最終話 その果てにあるもの

 わたしの前には二つの首が並んでいる。

 ひとつは西楚の覇王項羽、もう一つは漢王劉邦の首だ。


 斉を拠点にした韓信は、劉邦の招きに応じ大軍を率いて南下した。垓下の戦いにおいて項羽を討ち取った韓信は返す刀で漢軍を攻撃する。

 連戦連勝の韓信の軍に立ち向かう力は漢軍には残っていない。


 かつて韓信はわたしに言った。

「お前の知謀は、劉邦の側近の張良にも劣らないのではないか」

 弱体だった漢軍を、曲がりなりにも楚と対抗できるまでにしたのはこの張良という男の功績だろう。だがその男も韓信軍の猛攻に呑まれ、命を落とす。


 ついには漢王劉邦も韓信の前に引き据えられる。

 わたしは感極まって天を仰ぐのだ。


 ……だが、全ては夢に終わった。




 強い風が吹き、乱れたままの蒯通の髪を揺らした。

 蒯通はうつつに引き戻された。


 韓信は天下を手中にする。その筈だった。本当に、もうあと一歩だった。

 垓下に項羽を討ち滅ぼしたあと、そのまま劉邦軍を攻撃すれば。


「なぜだ、韓信」

 蒯通は、その男の首を前に泣き崩れた。

 晒されていた首は韓信のものだった。


 ☆


 垓下の戦いの後、楚王となった韓信だったが、宮廷内の陰謀に巻き込まれ、楚王から淮陰候わいいんこうへ降格となった。さらに呂皇后一派の執拗な離間工作によって、ついに反乱を決意するに至る。

 だがそれも、事を起こす前に情報が漏れた。

 韓信は捕らえられ、処刑された。



 なぜ劉邦を討たなかったのだ。蒯通は心の中で叫んだ。項羽を滅ぼした直後なら、その機会は何度もあったはずだ。


「それは俺も、劉邦と戦うとは言ったけれど」

 韓信の声が聞こえる。

「無理なんだよなぁ。あの親父の顔を見ていると、殺意が湧かないんだ」


 確かに、あの男ならそう言いそうだった。

 蒯通はため息をついた。

 鴻門の会では項羽が同じような言葉を口にしたらしい。

 結局、劉邦を殺す事ができなかった項羽も韓信も、ともに滅ぶことになってしまった。


 ならば、わたしが劉邦を殺すしかないようだ。

 蒯通は胸に手を当て、そう誓った。


 その時、彼女の首元に剣が突きつけられた。

「淮陰候 韓信のもとに居た軍師の蒯通だな。来るがいい」


 ☆


 蒯通は縄を打たれ、漢帝国初代皇帝となった劉邦の前に引き出された。劉邦が玉座に座り、横には張良が控えている。


「お前が韓信へ謀反をそそのかしたという、蒯通か」

 掠れた声で劉邦が言った。それは、どこか病の気配を感じさせる弱々しい声だった。


 気を挫かれた蒯通だったが、あえて声を張り上げた。

「垓下の戦いのあと、漢王を討てと言ったのは私だ。だがあれは決して謀反などではないぞ。よいか、聞くがいい」

 蒯通は縛られたまま、背を伸ばした。

「当時、韓信は斉王だ。これは漢王だった陛下と同格という事だ。同盟関係ではあっても、決して主従関係ではない」

 よって、謀反にはあたらない。


「場合によっては、韓信と私がそこに居たのだからな」


「そんな屁理屈が通ると……」

「いえ、まさにその通りです」

 言いかけた劉邦を張良が制止した。蒯通を見て頷く。

「この方に罪はない。縄をほどいてあげなさい」


 蒯通は痺れた手を振った。

 張良に対して一礼する。

、張良どの」


「韓信に軍略を教えたのはそなただと聞いたが、本当か」

 劉邦は目を閉じ、黙り込んだままだった。自然と蒯通と張良の会話になった。

「ええ。『孫子』を講義してやった事がある。韓信は他に何の能も無い男だが、常に頭の中に戦場が浮かんでいるような奴だった」


「ああ。わたしも一時、あいつと一緒に居たから良く分る。韓信は妄想の中に生きているような男だったな」

 くすっ、と張良は笑った。可憐な少女のような笑みだった。


「ところで、その書は」

 張良は蒯通の服の胸元からのぞく竹簡に目をやった。

 蒯通は小さく息を吸い込んだ。

 ついに、機会は訪れた。


「これは『孫子』などの兵書から私が抜粋したものです。ご覧になりますか」

 すると、なぜだか張良は身体を曲げて笑い始めた。

 露見したか、蒯通は背中に汗が流れるのを感じた。


「いや、失礼した。私の師、黄石公も同じようなものを作っていたので、それを思い出してしまったのです。では、こちらへ。拝見いたしましょう」


 呼吸を整えると、蒯通は前へ進んだ。

 劉邦の足元でその竹簡を拡げていく。張良はそれを興味深そうに覗き込んでいる。

「この部分は『呉子』からのもので、続いて『司馬法』。最後が……」


 薄い竹片を綴り合わせた最後の一枚は竹ではなかった。そこには、黒光りする鉄の板を研ぎ上げた鋭利な小刀が綴じ込まれていた。


 蒯通はそれを抜き取り立ち上がった。劉邦まではほんの二、三歩の距離でしかない。皇帝はぼんやりと目を見開いたまま、玉座に座り込んでいる。

 ……何が起こったのか理解出来ていないのかもしれなかった。


「そこまでです、蒯通どの」

 鋭い声が蒯通の足を止めた。張良の声だった。

「あなたが手を下すまでもない。この男は、もう長くありません」


 蒯通は力なく蹲った。

「やはり、この男を殺すことが出来るのは、天だけなのか……」


 ☆


 宮殿を出た蒯通は、もう一度韓信の首の前に立った。

「お前は死んでもそんな顔をしているのだな」

 それは、目を閉じ妄想に耽っている時の韓信そのままの表情だった。


 蒯通はそのまま立ち尽くしている。

 

 雨が、降り始めた。



 了





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戦術と妄想、ときどき女。 杉浦ヒナタ @gallia-3

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