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 一応の正式な手続きとコネを用いた裏口的な働きかけをしてみたところ、皇女という肩書きを質屋に出したはずの私はあっさりと妹の公務室に通された。ほんの少し前まで私の人生の大半を支配するのではないかとすら感じていたその部屋の扉。それを前にして真っ先に感じたのは、懐かしさといったセンチメンタルな感情ではなくて、いよいよ自分があわよくば引き延ばし続けようとしていた時間に追いつかれてしまったのだな、という諦観だった。


 私とフランチェスカの予想では、フリーデント・フォン・フォーアライター皇女が、私のような世捨て人の戯れ言に付き合ってくれるまでには半年は予約でいっぱいでしょう、というものだったのは先に書いたとおり。


 けれど、何の変哲も無いその日の朝頃。特に予定もなく、いっそだれかお客様でも来て下さらないかしら。そんな私にしては暇を持て余すという贅沢な悩みを抱いていたところ、期待に応えましょうと云わんばかりに、彼女から夕食をご一緒に。要するにそのタイミングで用件を済ませろ、といった旨のメールを私の端末に頂いていた。


 扉の前で永遠と入ろうか否か悶々とするわけにもいかないので、とりあえずノック。合金で作られた冷たいその扉を手で軽く叩いたところで、その音が室内に反響することはない。しかしそんな形式張った動作を通して、利便性と古き良き自体の作法の名残を無駄に両立させたそれは、衝撃に反応したセキュリティチェックを終えると、来訪者の存在を内部へと伝えてくれる。部屋の主は私をくせ者の類いとは見なしては下さらなかったのか、あっさりと見た目の割には厳重なロック式の扉は開閉された。部屋の主は私を笑顔で迎え入れた。


「お久しぶりです、お姉様。本来であれで食事のために相応しい部屋なりを用意するところなのでしょうが、大したおもてなしも出来ず、真に申し訳ありません」


 開口一番、現皇女殿下は恭しく謝罪を述べ始めた。ただ、家族という間柄なのか、可能な限り堅苦しさを漂わせたくは無かったらしく、彼女は手入れされた髪を解いて下ろしていた。だから、その下出な態度も合わさって、私には彼女が帝国を左右するような要職に従事するような人間には見えなかった。


 その部屋にあるものといえば、それこそ私が書類と格闘していたデスクと簡易的な会談用に備え付けられた質素なテーブルだけだった。元々が他人と食事するような機能を意図して作られた空間ではないのは分かる。新旧の帝国を率いる継承者が、さして豪華でもない業務用の机を用いて、これまた質素な料理で会食だなんて、考えてみると中々にシュールな光景だった。 


「お気になさらないで下さい、皇女殿下。私のような者によって皇女殿下に浪費を強いてしまったことを、むしろこちらが謝罪したいと思っています」


 人に頭を下げることを何とも思っていない私にとって、それは彼女への儀礼的であり、それ以上でもそれ以下でもない振る舞いだった。しかし、当の現皇女には恐れ多い行為として瞳に映ってしまったらしい。彼女は私に必死に頭を上げるように求め、


「そんなよそよそしい言葉遣いなどしないで下さい。私にとって、貴女は……」


 結局彼女は言い切らずに、私に即席の食卓へ腰を下ろさせることに労力を注いだ。果たして、妹はどんな言葉を続けるつもりだったのだろう。貴女は私の実の姉。家族。大切なひと。例え皇女という役職を失ったとしても。


 そういうカテゴリーのものなんだろうな、とは思う。けれど、血の繋がっていない女性を母さんとしか思えなくなってしまった私にとって、そういう暖かみや美談的な単語は後ろめたさや、自分の奇怪な人生を糾弾するような響きに感じてしまうのだった。それが、目の前の妹には何の落ち度もなく、単純に私個人の問題であることは痛いほど、分かる。分かってはいるけれど、自分で作ってしまった第三者にとっては無意味なしがらみから、人間を解き放ってくれる便利な魔法なんて未だ見つかりそうもない。


 だから、私は彼女が求めている役割に徹することにした。完璧に打ち解けることは、まだ出来はしないのだけれど、表面上だけでも彼女にとっては、少しは身内らしい表情を今まで偽って来た。私はそんなペルソナを被ったまま、支援者のお願いを彼女に伝えた。


