第2話 閉ざされた世界②
真夜中だというのに、あたしはヒュージニア州の大都市ダグラスと隣のアリスタット州との州境に位置する、カルディナ山中の国道沿いをたった一人きりで歩いていた。
足を一歩ずつ進めるごとに、足の裏からふくらはぎ、股の付け根にかけて痺れて鈍く痛む。膝から下が鉛みたいに重くて仕方ない。
絶え間なく襲ってくる痛みと疲労感、酷い眠気。気を抜くと歩きながらでも眠ってしまいそうになるのを、奥歯をきつく食いしばって必死に堪える。
ちなみに、この道を発見するまでの何時間もの間、山奥の銀杏林を彷徨い続けたあたしの体力はとっくに限界を超えつつあった。
このまま国道を下り続けていれば、麓の街に辿り着くのかな。
例え辿り着かなかったとしても……、途中で夜が明けさえすれば、いずれ麓まで下る車が一台くらいは通りかかってくれる、筈。そしたら、ついでに乗せて行ってくれと頼みさえすればいい。
だから、夜が明けるまでは、何が何でも頑張って歩いていかなきゃ――
今にも崩れ落ちそうな身体と心を奮い立たせ、ふらつく足を引きずって歩く。
朧げな月明りと星の光だけを頼りに、あたしは暗澹たる闇に沈む景色の中を突き進むしかなかった。
「テイタムさーん、ラストオーダーお願いー」
その日の午後四時過ぎ、ウエイトレスのラナが最後の注文を告げに、あたしがいる厨房までひょっこりと顔を覗かせにきた。
「……あ、はい!な、何を作ればいいの??」
ラナは、大きな青い瞳に逡巡の色をちらつかせ、きょろきょろと周囲に視線を巡らせている。
「あのさぁ……。テイタムさん、ホイップクリームを多めに添えたパンケーキって作ること出来ない??」
厨房に入ってくるなり、カウンターの店主を気にしてか、ラナはひそひそと声を落としてあたしに相談を持ち掛けてきた。
「……えぇ?!ホイップクリームはさっき使い切ってしまったし、そ、それに……、パンケーキは、う、うちのメニューにはないわよ……」
「だよねぇ……、って、アタシも客にそう伝えたんだけどぉー……」
ラナはへへへ……、と、媚びを含んだ気色悪い笑顔を浮かべてお互いの息が顔にかかる程にべったりと身を寄せてくる。鬱陶しいからさりげなくあたしは身を引いた。
「たった今来た客がね、どうしてもホイップクリームを添えたパンケーキが食べたいんだって!しつこく食い下がってきたから、ついつい……」
「……作ります、って、言ってしまった、のね……」
作るのはあんたじゃなくてあたしなんだけどね。
閉口するあたしなんかお構いなしに、ラナは全く悪びれることなく話を続ける。
「うん、そういうことぉー。店主にはアタシの方から上手く言っておくし、パンケーキ作る材料もあるよねぇ??」
「……うん。ただ、パンケーキは作れるけど……、ホイップクリームまで作る時間はないわ……。ほ、ほら、も、もうすぐ閉店時間だし……」
「えぇっ?!だって、あのお客、『パンケーキはホイップクリームじゃないと僕は嫌なんだ』の一点張りだったのよ?!」
ラナは目を吊り上げてあたしを睨んでくる。
何であんたにそんな目で睨まれなきゃいけないの。
これだから、ちょっと見た目と愛想と要領が良いだけが取り柄の、頭の悪い金髪女は嫌いなのよ!
胸中でラナへの悪態をつきつつも、「じゃ、じゃあ……、ホイップクリームの代わりに、クリームチーズをたっぷり添えるわ……。そ、そそ、それで勘弁してもらえるよう、ラナの方から、お、お客に、上手く、伝えて頂戴よ……。ほ、ほら……、ラナみたいな、か、可愛い女の子にお願いされちゃったらさ……、その、お、お客も、お客も嫌な事はっ、絶対!言ってこないわよ!ね、ね??」と、小声で言葉をつっかえさせながらも、あたしはラナの傾いてしまった機嫌を宥め、提案を持ちかけさえした。
ラナは、年下相手にさえ萎縮するあたしを見下しきった顔つきで一瞥すると、「……はーい、じゃ、テイタムさんの言ったことをお客に伝えてくるわ」と、気怠そうに厨房から出て行った。
ラナが厨房を出てすぐに、あたしはシンクの上にある棚の引き戸を開けた。小麦粉、砂糖、ベーキングパウダーを、冷蔵庫からは卵と牛乳を取り出し、パンケーキを作る準備を始める。
材料を順にボウルの中に放り込む。小麦粉やパウダーが固まってダマにならないよう、シャカシャカと泡立て器でよくかき混ぜ、フライパンの上に薄く拡げて火を付ける。たまご色だった生地は明るいきつね色へと徐々に変化していく。薄く焼いた生地が崩れないよう慎重に、焦げ付かないよう迅速に、フライ返しでひっくり返す。
よし、上手くできた!
