第3話 閉ざされた世界➂

 どこまでも果てしなく、いつまで経っても終わりが見えてこない、長い長い国道を徒歩で下っていく。世界を覆っていた暗闇はいつしか薄闇に変わり始める。淡い群青から薄っすらとしたオレンジに染まっていく。


 あぁ、ようやく夜が明けるのか。

 朦朧とする意識下、寒色と暖色が複雑に混ざり合う東の空を見上げたのを最後に、あたしの視界は暗転した。



 ねぇ、フランキー。

 あんたが傍にいてくれさえすれば、あたしはこんな目に遭わずに済んだのに。

 子供の頃、あたしをいじめる悪ガキ共を蹴散らしてくれたように、あいつが二度とあたしに近づかないよう、落とし前をつけてくれただろうに。


 あぁ、でも、あんたはあたしを裏切ったようなものだものね。

 あたしに黙って、あんな馬鹿な真似なんかして……。

 あんたもあの男も大嫌いだよ。

 あたしはもう疲れたから、このまま此処で――









(1)


 それから毎日、ロイは決まってラストオーダーの時間帯――、午後四時過ぎになると食堂に訪れるようになった。


「テイタムさーん!『いつものヤツ』、よろしくぅ!!」

「あ、はい!」


 ラナはカウンター席から厨房を覗きこみ、大きな声で注文を告げる。

 『いつものヤツ』とは、ホイップクリームがたっぷり添えられたパンケーキと、舌が火傷しそうなくらい、熱いブラックコーヒー。ロイの為だけに作られる、特別メニュー。


 あたしが急いで『いつものヤツ』を作り終える。ラナが張り切ってロイの元へと運ぶ。ついでに(というか、こっちが目当て)長々とお喋りに興じる。

 ロイは余りお喋りじゃないみたいだけど、厨房まで漏れ聞こえてくる朗らかな声色から察するに(内容までは分からない。別に知りたいとも思わない)、ラナとの他愛もない会話を楽しんでいた。そうして閉店時間の午後五時ちょうどに席を立ち、会計を済ませて帰っていく。

 ちなみに、あたしがチップを貰ったのは彼が初めて食堂に訪れた時だけだった。

 まぁ、その方がラナから僻まれることもないし、ママにバレて余計な詮索されなくて済むから助かるんだけど。所詮は、金持ちの御曹司様がみすぼらしい年増女に、ほんの気まぐれで施してあげた、ってだけの話。

 現にあの日以来、彼が私に話し掛けてくることは一切なかった。


「ねぇねぇ、テイタムさん。ロイさん、これから雑誌の編集者と打ち合わせなんですって!もうすぐ夕方だっていうのに大変よねぇー」


 閉店後、ラナと二人で(店主は金にせこいけどそれ以外の物事は適当で、金勘定だけ済ませたら後片付けや施錠はあたしとラナに押し付けてさっさと帰ってしまう)店内の後片付けに勤しんでいると、ラナがうっとりとした目付きであたしに語り掛けてきた。あたしはあの男に何の興味もへったくれもないのに。

 あたしの内心などお構いなしにラナは毎日毎日、自分が知り得た男の情報を逐一聞かせてくる。厭でもあたしはロイの素性について日に日に詳しく知っていく羽目になっていた。


 ロイ・フェルディナンド。二十四歳。

 北部チェルシー州の旧家出身。職業は小説家。

 新作の執筆のために、二週間前からダウンタウン・ヒュージニアの高級ホテルに滞在中、だとか。


「何でも、『ハードボイルド』とかいう小説を書いているんだってさ!すっごくなーい?!小説書けるなんて、あったまイーよね!!尊敬しちゃうわあ!!」


 ところで、ハードボイルドってなに―??と尋ねてくるラナに、あたしは、さぁ??と首を傾げてみせる。あたしだって、本なんて数行読むだけで眠くなるくらいだから知る訳ないし。


 片付けの手を止めてまで、口ばかりを忙しなく動かすラナに鼻白んでいると、外から誰かが扉を強く叩いてきた。はーい、誰―??と、ラナが布巾をテーブルに放り投げて扉まで近づいて行く。扉の向こう側の人物が誰なのか、分かっていながら何てわざとらしい。


「ラナ、迎えにきたぞ」

「ベン!!」

 ラナは弾けるような笑顔で、玄関に佇むがっしりとした体格の青年に飛びついた。いちゃつく二人に背を向け、気づかれないように鼻を鳴らす。テーブルに残っていた食器を重ねて厨房まで運びかけ、途中で足を止めて二人を振り返る。

「ラ、ラナ……。あ、後は、あたしが、あたしが片付けておくからさ……、今日はもう上がったら……??」

「本当?!じゃーあ、テイタムさんの言葉に甘えてぇ……、お先でーす!」


 その言葉を待ってました!と言わんばかりに、ラナは恋人のたくましい腕を細腕で絡め取り、さっさと店から出て行った。


「……あたしも、本当にお人好しだね……」


 人が好過ぎると自分に呆れながら、あたしは厨房の中で一人皿を洗い始めたのだった。






(2)


 後片付けを一人で終わらせ、厨房の最奥にある勝手口から外へ出る。

 裏口は勿論、表側の食堂玄関まで回り込んでしっかりと施錠して、食堂と道路を挟んだ向かい側に立つ三階建ての古いアパートへ――、施錠を終えたら、鍵を店主が住む部屋の郵便受けに返しに行かなければいけないからだ。