「人類統一連合諸国に対して友好方針を取れ、ですか」

「嫌かしら」と私が尋ねると、そうではない、と彼女は答えた。


 けれど、乗り気ではないのは確実だった。本人は感情を律しているつもりなのかも知れないけれど、彼女の瞳が反射する微妙な光が曇ったように私には見えた。


 私はそこで、ふとゴット・ヘイグが話した彼女の評を思い出した。確かに、私や彼のようなタイプの人間がお得意とする腹芸はこの皇女には似合わない。いや、出来ない、と言った方が正しいのかしら。性格の、いや、気質といった方が正確か。小賢しい真似をするには、彼女は育ちが良すぎる。それは決して良い悪いという極論で語るべきことではない。ただ、フリーデント・フォン・フォーアライターが、私が持つものと違った特徴やら強みを備えた人物と言うだけの話。


 これらを踏まえ、私は目的を達すること自体は容易だと感じた。ある程度筋道立てた説明を行い、それでいて彼女に何故か一定の効力を発揮する姉というステータスを利用する。たったそれだけのことで私はこの場から立ち去って、あの外務長官殿に頼まれていた用事は済ませておきましたよ、と報告することが出来る。けれど、ここのところは精神を構成する歯車が嫌な音を立てるような生活から解放されていたせいなのか、自分の有利な点を用いて手早く彼女を言い含めることは、まるで良心が憎むべきことのように思えた。


 結果どうするか、と言えば、私は妹に対して高度な駆け引き無しの説得という形態を心がけることにした。なるべく、彼女が私に言われたからではなく、本人が納得できたから、というスタンスに落ち着くようにだ。甘いと言えばそれまでなのだけれど、手間暇時間を掛けることが、せめてもの彼女に仕事を押しつける形になった私のちょっとした義務なのだとも思う。だから、食器上がどこにそんなものを用意していたのか、デザートのティラミスになったあたりで、私は一旦話題を変えた。


「そう言えば、聞いてみたことがあったの」

「え、何でしょうか」


 半ば文脈を無視した話題転換に目の前の美少女が戸惑った。さすがに、強引だったかしら、と恥ずかしくなりつつ私は尋ねた。


「何故、貴女は皇女を継ごうと思ったの」


 ほんの一瞬、妹が息を忘れた。刹那の間、時間が止まってしまったように。

その問いは、八割くらいは純粋な興味関心からだった。何故、自分がいない空白時代に。中々に悩ましい時期に皇女に即位しようと思ったのか。彼女は視線を下ろして、自身との対話を終えたのか、もう一度私の顔を見るために上げ直した。


「当時は、私が決心したとき、お姉様は亡くなったものと私は考えていました。自分でも思い上がった考えではあるのですが、私がお姉様の、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターの意志を継ぐべきだと。他者にその役割を譲りたくない。そう思ったのです」

実年齢より幾分か幼い印象を受ける、彼女のはにかみ。自分の中にある、人に触れられると面映ゆいような告白を彼女はしたようだった。自分と背格好は似ているのに、フリーデントという人間は自分が抱くような濁ったものをやはり持っていないのかな、と私は思った。けれど、そんな彼女のまっすぐな思いに対して、私という受け皿には後ろめたさという歪みが多かった。だから、自嘲するように私は言う。

「私の意思、ね。貴女に誇ったり、憧憬の念を抱かれるような。そういう、出来た皇女ではなかったと思うのだけれどね、私は」


 彼女は即座にそんなことはない、と否定すると私の功績――主に、治安維持に目覚ましい成果が見られ、臣民に寄り添った体勢といった、所謂ジークフリーデ・フォン・フォーアライターと言う偶像に一般的に抱かれるそれを、目を輝かせんばかりに一通り彼女は語って見せた。そして、それは自分の母親、つまり、私達の本来の母親の理想に近いものだった、と語った。


「母様は、優しい方でしたが、それ以上に聡明な方でした。誤解を恐れずに言えば、どこか冷徹ですらあった。幼い私には、そこまで深く考えたことはありませんがね」

「冷徹?」


 実の母親については、良い印象を受けるような話しか私は知らなかった。妹は、自分の表現が少し不適当かもしれません、と訂正した。


「公私の区別がはっきりとしている、というべきでしょうかね。お姉様のそれと、よく似ていました。物事の道理を知ってらっしゃる。あるいは、そういう道理を自分の中で組み立てることが出来る方、と言うべきでしょうか。こんな言い方は好きではありませんが、恵まれ過ぎた環境で育った人間というのは、存外物事を正しく判断できない。そういう心構えを自分に課していたような気がするのです」


