第15話上司と天使

悪魔が消えて、時が動き出す。

眼前の課長が、唾液を撒き散らさんばかりの勢いで、喚くのが聞こえる。

もう面倒なので、言葉の意味は理解しない。

ああ、何か言ってるな、というだけ。

周囲の視線も感じる。


かわいそうに、

若いの楯突くから、

ターゲットにされたな、

えとせとら。


まあいい、決心は先の時間停止中についた。

呼吸を整える。

しっかり吐いて、

長めに吸う。


体中に酸素を行き渡らせ、

重心を安定させ、

腰を少し回転、

腕をテイクバックーー


「お待ちなさい」


閃光とともに、厳かな声。

だが、悪魔と同じ声質、つまりは俺のだ。

時間停止が発動したのか、課長含め俺以外の人間の動きが止まる。


無音の空間に、俺と謎の白いのが残される。


「暴力では何も解決しません」


そいつは、開口一番綺麗事を抜かした。

白いローブ、

悟りきったような『無』を体現した表情。

やっぱりだったが、俺の顔をしている。

ーー昔、自分の顔が増殖する映画があったな。

最後、どうなったっけ?

ドッペルゲンガーみたいなもの、

あれは会うと殺し合って死ぬんだっけ?

まあ、悪魔のあいつとはうまくやれていると思うし、天使っぽい姿のこいつともそれなりにやってけるだろう。


「ここであなたが拳をふるえば、一時は状況が動くでしょう」


まあ、そうだろうな。

良きにしろ、

悪きにしろ。

殴った相手と同じように接することができる人間なんていない。

それこそ、天使もどきの聖人くらいだろう。

表面は取り繕うだろうが、内心は怯えか恨み、その両方で満ちる。

それが人間というものだ。


「そこまでわかっていて、なぜ拳を使うのですか」


天使の問いに心中で答える。

それは、前に進めないからだ、と。

それは、言葉が通じないからだ、と。


「でも、ほかの方法はなかったのですか?まだこの拳は、この俗物の顔面に達してはおりません。まだ間に合います」


ぴたりと天使は課長の額に手をおく。

そして、ゆっくりと疑惑の頭皮、その境へと動かす。


「例えば、この拳の角度をもう少しずらすというのはどうでしょうか?」


ずらす?


「そうです。ずらして、拳の軌道を変えて、直撃ではなくかすめるです。そして、疑惑を白日の下に晒すのです」


ああ、なるほど。

拳を振るえば暴力だが、

拳をかすめるのは暴力ではない。

ただの威嚇だ。

寸止めに近い。

たとえ、たまたま何かをひっかけてしまっても、それは事故でしかない。

だって俺は知らないことになっている。

正しくは、本人以外、だが。


「では、私はこれで」


天使は軽く会釈をしてうっすらと消えていく。

時間停止も解除され、俺の拳が唸った。

いい感じに、掠めた。

さらっと、

すらっと、

がしゃり、と。


「課長、すみません」


突然の装備解除、

時代遅れの課長、

頭の基本装備解除の課長。


これは、暴力ではない。

だが、物理よりも遥かに重い、精神的ダメージ。

羞恥心、

視線のナイフ。


むき出しの、二重の意味での不毛地帯。

宙を舞う疑惑の象徴。


「嘘つきの言葉には、耳が遠いらしくて」


シニカルに笑って、言った。

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