第10話 最後の妄想

 それは雪玉が転がるたびに大きくなっていくのと似ていた。


 関中に軍を構える章邯しょうかんを一撃で葬り去り、漢軍は東へ向かった。この時はまだやっと1万ほどの軍勢だった筈だ。

 それが、東征のための行軍を開始した翌日には倍に増え、その翌日にはそのまた倍になっていた。項羽の論功行賞に対する不満は中原に満ちていたのだ。

 漢軍は文字通り、中原を席巻した。


「顔色が冴えないな、韓信」

 俺を見るなり張良が言った。

「それはお互いさまだろう。どうするんだ、この馬鹿みたいな大軍は」

 漢軍は各地から集まってきた諸侯の軍勢で、いつの間にか50万に迫ろうという数に膨れあがっていたのだ。


「お前は、兵が多ければ多いほど良いのではなかったか」

『多々益々弁ず』とか。張良は皮肉たっぷりに言った。


「ああ、確かにそんな事を自慢げに言っていた時期もあったよなぁ」

 俺は肩を落とした。……若かったか、俺も。


『孫子 行軍篇第九』にもあるが、兵は多ければいいというものではないらしい。

[ 兵非益多也、惟無武進、足以併力料敵 ]

 軍は、心をひとつに合わせてこそ、敵に当るに足る力が出るのだという。

 いまの漢軍は、目的から何からバラバラの雑軍でしかなかった。


「俺はこの軍を率いて項羽を打ち破るところが想像できないんだ」

 張良も深刻な表情で頷いた。

「とにかく楚軍にぶつけてみるしか方法はないだろう」

 数を頼んでの力押しか。

「これでは妄想の入り込む余地もないな」


 ☆


 項羽の本拠地、彭城はあっけなく陥落した。

 当然だ。項羽はせい国の反乱を抑えに北へ向かっていて、彭城には僅かな守備隊しか残っていなかったからだ。


 だが、数万の騎兵だけを引き連れて項羽が戻ってくると、彭城を埋め尽くした50万を越える大軍は一夜にして消え去った。

「俺の妄想などより、現実の方がよっぽど、どうかしている」

 俺は手持ちの軍を纏めて敗走する事しか出来なかった。

 これが、俺が漢の大将軍になって初めての敗北だと気付いた。


 西の方、滎陽まで退却した劉邦は、方針転換を決意し俺に命じた。

「今後、当分は項羽と直接対決はせぬ。やつの周囲から枯らして行こうと思う」

 多分張良あたりの献策だろう。妥当というより、今の漢軍の力ではそれしか方法がなかった。


「では大将軍韓信は北方の諸侯を伐り従えよ」

 劉邦の命令が下る。しかし、北方といってもどこまでだ。


「韓はすでに韓王信に任せておる。お主はその他の国だな」

 無茶苦茶だった。それは、ちょうえんせい、全てということか。


「まあ、もっと小さな国もあるが。そこもお主に任せるぞ」

 劉邦は嘯いた。

 しかも与えられたのは、1万にも満たない小部隊だった。兵も現地調達しろと云うことのようだった。


 だが、俺は久しぶりに高揚感を覚えていた。


 ☆


「楽しい。戦術を考え出すのはこんなに楽しい事だったのか!」

 俺の率いる軍は快進撃を続けた。

 趙を攻めた時の戦術は『背水の陣』と呼ばれ、奇策だと非難を受けたが、俺にとっては『孫子』に則った当然の策だったのだ。

 ついに、残すは斉国だけとなった。


 そんな俺の陣に、一人の使者が訪れた。


「久しぶりです。韓信」

 その相手は、少女の面影がそのまま残っていた。

蒯通かいとう、お前は年齢としをとらないのか」

 俺に『孫子』を教えてくれた蒯通だった。彼女は、はにかんだ笑顔を見せた。

「まさか、あれから何年経っていると思うの。大将軍に出世したら口も上手くなったじゃない。この女たらし」

「い、いや。そんなつもりなど無いのだが」


 そうだ。そんな場合ではなかった。

「何の用だ、蒯通」

 彼女は居住まいを正した。


「斉の主、田横さまは漢の使者、れき食其いきさまに降伏をお伝えになりました」

 俺はその老儒者の顔を思い出した。

 そうか。面白くないな、俺は心のどこかで思った。斉という大国を俺の手で下して見たかったのだが。


「そこで、これ以上の侵攻はお止め下さい、と言いに来たのですが……気が変わりました」

 蒯通は俺の顔を覗き込んだ。

「韓信どの。今なら斉を難なく攻略できます」


 俺は耳を疑った。

「おい、蒯通。お前は斉のために働いていたのではないのか」

 彼女は静かに頷いた。

「はい。ですが、このままでは楚軍の侵攻を受けるでしょう。楚の竜且将軍が北上しているとの情報があります。そうなったら……」

 蒯通は言葉を切った。

「斉は思うままに蹂躙されるでしょう。それよりは、あなたに占領された方がまだ被害が少ないと思います」


 確かに軍紀は漢軍の方が厳しいだろう。これは劉邦というより、張良の方針だ。占領地はまず掠奪する、という楚軍とはかなり違うのは確かだ。


「だが、漢王の使者が来ているのに攻撃はできないぞ」

 蒯通は、卓に置いた俺の手に自分の手を重ねた。

「わたしは最初から分っていた。韓信は王になれる男だと」

 蒯通は俺の目を見詰めている。

「俺が、王になると……」

「ええ」


 そこで俺は鍾離昧しょうりまいの占いの結果を思い出した。

「だが、俺は王になれば、必ずしくじると、占いに出たのだ」

 蒯通はにこりと笑った。


「ならば、王ではなく大王になれば良いではありませんか」

「大王に、俺が」


「わたしが韓信に、最後の妄想の種をあげましょう」

 覇王項羽も漢王劉邦も、揃ってあなたの足元にひれ伏させるための策です。そう言うと蒯通は妖艶な笑みを浮かべた。


 伝説の妖女、妲己だっきもこんな表情をしたのだろうか。

 俺は背筋が寒くなった。




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