 彼女が言うには、過信によって他者、あるいは物事を全て自分の制御下に置くことが出来ると思い込むことは恐ろしい。故に、自分が無知であることを自覚すること。そう自分に言い聞かせることによって常に自身を高め、誤りを犯さないように監視する、といった信条めいた何かを母親は抱いていたらしい。触れたら壊れそうなものを扱うような口調で、妹は言う。


「そういう考えに至ったのは、もはや想像で語るしかないのですがお姉様を死産したと思っていたから、でしょうね。直接そう語ったわけではありませんが、お姉様の出産にどこか楽観的な態度であったと自らに悔いているようでもありました。出産に限らず、人生上の出来事は、大抵が上手くいく。確率的にも。そういう風に考えていて、その分堪えたのだと思います。常に自分を卑下し、高めようとしていなければ、それが何時の日か自分を後悔させてしまう、と」


 私は、彼女の話を通じて、その女性に対して申し訳ない気持ちになっていた。あまり、実の母親という存在には関心を抱いてこなかったから。自分が呪いを掛けてしまった母親のことを無視して生きてきたことに罪悪感を覚えた。妹は、そういう私の雰囲気を敏感に感じ取ったようで、「お姉様が気にすることではありません」とどこかやりきれない表情で漏らした。


 妹は、それから黙った。私も何か話すべきだろうか、と思いはしたけれど、止めた。中身がない薄っぺらな話題を上げるような場ではないように感じたからだ。ふと、妹は意を決したように表情を引き締めた。対する私も自然、姿勢を正すことになる。どうしたの、と聞くと、


「正直、自分に姉がいた、ということを初めて知ったとき。告白すると、本心から嬉しかったわけではないのです」


 純粋無垢な少女と高をくくっていた相手の、意外な発言に私は呆気にとられた。私の反応を解釈したのか、彼女は急に頭を下げだした。


「すみません。このような非情なことを、よりにもよって姉様相手に、口に出すなんて」

「いや、違う。違うの。だから、顔を上げて。髪が、汚れるから」


 私も思わず素の自分を表面に映しながら彼女を宥めた。彼女はデザートを食べ終えていなかったものだから、顔を下げた拍子に彼女の長髪が食卓に着かんばかりに垂らされてしまう。その金糸が汚れてしまうのではないかとこちらが気を揉んだ。


 妹は、痛切な表情を浮かべたまま私を見つめた。その表情を前にして、彼女がそのナイーヴな面を私に開放する勇気を振り絞ったのだと言うことを直感的に把握した。波が立っていなかった水面に混じっていた異物を、波紋を立てるリスクを犯して除こうと妹は決心したらしい。


「姉様が現れた直前に、母は亡くなりました。父は……その、親に対する言葉ではないとは承知していますが、それでも敬うには抵抗がある相手でした。私たちの家系は、偶然ではあるものの短命です。祖父母も私が幼い頃に他界しました。だから、私は家族をすべて失い、天涯孤独なのだと思っていました」


 そこに、私が。姉が居る、と突然に知ることになった。私がそう口にすると彼女は頷き、


「はい。だから、自分は真の意味で孤独はない。自分を一人ぼっちにしないでくれる人が出来るかも知れないという期待が半分。そして」


 そこで、彼女は先を口に出して本当にいいのかと葛藤する様子を見せた。果たして、自分の本心を相手に告げるべきなのかどうか。あたかも、私が妹の愛情に違和感を抱いているという事実を告げるのを躊躇ったように。けれど、やはり彼女は背格好こそ私に似ているけれど正反対だった。妹は、互いに傷を負うことを承知で言った。


「不安であり不気味でもありました。自分は拒絶されるのではないか。そもそも、育つ過程が違えば、お姉様とは価値観がどうしようもなくズレてしまっているのではないか、と。偏見ではありますが、姉様は、私とはあまりにもかけ離れた家庭で幼少期の十年を過ごされました。一般家庭……と言いますか、その、特異な環境で、です」


 彼女が慎重に言葉を選びつつも、それでももはやこの話題を綺麗事で終わらせることが出来ないと、私達二人は肌で感じていた。私も正直、普段通りの彼女に見せるマスクを保っていたかどうか自信がないくらいに、その部屋の重力が強く感じられていた。妹は、言う。


