第12話 ロード・トゥ・パーディション④

 日付をとうに越えた真夜中過ぎ。帰宅した(させられた)あたしは自室に入るなり着慣れないドレスを脱ぎ捨て、ひとまずシャワーを浴びた。身体の汚れを落とすと、リビングのテーブル席でサンディの帰りをひたすら待ち続けた。木製の丸い壁時計の秒針の音が静寂に包まれる室内でやけに煩く響き渡る。


 サンディがいつ帰ってくるのか分からないから、一晩起きて待っていよう。

 そう心に強く決めていたのに。


 情けない事にあたしは、いつの間にかテーブルに座ったまま眠ってしまっていた。気付くと締め切った遮光カーテンの隙間からは明るい陽光が差し込んでいた。

 あたしは目を覚ますと慌ててテーブルから顔を上げ、壁時計に視線を移して時間を確認する。先端がスペードに形作られた黒い秒針は、午前六時十五分を指している。


「……サンディ……」


 よろよろと椅子を引きずって立ち上がり、リビング全体を見渡してみる。


「……サンディ、いないの??……」


 母を探し求める子供みたいな気分に陥りながら、あたしはリビングの他に、キッチン、玄関、トイレや洗面所、バスルーム、客室など一階を一通り見て回ると、今度は階段を上がり、サンディやあたしの部屋を含めて部屋という部屋を開け放してサンディを探す。けれど、サンディの姿はこの家のどこにも見当たらない――

 途方に暮れる余り、サンディの部屋の前で崩れ落ちるように座り込んだあたしの耳に、喧しく排気音を立てて走行する車が、家の近くを通りがかる音が確かに届く。


 もしかしたら……、と、淡い期待が胸に持ち上がる。

 車は家の手前で止まり――、程なくして玄関から鍵を外す音が――、あたしは転がるように階段を駆け下りていき、玄関まで急いだ。


「サンディ、お帰り……」


 玄関には、パーティーに着ていったドレスではなく、ゆったりとしたジャージー素材のワンピース姿で佇むサンディの姿が。

 昨晩、サンディが何処で誰と過ごしていたのかはこの際頭の中から放り出し、あたしは彼女が帰って来てくれたことに喜びと安堵で胸が一杯になっていた。サンディは笑顔であたしの出迎えを受けてくれたが、その微笑みはどこか疲れて気だるげだった。


「ただいま、フラン」


 サンディはさりげなく視線を逸らしながら、あたしの横をすり抜けて階段を上がっていく。先程の笑顔といい、いつになく素っ気ない態度といい、サンディへの違和感は膨らむ一方だ。

 たちまち不安に駆られたあたしは、しばらく玄関先で立ち尽くして考えた末、サンディの後を追って再び二階へ上がり、部屋の扉を叩いた。


「サンディ、ちょっと部屋に入ってもいいかい??」


 数秒の沈黙の後、「……どうぞ……」と妙にくぐもった声で返事が返ってくる。


「じゃ、入るよ……。……って、サンディ……、あんた、何してんのさ……」


 サンディは、机、ベッドの上、床など、部屋の至る所に大量の衣類を拡げ、トランクの中に次々と詰め込んでいたのだ。

 閉口するあたしに向かって、荷物を纏めていたサンディは気まずそうに上目遣いであたしを見上げ、信じられない言葉を告げてきた。


「あのね……、あたし……。今日からダグラスで、ロイと一緒に暮らすことにしたの……」

「…………は??…………サンディ、もう一度、言ってくれない??」

 実は、あたしが盛大な聞き間違いをしただけだと思いたくて、あたしは再びサンディに尋ねる。

「だから……、この家を出て、ロイと一緒にダグラスで一緒に暮らすことになったの」

「ごめん、あたしにはサンディの言っている意味が分かんない。もう一度……」

「何度も言わせないで。ロイと一緒に暮らすから、この家を出て行くことにしたの!」

「…………」


 あたし、頭が悪いからさ、あんたの言っている言葉を理解できない…… 否、理解なんか、これっぽっちもしたくないんだ――


「とりあえず……、今は簡単な荷物を纏めに帰って来ただけで……。ロイと泊まっているホテルからここまでタクシーを飛ばして来たの」

「あいつ……、ロイ、さん、も、来ているの……??」

 サンディは、俯きがちに小さな頭をゆっくりと横に振る。

「……ううん。ロイは、まだホテルで眠っているわ。ここには、あたし一人で来ただけ。でも、外にタクシーを待たせているから、あんまり長居も出来ないの。詳しい話はまた今度ゆっくりするから……」

「…………」

「ごめんね、フラン」

「…………」


 駄目だよ、サンディ。

 例え、あんたとあいつが一目で激しい恋に落ちていたとしても、所詮は道ならぬ関係でしかないんだよ??

