第8話 早すぎた偉人たち

 首都クテシフォンにほど近いこのダストマイサーン村で暮らす人々は、そのほとんどが見栄っ張りだった。そして生活が豊かであればあるほど、どうやら強く見栄を張りたくなるらしい。


 そんな彼らが写本手伝いの合間に野菜を売っているマニとアフサを見つけると、一人また一人と足を止めて、興味深い表情で寄ってくる。やがてそれは人だかりになり、その群れが大きくなれば大きくなるほど野菜は飛ぶように売れていくのだ。


 理由は単純だった。

 彼らは野菜が必要だったから買うのではなく――またはマニやアフサのためを思い身銭を切って買ったわけでもない。


 それは彼らが、自分がいかに高値で野菜を買ったか――そしてそれによって自分がいかにこの惨めな野菜売りの懐を潤したのかということを自慢するためのものだった。


 つまり、彼らは野菜が必要なのではなく、野菜を買う自分の姿を他者に見せることを必要としていたのだ。帰りの荷車はいつもすっからかんになった。



「最近すげぇな、お前たち」と、朝食の時間にパーティクが声をかけてくる。「毎日毎日、二人とも野菜が完売だ。なにかズルでもしてるんじゃないかって心配になってくるぜ」


「別に疑ってくれてもいいけどさ」アフサが野菜を頬張りながら胸を張った。「じゃあその売り上げのお金は一体どこから出てきてるんだろうね。不思議だね」


「悪かったな。冗談だよ」


 その様子を〈父〉もテーブル中央で聞いていたが、目をつむり黙々と野菜を食べている。


 この日もマニとアフサはすぐに野菜売りに出発し、エウラの村で写本作業の手伝いをした。


「ん。今日もマニはアルキメデス?」


「うん」すでにギリシア語を充分理解できるようになっていたマニはサラサラと筆を走らせ、そこに描かれる数式に感動していた。「まるで世の中すべてが数式で形作られているみたいで圧倒されてるよ……」


 数ある書物の中でもアルキメデスは確実に別格だった。すべての物質に存在する〈比重〉を発見し、それによってさらに〈浮力〉を発見したり、物の重心がかかる際の力をうまく扱うことで、小さな力で大きなものを動かす〈てこ〉を発見したり――なによりそれらの理論を活用し、シラクサというシチリアの都市を防衛していたのだというから凄まじい。


 自然の中に埋め込まれた知恵を見出しそれを活用することで、たった一人の知識がローマ人の屈強な兵士たちを蹴散らしたのだ。


 アルキメデスの書物は読むだけでかなりの思考力が削られるためすぐに疲労してしまうのだが、それをいとわず理解するだけの価値は十分にあった。


 とりわけマニは、彼が算出を試みていた円周率にときめいた。どうやらいにしえのアレクサンドリアの学者たちは円の完全さに魅了されていたようで、〝円は奇跡である〟という記述が、アルキメデスをはじめとするあらゆる学者のあらゆる書物の中から散見されている。そして彼は、その正体を暴こうとしていたのだ。


 マニは、手に持った筆を持ち上げ、ふっとそれを離してみた。筆は真っすぐ落下して、床にぶつかって軽くはねた。その軌道は直線だ。一方の太陽や月や星など天で動くものは、円を描いているために地面には落ちない――プトレマイオスの通説だ。車輪をはじめとした円の動き、つまり回転は、人類に与えられた知恵の中でもかなり強力な原理であり、これは人類に与えられたある種の恵みなのかもしれない。


 そのことをエウラに話すと、彼女はいつものちょっと意地悪そうな笑みを浮かべながら、いくつかの書物を渡してくれた。


「そんなキミにはヘロンとアリスタルコスを授けよう」


 いずれも聞いたことのない、しかし二人ともれっきとしたアレクサンドリアの学者だった。エウラのあの笑みが気になる……そう思いながらもマニが写本作業を進めていくと、次第にその理由がわかってきた。


 難解さ自体はアルキメデスを超えるものではない。けれどこの二人は、ある意味で難解な――どう考えたらそう思い至れるのかわからない、常軌を逸した発想を持ち合わせていたのだ。


