第2話 異端の二人

「これをおれにくれるの?」


「欲しければね。ウチにはそれ、腐るほどあるし、アラム語でも併記してるから、ギリシア語の勉強にもなると思うよ」


「エウラリア」彼女の後ろからひげの男性が心配そうに顔を覗かせる。「これはあまり外に出したらだめだ」


 男は、道行く人の中でも特に白いローブの姿を探しているようだ。ゾロアスター教団もマニの〈父〉同様、書物の扱いには慎重だった。


「大丈夫だよ、パパ。だってこの子、人畜無害なへんたい集団〈白装束〉の人だよ?」


「それはそうかもしれないが……」


(そこは否定してほしいな)と薄っすら笑うマニ。


「それよりもお前、どこでそんな汚い言葉を……!」


 エウラリアは父親を無視してマニの正面でしゃがむと、グッと顔を近づけた。


「いい? これは単純な物々交換じゃないんだからね。私はメロンをタダでもらう。そしてあなたは、この書物をタダで私からもらうの。それはつまり、あなたの理論を使うなら、あなたにとってこの書物は本当に必要なものだということ」


 彼女の言葉は、マニが受け取った書物にたいへんな重みを与えた。両手で支えなければ落としてしまいそうほどのズシリとした質量を確かに感じる。


「じゃ、そういうわけで。また会えるといいね。へ・ん・た・い・さ・ん」


 手を振って去っていくエウラリアとその父親。よくみると、彼らは同じような巻物型の書物を沢山その身に下げていた。書物屋さんだろうか――しかし禁書に近い書物を扱っていては某教団がいい顔をするはずもなく、きっと数々の嫌がらせの果てに、まともな商売などさせてもらえなくなるだろう。


 そもそも、アリストテレスの書物自体がかなり高価な代物だ。それを〝腐るほどある〟というあの親子。かといって、特別お金持ちというわけでもなさそうだ。


 一体、何者なのだろうか。


 もっと色々と話を聞いてみたいところだが、残念ながらこんな路上での出会いだ。きっともう二度と会うことはないだろう。


(でもやっぱり、また会いたいって思っちゃうよなぁ……!)


 マニはむず痒い気持ちを堪えながら、がんばって諦めるために拳を握りしめる。


(念願のアリストテレスの書が手に入ったんだ。これ以上の奇跡を期待したらダメだよな)


 握りしめた書物をみつめ、心の整理をつけていく。ドキドキとした胸の高鳴りは、きっとこれを手に入れたことによるものだろう。果たしてアリストテレスは、この中でなにを語っているのだろうか――


 わくわくしながら巻物の紐を緩めようとしたところで、遠くからやってくる同じ〈白装束〉の仲間の姿が目に入った。


「おーい、マニー! 帰ろうぜー!」


 荷車を引いた友人アフサが、大きく手を振りながらこちらへと向かってきていた。そろそろ共同体に戻る頃だったのだ。


 マニも手を振り返し、そして杖を持って立ち上がる。


 マニは生まれつき右足が悪かった。慣れ親しんだ杖は手の甲にぴったりと合う形になっていて、腕を真っすぐにしてそれを押さえつければちょうど地面に接する長さに調整されている。


 荷車をとめたアフサはマニより一回り身体が大きく、腕の太さなどは二倍も三倍もありそうだ。


「野菜は売れたかよ?」


「そっちは?」


「ぜんッぜん、ダメ」


「こっちもダメだった。ようやくメロンが一つ売れたくらいだよ」


「そうなのか? それにしてはなんか顔がにやけてるようにみえるけど」


 アフサは重い野菜をマニの代わりに荷車に移しながら聞く。


「いや……」と、マニは身体の後ろに隠した書物について彼に言うべきか迷っていた。


 アフサがマニを裏切ることはないだろう。むしろ彼は〈白装束〉や〈父〉にとって鬱陶うっとうしい存在だった。教義に対し、とにかく反抗的なのだ。そのためマニが書物のことを伝えてもきっと彼は面白がるだけで、〈父〉や他の信者に告げ口することはないはずだ。


 ただ、それでも気をつけなければいけないことがある。それは、彼がうっかり屋だということだ。


 もしマニがアリストテレスの書物を手に入れたと知ろうものなら、彼がなにかしら〈父〉から説教をうけている最中に「でもマニだって――」と口走りかねない。もちろんアフサに悪気はないにしても、〈父〉はその言葉を決して聞き逃さないだろう。