あとは表面と同じように、きつね色に変わるのを待つだけ。
焼いている間に、お皿とクリームチーズとメープルシロップを用意しなきゃ。
美味しいパンケーキを手早く作ることだけは、唯一ママも認めてくれている。
ママだけじゃない、フランキーもいつも褒めてくれていた。
『テイタムの作るパンケーキは世界で一番美味い』ってね。
「テイタムさーん、そろそろ焼き上がったよね??」
「あ、あ……、うん……」
「じゃ、もう運んでもいいよね!」
言うやいなや、ラナはフライパンから皿に移したばかりのパンケーキをトレイの上に乗せると、いそいそと浮足立ってパンケーキを運んでいく。
この食堂のメニューにパンケーキはない。分かっていながら注文を受けたことといい、あの娘は本当に笑えるくらい分かり易いったら。
ゆったりとしたワンピースを着ていてさえも肉感的な身体つきがはっきり見て取れるラナの後ろ姿を、店主や彼女に気付かれないように厨房の入り口からこっそりと目で追ってみる。カウンター席から見て右奥、二人掛けの席が三つ並んだ一番端の窓際席に、パンケーキを注文したであろう客が座っていた。
あぁ、やっぱり。
あたしの予想は見事的中。
あれはあの子からしたら、媚びを売って良い顔を見せたい類のお客よね。
ラナからパンケーキの皿を受け取ったその客は、お上品な顔立ちの金髪の美青年なんだもの。
客の顔を確認すると同時に好奇心はすぐに消えていく。気が済んだあたしは閉店準備の為に厨房の中を片付け始めた。店の方からは、閉店間際で例の客以外誰もいないのをいいことに、いつもより若干高めの声音でラナは店主と談笑していた。
やがて閉店の時間がきて、ラナは会計をしに再び客の男の席へ。喜々とした態度で代金とチップを受け取るラナを尻目に、カウンター席の天板を拭いていると不意に男から「お嬢さん」と呼ばれた、気がした。
まさか、あたしに言った訳じゃないでしょ。気付かない振りを決め込んでいると、「カウンターを拭いている、そこのお嬢さん」と、今度ははっきりとあたしを呼んでいると分かるように、男が声をかけてきた。
地味で冴えない、三十近いあたしを『お嬢さん』呼ばわりするなんて。この男は相当目が悪いのかもしれない。現に、ラナは思わずあたしの方を振り返るくらいには驚いている。
呼ばれてしまったからには仕方ない。あたしは天板を拭く手を止めて、男の方に恐る恐る向き直った。
いざ近づいてみると、明らかにあたしよりも若い男だった。ラナと同じくらい、二十歳を少し過ぎたくらい、かな。線は細いし、やや小柄な背丈も含めて、どことなく頼りなげな雰囲気だった。
その癖、一目でお高そうだと見て取れる素材のスーツジャケットに絹のシャツを着ている。貧乏人のあたし達とは住む世界が違う人間だということが伺えた。男はあたしと目が合うと、にこりと柔らかく微笑んだ。
「あのパンケーキを作ったのは、君なの??」
「……そ、そう、だけど……」
「君が作ったパンケーキは、僕が今まで食べたモノの中で一番美味しかったよ!だから、また明日も、いやこれから毎日、僕はこの食堂まで足を運んであのパンケーキを注文するからさ、よろしく頼むよ」
「……は、はぁ、どうも……」
褒めちぎられることに慣れないあたしは気恥ずかしいのと、ラナからの刺すような視線が痛いのとで、徐に男から視線を逸らしてしまった。戸惑うばかりのあたしに構わず、男はつかつかと靴音を立ててあたしの傍まで近づいて来る。
「はい、これが君へのチップだよ。受け取って」
事もあろうに、男はスーツの内ポケットから革製の財布を取り出し、あたしに紙幣を数枚手渡してきたのだ!あたしがチップを貰ったこともだけど、渡されたチップの額を目にしたラナの表情が見る見る内に歪んでいく。
「……あ、あの……、あ、あ、あたしは、厨房係、だから……、チップを払う……、払う必要、ないんじゃ……」
「あぁ、そうかもしれないね。でも、これは僕からの君へのささやかなお礼の気持ちだから、君は素直にありがとうと言って、受け取ってくれればいいのさ」
「……で、でも……」
「いいから、いいから」
ウインクでもしそうな悪戯めいた視線を送りつけ、紙幣を押し返そうとするあたしの手を強引に握ると、男は紙幣を無理矢理掌の中に押し込んだ。
「ではでは、お嬢さん。また明日ね」
手を振りながら颯爽と店を出て行く男を唖然としたまま、その華奢な背中を黙って見送った。
アタシよりもチップの金額多く貰えて良いなぁー、しかも、あんないい男に!と、冗談交じりに僻みをぶつけてくるラナに適当に相槌を打ちつつ、紙幣を握りしめる手が微かに震えているのを何とか抑えようと、密かにあたしは躍起になっていた。
――ところが、これはあの男――、ロイ・フェルディナンドにとっては、取るに足らない、しばらく経てば忘れ去ってしまう程の、ほんの些末な出来事にしか過ぎなかった――
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