 二人とも、どうやら円の研究者だ。そしてヘロンは発明家、アリスタルコスは天文学者だった。ヘロンは、水を熱すれば蒸気になるという法則を利用した回転機械を発明し、その設計図をしたためている。またアリスタルコスは、空の太陽や月や星がなぜ円を描いているのかをまとめ、なんとあのアリストテレスの説――天動説――を真っ向から否定していたのだ。


「さて。マニくん。きみにこの二人のすごさがわかるかな?」


「わかるもなにも……!」


 もしヘロンが書物に描いた回転機械をうまく応用して荷車に搭載することができれば、車はその〈蒸気機関〉によって人の力なしに車輪を回すことが可能になる〔※蒸気機関の再発見による産業革命はヘロンの発見から二千年後の十八世紀にようやく起こる〕。


(この発明が陽の目を浴びれば……!)


 自動荷車が、長閑のどかな農道を行き来する光景をマニは思い浮かべてみた。重たい野菜も鉄鉱石も人間も、そのすべてを〈蒸気機関〉が積んだ荷車が楽々運んでくれる未来がみえる。もしこれが実現すれば、人類の歴史は確実に次の段階へと進むことになる。けれど、マニが今まで彼のことを知らなかったように、ヘロンの存在や発明は歴史の中に埋もれたまま誰にも見向きもされずにアレクサンドリアの図書館で眠っていた。


 つまり、当時の文明レベルではその重要度を理解することができなかったというわけだ。では、今の時代であれば理解されるだろうか? ……マニは首を振った。


 思い浮かべていた光景――長閑な農道の果てから、真っ赤な房飾りを揺らす甲冑兵たちがやってくる。彼らが乗っているのは、野を荒らし道を削る鋼鉄の自動戦車だ。かつては馬が引いていたそれも、自動化によって戦場で多くの人の命を奪う凶悪な兵器となることだろう。ペルシアの軍隊も同じ戦車で対抗し、その戦争は今までにない殺戮を引き起こすのだ。


(まだおれたちの心は、その科学を扱えるほど成熟していないのかもしれないな)


 一方のアリスタルコスも、早すぎる発見をしていた人物の一人だった。彼は天文学者として〝地球は太陽を中心に動いている〟というかなり異質な持論を展開していて、書物は図と文章による解説論文になっている。


 奇跡たる円には、必ず中心点が存在する。特にそれが円周運動によって描かれているものの場合、ヘロンの球体のようにその物体の重心となるべき〝真ん中〟が必要になってくる。星で言えばアリストテレスから唱えられ続けている〝天動説〟によって、地球こそが星々の〝真ん中〟だと考えられている。


 しかし天動説には矛盾があることを、アリスタルコスは書物の中で語っていた。


 はじめ、アリスタルコスもアリストテレスの天動説を支持し疑いもせず天体観測をしていたそうだ。けれど星々の動きを記録していくうちに、天動説ではどうしても一部の天体だけ周転円軌道を二重に描いていなければ説明できない動きをしていることに気付いた。該当するのは、水星・金星・火星・土星・木星だった。


 これらの天体は地球を中心にまわる一つ目の円周軌道に加え、さらにその軌道上でぐるぐるまわる二つ目の周転円軌道――円の上でさらに円を描く二重の軌道――をもっていなければ、実際の星空の観測結果と計算が一致しないことを発見したのだ。ところが、この二つ目の円周軌道の中心点になるべき物体をみつけることはできなかった。


 これを不思議に思ったアリスタルコスは、最終的に〝地動説〟に辿り着いた〔※同説はこの十八世紀後にコペルニクスが再発見し数式化する〕。もし太陽が中心となっていれば、地球を含めたこれらの星はシンプルな軌道を描くことになる。これらはそれぞれ地軸を中心に自転をしていて、月は地球を中心に周転円を描いているので、円の理論としても完璧だった。


 しかし彼のこの主張は、マニが生まれる百年ほど前にプトレマイオスという――やはりアレクサンドリアの天文学者によって否定され、天動説はより強固なものとして世界に伝えられてしまっていた。


 この地上が世界の中心であるというアリストテレス率いるギリシア的な自然思想や、我こそが世界の中心なりというローマ的陶酔が、アリスタルコスの地動説を図書館の奥底にしまいこんでしまっていたのだ。


 もし多くの宗教家たちが、この宇宙では星ではなく地球が動いているのだと知ったらどのような顔をするだろう。そしてそんなことを提唱した人は、その人たちによってどのような目にあわされるのだろう――