 マニはぎこちない様子でアフサに背を見せないよう荷車の反対側へと回り込み、その書物を野菜の隙間に隠し込んだ。


「マニ? なにしてるんだ?」


「別になにも! さぁ、さっさと帰ろうぜ」


 そう言うと、マニもまた荷車に飛び乗った。硬い野菜に身を預けて寝転ぶと、青い空が一望できる。


「おい。僕はお前の従者じゃないぞ」


 文句を言いながらも荷台を持ち上げ、ゆっくり荷車を引きはじめるアフサ。車輪が回る振動が、心地のいい響きとなって身体に伝わってくる。


「なぁアフサ。どう思う? 今日のこの清々しい天気は、神からの授かりものだと思うかい?」


「神なんてクソ喰らえさ。天気はただそこにあるだけだよ」


「それはそうかもしれないけどさ」裏表なく正直なところは彼のいいところだ。「でも、他の人たちは君と同じようには思わないよ」


「わかってるよ。もちろんわかってる。けどそれは、僕が今の時代に適していないからなんだ。まぁそれもまた、ただそれだけのことなんだけど。……でもね、マニ」


 荷車を引くアフサも、どこか遠くの空を眺めながら言う。


「もし明日の天気も晴れだっていうならさ――君はきっとなにかから祝福されているんだろうなと僕は思うだろうぜ。なぜって、神は信じていなくても、特別な人ならいるって思ってるからね。つまり、マニ。僕は神なんかよりも君のことを信じているってわけなのさ。そして明日は君が十二歳になる誕生日だろう? きっとなにかいいことが起こる気がするんだ」


「おれが特別だって? もしおれの足のことを言ってんなら、もうおれたちの友情はここまでだな」


「足のことなんか知らないよ。でもほら、キリストもちょうど十二歳でなんかあったっていうし」


 啓示の話だろう。

 神の声を聞くというアレだ。


「もちろん、そんな大それたことじゃなくてもいいんだぜ。空が晴れるとか、いつもより野菜が売れたとか、そんな些細なことでいいんだよ。兎にも角にも、君はなにかを持って、、、いる――僕がそう信じられるなにかが起こればそれでいいのさ」


 なぜかはわからないが、そしていつからからわからないが、アフサは無条件にマニを慕っていた。友情や愛情とは違う何かを、彼はマニに対して持っているのだ。


「そうか……。残念だな」とマニは言った。「実は、特別なことは、明日じゃなくて今日あったんだ」


「そうかい。じゃあそれ以上のことが明日起こるんじゃないかな」


「……女の子としゃべった」


 それを聞いたアフサは足を止め、途端に荷車から手を滑らせた。ガタンと荷台が揺れ、マニはかぼちゃに頭をぶつけた。


「痛ッ……たいな!」頭をおさえるマニ。


「女の子だと! 本当かマニ!」


「本当だよ……ッ」


「しゃべっただと!」


「しゃべったよ……ッ」


「そして明日は……君の誕生日だ……」


「……だからなんだよ」


「しゃべる以上のことが、女の子と起こるかもしれない……」


 ゴクリと生唾を飲み込み、顔を赤らめるアフサ。


「女の子と……しゃべる以上のこと……」


 それを聞いたマニは、思わずエウラリアの姿を思い浮かべた。ローマに暮らす人々のように透き通った白い肌。黒くてサラサラとした長い髪。そんな彼女が、自分に近づいて来て……


「な、なぁマニ。その子、……い、いい匂いだったか?」


 アフサのブサイクな聞き方に、マニは束の間の妄想の世界から戻ってきた。気付けば目の前に、顔を赤くした、汗だくの、鼻息が荒い、小汚い男の顔がある。


「近い近い!」と、マニはアフサを引き剥がした。「そんなことに夢中になってるから、おれらは外の奴らに〝へんたい〟とか言われるんだよ!」


 でも言われてみれば、どこか心が落ち着くような――いつものざらざらした世界から隔絶されたような、やわらかく不思議な空間があったことは確かだ。もしかしてあれが、女の子の匂い――


「ちぇっ。マニばっかりいい思いしやがって。明日、なにか最悪なことが起こればいいのに」


 アフサがまた荷車を引きはじめたので、マニもまた野菜の上に横になった。


(誕生日ねぇ……)


 ガタガタと荷台が揺れ、野菜や身体が小刻みに跳ねている。共同体につくまでに、小一時間はかかるだろう。それまでマニは、少しだけ目をつむって過ごす事にした。


(本当に特別なことが起これば、そりゃうれしいけどさ)


 なんてこと思いながら。

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