「私は、母様を母様だと思って育ち、今もそうです。あの、晦渋な表現で申し訳ありません。私が言いたいのは、つまり」

「私は、血のつながっていない女性を、母さんだと思って育ち、今もそう思っている。私たちの間にはそんなどうしよもないズレがある」


 助け舟、にしては言うほうも言われるほうにも緊張が走るのを避けられない、鋭すぎる発言だった。鋭利過ぎる刃物が扱いを誤った使用者を深く傷つけるのと同じだ。例えそれが言葉なんて言う空気の振動にしか過ぎないのだとしても。


 妹は意に反して自分の表情は膠着することを、姉は肌を汗の粒が一滴流れるのを自覚した。


 今まで、私は可能な限り互いの込みいった話を。具体的に言えば、自分たちのアイデンティティに関する話題を可能な限り避けて彼女と接してきた。それで何とか十年は騙し騙しやってきた、つもりだった。けれど、この時になって自分のそれまでの至らなさを思い知った。自分でもこうして振り返りつつ、なぜそんな単純なことに気付かずに過ごしてこられたのかと、迂闊だと思う。そんな話題を、片方の努力だけでそんなにも長い年月を欺くことなどが出来るものか。相手も、妹もまた、それを避けていたからこそ今までこの歪な姉妹の表面上の平穏が保たれていたのだと――。


「お姉様と、私がお慕いする母様への思い。そして、過ぎ去った日々を共有することはやは、出来ません、よね」


 フリーデントのどこか悲しげな視線に、私も首肯する。いや、せざるを得ない。付け焼き刃な嘘はお呼びじゃなかった。


 姉妹二人は、互いに危うい盤上での破綻を辛うじて回避していたことを改めて実感していたのだと思う。決して妹が触れようとせず、私も話さなかったタブー。そう、母親のこと。そして、それを取り巻くあの、幻想世界にしか残らなかった家に染みついた匂い。それらを互いにどこか問題意識を持ちつつも視界から隔離していた。その限界が、このとき来た。ただ、それだけの話。


 同じ女性から生の根をこの世に下ろしたはずの私たちは、けれどその信仰の対象が致命的なまでに異なる。そしてその狂いの元凶は、血が繋がって女性と私自身であることが、彼女と顔を合わすときは何時だって後ろめたく、恐ろしくもあった。彼女の姿を借りて、自分自身が己の破綻した価値観を弾劾しているような気がしていた。それでも尚、私は己の奇怪な幼少期に思い出という似つかわしくないラベルを貼り付けたままにしている。私という人間を構成する歯車の、何て歪なことなのだろう。


 私は、自分がそういうどこかおかしい人間だと言うことを理解していた。だから、妹に言う。まるでマリア像に懺悔する罪人のように。


「それは、貴女が気にすることではないと思う。血の繋がっていない女性に、真実が明らかになった今でさえも、本当の家族がするような感情をあのひとに私は向けてしまう。そんな、私の問題。私という人間の、欠陥、ね。そういう風に、あのひとを母さんと思うように刷り込まれたのかしら……。いや、多分違う。私は、あの偽りで塗り固められた狭い世界を心の底から好いていた。そして、今もその思いが恐ろしいことに変わっていない」


 本来何を言うべきか。それが定まってから発言するように私はしてきた。けれど、自分のことを、もはや赤裸々にジークフリーデという個人を語るには、どうしても抵抗が生じるのもまた事実だった。