 昼間は車通りが多いこの道も、夕方は走行する車の数もまばらになってくる。道を渡る前にもう一度だけ左右を通る車の有無を確認、小走りで道を横断しようとした時、左方向から一台の車が走ってきた。その車はあたしのいる場所に向かってゆっくり徐行し、すぐ目の前で止まった。

 細身のボンネットに、輝きを放つ大きめのラジエーターグリル、座高の高い黒塗りの高級車の運転席から姿を現したのは、つい一時間前まで食堂に居たロイだった。


「こんばんは」

「……こ、こんばんは……」

 道を渡ろうとして一歩前に進み出ていた右足を元の位置に戻す。

 女の癖にやたらと背が高いあたしと、男の癖にやや小柄なロイとでは目線の位置が大して変わらない。何となく、ロイに苦手意識を持っているので視線を外して挨拶を返す。

「……あ、あの、あ、あたしに、何の用……、なの??」

 ロイは口元に拳を当て、うーん、と考える素振りをする。

「いや……、用というか……。ホテルに帰って、さぁ、執筆を進めよう!と、いざ原稿を前にしたら……、これがまた全くといって言い程書く気が起こらなくてねぇ……。気分転換に適当に車を走らせてみたら、この食堂へ続く道へと繋がったんだ。そしたら、偶々君の姿を発見したって訳。で、ついでに君を家まで送ってあげようかなぁ、と閃いたのさ。どう??悪くない話だろう??」

「いえ……、気持ちは、すごくありがたいけど……」


 閉鎖的な田舎町ショーシャーナでは、絹のシャツを着ているような男は酒の密売人かギャングの類だと思われている。しかも、ロイは高級車を乗り回しているので尚更素性を疑われ兼ねない。

 堅気には到底見えないロイに、家まで送り届けられるところを住民に見られでもしたら。おまけに年若い美青年とくる。二日もあれば町中に噂が流されるだろう。

 事実とはまるで違う、悪意によって面白おかしく、大幅に脚色された嗤い話として。


「き、気持ちはありがたいけど……、遠慮しておくわ」

「まぁまぁ、そう言わずにさぁ」

 ロイはニコニコと笑って、あたしの言葉を一蹴する。

「ほ、本当に、いいのよ……。あ、あたし、こう見えて、亭主がいるの……!だから……、あんたに送ってもらう、ことで、周りから、変な誤解を……、されたくないの……!わ、わか、わか、若い男と、ふた、りでいたら、ななな、なんて、ね……!」


 自分でも身の程を弁えていない発言だってわかってる。

 ひょっとして、ロイはあたしに気があるのでは??と疑っているも同然な物言いをしてしまった、かもしれない。

 ロイはさっきまでの笑顔を引っ込め、不快そうに渋面を浮かべて黙り込む。

 そりゃそうだろう。

 痩せぎすの冴えない年増に変に勘違いされたら、ロイでなくても大抵の男なら面白くない。


「あ、そういう訳で……」


 一刻も早く、気まずい雰囲気から逃れたくて、あたしはくるりと踵を返す。

 食堂の鍵は、明日の朝一番のバスに乗って店主に返しに行こう。

 こっぴどく叱りつけられてしまうかもしれないが、一分一秒でも早く、あたしはロイの傍から離れたかった。


「……その亭主とやらは、刑務所の中なんだろう??しかも、連続強盗及び殺人未遂の罪で三十年の服役を言い渡されているらしいね」


 ロイが冷たく言い放った言葉を背中越しに受けて、思わず振り返る。


「ねぇ、テイタムさん。君はすでに七年も無為な日々を過ごしているよね??これからまだ二十三年もの間、地味にこそこそと生きていくつもり??ろくでもない駄目亭主の為に人生を犠牲にするなんて、余りにくだらなさすぎると思わない??」


 ロイは、萌黄色の瞳に侮蔑と憐憫をないまぜにして、あたしを真っ直ぐに見つめてくる。

 嘲笑されているんだ、と理解した途端、あたしの頬はカッと熱くなり、胸の内から激しい怒りが込み上げてきた。


「……で、でも、あたしは亭主を待つと決めているから……!だから、必要以上に他の男と関わりを持ちたくないの!!放っておいて……!!」


 挑むような目つきで見据えるロイに脅えながらも、あたしにしては珍しく、思ったことをはっきりと口に出して怒鳴り返す。


 あんたみたいな苦労知らずのお坊ちゃんに何が分かると言うの。

 生活が苦しかったせいで、フランキーはやむにやまれず罪を犯してしまっただけなのに。だって、あんなにあたしに優しい男だもの、本当は強盗なんてやりたくなかったはずよ。

 それに引きかえ、こいつは相当性格が悪いと見た。

 一見、人好きのする朗らかな人物のようで、一番触れられたくない部分を平気で深く抉ってくる。


 あたしの態度が元で、もしかしたらこいつはもう店には顔を出さなくなるかもしれない。構うものか。

 だって、二度とこいつの小綺麗な顏なんて見たくない。あたしの胸で、腹で、ドロドロとどす黒い、汚れた感情が渦巻いていた。


 そのせいであたしは全然気づいていなかった。


 ロイが大股の歩みで素早くあたしの背後まで近づいていたこと。気付いた時にはロイに羽交い絞めにされていたこと。悲鳴を上げる間もなく、口を塞がれてこめかみに銃口を押し付けられていたこと。


 ロイは無理矢理あたしを助手席に押し込むと、銃口を向けたまま車の前を回って運転席に移っていく。


「いいから、大人しく僕の言うとおりにしてよ」

「…………」


 エンジンをかけると、ロイはようやく銃をスーツの内ポケットへしまった。同時に、ショーシャーナへの道とは逆方向に向かって車を発進させたのだった。

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