遠くて近い、ラブストーリー

この物語では、二つの恋が描かれます。
一つは遠いものです。時間も場所も、さらには次元すらも通り越した恋。そしてもう一つは、ありふれた現代生活の中において咲いた恋です。
私は読了後、この二つの恋について、筆者はどうして対比をするように描いたのかと考えました。並行して進む二つの恋には、必ずなんらかの関係性があるはずだと思ったのです。

遠い方の恋は、とても積極的なものです。両者は愛し合い、お互いが好きだということをポジティブに捉えています。一方、近い方の恋はとても慎重です。こちらは主人公である神田真志進くんの恋なのですが、相手の気持ちを自分の中で推測するがゆえに近づくことができず、時にはすれ違いや勘違いなども引き起こしてしまいます。
だとすると筆者は、どのような恋もすばらしい、美しい、ということを描きたかったのでしょうか。もちろんそういう狙いもあると思います。しかし私はもう一歩踏み込んで考察してみました。それは、恋における障壁についてです。

近い方の恋は、先ほど書かせていただいたように慎重です。真志進くんは相手に「好き」とすぐに言える立ち位置にあります。誰かが邪魔をすることはありません。恋をしたら罰せられることもありません。だけど真志進くんは、相手の気持ちを計算しすぎるあまりに接近することができないのです。
しかし遠い方の恋は時代が違います。恋をすれば恐ろしい運命が待ち受けているような時代。それが通ってしまうような、古い古い時代の話です。ここでは明らかに、外的環境が恋の障壁になります。

さて、そう考えると不思議ですね。
問題なく愛情を送ることができるポジションにおいては恋に慎重となり、恋をすることに危険がはらんでいる状況では積極的に恋に身を投じることができる。これらはもちろん、恋をする主体とその性格によるものもあるでしょうが、もしかしたら筆者は恋に慎重になりすぎている人の背中を押したかったのではないかと思うのです。

本来、恋は自然なものであり、すばらしいものです。だから障壁が目の前にあれば、それに押しつぶされないようにとその恋を叶えようとします。しかし障壁がないがゆえに、「この恋はいつか」「そのうち」と先延ばしし、それがため本来成就するはずだった恋が叶えられないということも起こります。いえ、成就すれば完璧なのですが、相手に「好き」という自然な言葉を送ることができないまま終わるということもありうるのです。
これはたいへんもったいないことだと思います。相手と恋人同士になれればそれでいいでしょう。結婚することができればいいでしょう。でも、一番大切なのは、好きな人に好きと伝えることなのではないかと思います。それができないのはもったいない。せっかく好きになったのに、それが伝えられないのは「うまく生きることができなかった」と言ってしまえるくらいにもったいないことなのだと私は思います。

だから筆者は、遠い恋を近い恋のキーとして働かせたのではないでしょうか。
これは私個人の勝手な解釈であり、事実はどうなのかはわかりません。しかしこの物語の構造はシンプルでいて、たいへん深いものだと感じます。このような優れたシナリオライティングのできる筆者、そのシナリオをたいへん楽しい会話で進めることができる筆者の実力に脱帽の思いです。
好きなことは好きと言いたい。
好きな人には好きと言いたい。
私はこの作品を読んで、そんな、自然な気持ちに至ることができました。皆様もぜひ、「好き」の基本――それはおひさまに照らされた若芽のようなものですが、本作を通じ、そのようなあたたかなものに触れていただければと思います。

追伸ですが、本作の面白さの一つに、男子同士のかけあいというものがあります。
友情ではあるのですが、愛情にまで昇華されるような、かけがえのない関係性。ソフトBLとも言い換えられるかもしれません(笑) こちらは思わずにやけてしまいますので、皆様もぜひお楽しみにしていただければと思います。佑佳さんは、男子同士の関係性を描くのが本当にうまいなぁと感じます。
はてこれは、ソフトBLか。それとも、深い人間愛なのか。