉のところへ行ってやってくれないか。アフサの相手をして、〈父〉が怒りで気絶してしまう前に」


 マニは笑って了承した。書を持って杖をつき、パーティクに背を向けると、不器用に歩みをすすめはじめた。そのマニの様子を、パーティクは愛おしそうにしながらしばらく見つめていた。


(マリアム。お前の子は――おれたちの子は、明日、立派に十二歳の誕生日を迎えるぞ。おれたちなんかよりもとんでもなく頭のいい子だ)


 パーティクが真理を求めたために捨ててきたものはあまりに罪深く、そして取り返しがつかないものだった。マリアムは夫を失い、そして子供までをも失ったのだ。〈父〉が彼女からマニを奪うその瞬間、パーティクはくちびるを噛み締めてその場に居合わせていた。


 そんなマニの背を見る成長の日々が、パーティクにとってはかけがえのない愛おしいものであることは確かだ。


 しかしそのたびに、それを妻から奪い自分だけが享受しているという罪悪感に、心が押しつぶされそうになるのだった。

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