 私は、最後まで語ることにした。かつて、数少ない心を許した相手。フランチェスカという少女にした。私のおぞましい物語を、妹にも聞かせることに私は決めた。


私は、輪郭が歪んだような不確かな世界で少女として生きてきました。

私は、血の繋がっていない女性を母として愛しています。

私は、何かに依存しなければ自分を確かめることが出来ないのです。

私は、空っぽな人形でした。

私は、そんな自分が好きではない。

なのに、分かっているのに、そんな自分を変えることは、出来そうにない。

だから、私は貴女のような真っ直ぐな女の子が憧れるような存在ではありません。

貴女は、私のような女を、無理に、家族だから何て、重荷に思わなくても、いい。


 そんな自らの罪の告発をした理由は、自分でもロマンチックに過ぎはしないか、とは思う。損得勘定やリスク管理なんていうノウハウはそこには一切無かった。


 フリーデント・フォン・フォーアライターというひとに。その話を打ち明けておくべきだと何かが私の背中を押したような気が、本当にした。多分、そうさせたのは私の脳のどこを探しても見つからないもの。例え、何かしらの学問体系で説明できるとしても、そうするには無粋な何か。心なんていう、言葉にしたら陳腐に感じてしまうものではないかと今でも思うし、そう信じている。いや、信じたいと言った方が正しい。私の歪みの元凶の一つでもある、他者への脅迫観念的な依存心。それは何かしらの学問体系に乗っ取れば解き明かせるのだろう。その程度のものだ。機械が解析する数列の連なりとそこにどれくらいの違いがあるのだろうかとも。ならばせめて、自分の正直な部分くらいのものは、非論理的なのは重々承知なのだけれど、特別な信仰の対象にでも昇華しないとやり切れない気がした。人間の全てを、理詰めで解析した先に何が残るのか。その先を考えることが恐ろしかったからかも知れない。私は声が僅かに震えるのを自覚しながら、言う。


「私は貴女の憧憬の対象にはなり得ない。そして、姉という役割を果たすのも、難しいのかも知れない」


 フリーデントは、何か口にしなければ、そんなことはない、とか、そんなことを言わないで、とか。私たちの間に広がる溝を、この期に及んでこれ以上深まるのを防ぐカンフル剤としての言葉をその唇は形作ろうとした。けれど、付け焼き刃な台詞が効力を持つとも思えず、寒さや冷たさすら伴わない沈黙を溶解する魔法の言葉なんてものは見つからなかったと見える。妹は、畢竟黙るしかなかった。


 空気が停滞していた。皿に置かれていたアイスティラミスは形を崩していて、カップに注がれていた飲料もまた熱を失ってただそこにあるだけの存在と化している。多賀に語るべき言葉は見つからず、ただただ時間が流れていくのを、数少ないオブジェであるアンティーク時計の歯車の音が知らしめていた。


 もはや、ゴット・ヘイグの要求を通せるか、なんていう事務的な話どころではなかった。彼には悪いけれど、私達姉妹はやはり、表面的な付き合いは上手く出来ても、互いの深部にまで手を伸ばすようなやり取りをするには、複雑に過ぎた。


 以前の、皇女としての仮面を自ら見つけていた頃であれば、こんな話の展開には決して持って行かなかった。自分の目的を果たせば、自分が何の益体もない会話を挟んでその場から離脱していたことは疑いもない。けれど、そんな役割に囚われていた年数よりも解放された短い時間が私にもたらした変化が勝ってしまっていた。ただ、言ってしまえばそんな単純な話。


 どれほど、私たちは机を挟んで向き合っていたのだろう。アンティーク時計ではない、人工的な電子音が、煩わしい羽虫のように囀りだした。その音が意味することを察するのに私は少しの時間を要した。ジークフリーデ皇女殿は予定を自分で逐一確認する質で、仮に何かを怠ったとしても本人よりも詳しいことがあるくらいの秘書兼侍女が、自身の予定について一言添えてくれた。だから、私は自分のスケジュールを教えてくれるようなアラームを設定するという習慣がなかった。目の前の妹が、よりによってこんなときに。例え、口が動かなくても私たちには会話の時間が必要なのに。そんな表情を浮かべたが、私的な事情と公的な業務。前者をとるには、今の彼女の立場は厳格に過ぎた。


「お暇、する」


 私がそう提案すると、妹は頷いた。利口だと思う。だって、首が降る方向に対して、その美麗な瞳が私の退出を拒んでいるのだから。それでも、私人としての立場よりも皇女という役職に彼女の天秤は傾いたらしい。私たちがしたことと言えば、煙が立たないように互いが避けていた場所に踏み込んで不必要な小火を引き起こしただけだった。


 周囲を、闇が満たすのを過剰に並んだ街灯が妨げる帰り道。同じ敷地内を徒歩で数十分も掛からない帰路に、護衛を兼ねてフランチェスカが黙って付きそう。


「私は、姉妹という関係を築く運命を持ち合わせていないかしら」


 私が何の気なしに漏らした言葉にフランチェスカは何も答えなかった。柄にもない運命論に、私たち姉妹の微妙な間柄に広がった暗雲を察知したらしい。私が彼女の立場でも、きっと答えることは出来なかったと思う。


 ありもしない重荷を、勝手に抱え込んで、自分で身動きをとれないようにしている。


 どこかで、そんな言葉を聞いたな。言ったのは誰だったかしら。思い出す努力をする気には、ならなかった。



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