 宗教裁判の席で間違いを認めろと詰め寄られ、〝それでも地球は動いている〟と主張し有罪を告げられる未来の科学者が目に浮かぶかのようだ。


(今の時代の人たちが科学によって真実を解き明かしていくという段階は、まだ時期尚早か……)


 都合が悪いというだけで真実か否定される未来なんてきてほしくないな。

 頬杖を付きながら空を見上げるマニのもとに、今日も野菜を買いたい人々が集まってくる。いよいよ慣れ親しんだいつもの光景と呼べるものになってきている。しかし今日はその光景の中に、見慣れない一人の金髪少年の顔があった。


みつけたユーリカ


 少年はマニの前でしゃがみ、不敵な笑みで顔を見つめながら言う。金髪ではあるのだが、その顔立ちはどうみてもペルシア人の骨格だ。髪の根元には黒い層があり、つまり彼の髪は脱色されたものなのだろう。――髪の毛の脱色技術。過去にギリシア人に憧れた地中海の東側付近の人々が生み出した美容技術だ。


「君が異端の野菜売りだね?」


 爽やかにニッと笑う表情はどこか女性的だ。透き通るブルーの瞳に、マニは見覚えがあった。


「なんだよ?」隣にいたアフサが喧嘩口調で問いかける。「僕たちは野菜を売ってるだけだぜ。もしこの場で異端がどうこうって話をするつもりなら筋違いだ。この国を統治されている王の王アルデシール様は、あらゆる宗教に対して寛容であらせられる。つまりだな、異端を理由に僕たちから自由を奪おうってんなら、それは王の王に逆らうことと同義なんだぜ。覚悟しろよ」


 実はマニとアフサは、これまでもたびたびゾロアスター教の信者に絡まれることがあった。その中で彼らをやりすごすために試行錯誤された呪文が、今アフサが口にしたそれというわけだ。


「あーー。なるほどね」と少年は笑う。「でもは、世間から言われているほど寛容じゃないんだよな。預言師だらけのメソポタニアの地においては、特にね」


「父君?」


 必殺の言葉に思わぬ返しを食らい、ぽかんとするアフサ。一方のマニは、はじめからこの少年が何者なのかを知っていた。エウラと再会する前に、街道ですれ違ったゾロアスター教の一団――その最もくらいの高い場所に、彼はいたのだ。


 シャープール。

 間違いない。この少年はシャープールという名もなき名を持つ王子であることをマニは確信し、思わず身を乗り出した。


「おっと、待った」と、少年はマニを制止し口に人差し指を当てる。「その名を口にしないでくれないか。騒ぎになってしまう」


 それもそうだろう。とはいえ、その金髪は相当に目立ってはいるが。


 野菜を買いに来ている群衆は、彼がシャープールであるとは気付いていないようだった。ギリシア人に憧れる、どこぞのボンボン息子とでも思っているのかもしれない。


「……このようなみすぼらしい私たちに、どのようなご用件で?」とマニは聞いてみた。


「話をしたいと思って探してたんだ」


「私たちと?」


「いや。〝砂の文字〟の書き手と」


 マニの顔をジッと眺めて、そしてなにかを見計らってからニッと笑うシャープール。


「どうもこの国にはさ、書物が足りないような気がするんだよね」


 という言葉を皮切りに、シャープールは一気に語り出す。


「というのも、僕は書物が好きなんだよ。だから僕のこの地位を利用してアレクサンドリアとかに行ったりしながら、ゆっくりとだけどこの国にあらゆる書物を広げようとしているんだ。もちろん、ただ好きだから広めたいってんじゃないんだぜ。さっきも言ったけど、この地域には預言師や占い師や星術師ばっかりだろ? 僕の父君も嫌気がさしているくらいだ。でも、将来ペルシアは僕の国になる。そんな土地で父君に迫害なんてしてほしくないんだよ。ましてや血なんかで汚してほしくないんだ。だから、なんとかして僕はこの地域に書物を広めたいと思っている。そして叡智フィロソフィーを広めて、他者を尊重し多様性を受け入れられる頭のいい国を作りたいと考えているんだ」


 キラキラと青い瞳を輝かせるシャープールだったが、エウラの無邪気さとは少しだけ異なる野心的な深さを持った――しかしそれはそれで魅力的な煌めきだった。

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