 あんた達の仲が世間に知れ渡ってしまったら……、あいつはともかくとして、あんたが後ろ指差されることになるんだよ??

 あいつの妻の地位や、相当激しいであろう気性からして、もしかしたら二度と日の目が見られない、日陰の人生を送る羽目になってしまうかもしれないよ??


 それに、あいつは――


 虫の一匹も殺せない、か弱そうな顔をしておいて、小説を書くためなら平気で人の気持ちも人生も滅茶苦茶に蹂躙するような、頭のイカれた危険人物なんだ!

 あんたに対してだって、今は良くても後々何をしでかすかわかったもんじゃない!!


 だから、あいつは――、あいつだけは――



 ――こんなの、あたしは……、絶対に許さないし、認めない――



 サンディを椅子かベッドに縛りつけ、この家に監禁してでもいいから、あいつの元へ向かうのをあたしは何が何でも阻止するため、説得を試みなければいけないのに。

 いきり立つ頭と心とは裏腹に、あたしは二人の関係を認められない理由を、ロイの本性についてさえも、何一つサンディに伝えることが出来なかった。


 だって――


 いずれを話すにせよ、あたしの素性や本名についてまで、サンディに話さなければいけないことになり兼ねなくて――

 万が一にでも、サンディに軽蔑されたり、嫌われたりするのが……、あたしには何に置いても怖くて堪らない……。


 ごめんよ、サンディ。

 あたしはあんたよりも、自分自身の方が可愛いみたいなんだ――


 サンディがあたしを置いてあいつの元へと去ってしまうことにも、意気地のなさゆえに止め立てすることもしない自分自身にも、あたしはこれ以上ないくらいのやりきれなさを感じていた。


 そして、サンディは荷物を纏めるとすぐに家から出て行ってしまった。


 タクシーに乗り込むサンディの小さな背中を見送るあたしの心の中は、怒りから空虚さが取って代わり始める。


 ずっと傍にいてくれたサンディが、あたしを置いて行ってしまう。

 フランキーといい、サンディといい、あたしが最も大切に思う人程、どうしてあたしの傍からことごとくいなくなってしまうのだろう。


 ――折角、フランシスとして新たな人生を送っていたのに――


 目の前に開かれていた未来がまた閉ざされていき、諦念のみがあたしを支配していくに違いないと――、あたしは悲しい予感を信じて疑わなかった。



 この数日後――、サンディのいない家で、サンディのいない生活を虚しく過ごしていた、ある夜――、突然一本の電話が家に掛かってくるまでは――



『明日の正午、ダグラスにあるアラゴルスホテルのロビーに来て欲しい。君に話しておきたいことがある』


 そいつの声を聞いた瞬間、ここ数日間抱えていた空虚さが一気に吹き飛ばされ、あたしの胸の内で、激しい憤怒と昏い憎しみの炎が蜷局を巻く。


「……分かったわ。こっちも、あんたには言いたいことや聞きたいことが山程あるから丁度良かった」


 燻り続ける淀んだ感情達を押し殺しながら、一切迷うことなく、あたしはそいつの呼び出しに応じることにした。





(2)


 翌日、あたしはダグラスの高級ホテル街の中で最も格式高い、老舗のホテルのロビーにてそいつがやって来るのを今か今かと待ち構えていた。

 西の大陸側の国からわざわざ取り寄せた、アンティーク調の円卓席に一人座り、約束の時間をとうに過ぎていると言うのに、中々姿を現さないことに苛立ちを感じながら。


 ロビー内の至る所に、大小の大きさ関わらず、様々な観葉植物の鉢植えが置かれている。見るからに上等そうな毛織物の絨毯が床いっぱいに敷かれている。

 天井を見上げれば、巨大なシャンデリアが眩いばかりの人工的な光を煌々と放ち、ロビー全体を明るく照らし出している。

 この間のパーティー会場同様、場違いな場所にぽつんと一人で過ごしていると、なぜかいたたまれない気分に陥ってくる。唯一幸いなのは、平日の真っ昼間のせいか、ホテルのロビーにはあたし一人だけしかいないことか。


(……き、気まずいったら、ありゃしないよ……)


 約束の時間から十五分以上経過した今、苛立ちよりも心細さばかりが募っていく。


(……ひいっ?!)


 テーブルの下から、あたしの足首にフワフワと柔らかく、くすぐったい感触が――、吃驚してつい悲鳴を上げそうになるのを寸でのところで堪える。

 恐る恐るテーブルの下を覗くとあたしの足元には、耳と鼻先、四本の足先が黒だけど、全体はクリーム色の毛色をした、長毛種の猫が蹲っていた。


「……何で、こんなところに猫なんかがいるのよ……」

「それはね、このホテルではロビーで猫を飼っているからだよ」


 思わず口からついて出た独り言に答える声。

 あたしの待ち人――、ロイ・フェルディナンドのものであった。

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