3-4

 それが夢だ、と気付くのに少し時間が必要だった。


 私が目覚め、冷めてしまうことを引き留める懐かしの家が属する幻想世界。それが、明晰夢に変貌するのに体感では一時間弱は必要だったと思う。いや、体感という表現が、脳の処理速度に左右されるだけの空想世界に適当かどうかはわからないけれど、中々私が夢の中で自分が現実世界の住民であることを思い出せなかったのは確か。それは珍しいパターンだったから、若干の当惑感が脳のどこかで再現された馴染みの椅子に座っていた私を襲った。


 例によって例の如く、私の目線は幼少期にそれに落とされていた。けれど、私がそういう未経験の夢の展開に意識を向けた途端に元通りに。つまり、現在の身長に合わせた高さに修正された。


 母と二人きりで囲んでいた幼少期の思い出にしか存在しないはずの食卓。並べられた皿たちには、しかし料理が載せられてない。それどころか、私たちが食事した後すらなければ、これから提供される気配もない。私たち?


 連想ゲームのように私の疑問の芽は手を伸ばし続ける。周囲を見回す。母は、いない。自分は一人きりの世界にずっと座り続けていたのかしら、と首をかしげる。直前の記憶が無いのに、長い間そこに居たという感覚だけがある。何故私たち、という複数形の概念が浮かんだかと言えば、並べられた食器の数が私一人で格闘するには過多に過ぎたから。今も昔も、私は決して小食とまでは行かないけれど、あまり食事量は多い方ではなかった。


 大人一人と子供一人が使うその食卓は、一辺が一メートルにも満たない随分と小さな正方形に近い机だった。子供の頃はそんな風には思わなかったけれど、現在の体格の私から見れば狭すぎる。そこに並べられた空の器。それが何を暗示しているのだろう。はたまた、夢というもの自体がそうであるように、単なる脳による情報処理におけるノイズであるためにデタラメに切り貼りしただけの光景なのだから、ナンセンスの一言で片を付けてもいいものかしら。


 そんな風に、最初こそは自分が取り残された世界に恐怖感のようなものがあったのだけれど、次第にそれは薄れて美術館でアートを鑑賞するような気分になっていた。話し相手がいないのだから狭い部屋の内部を眺めて過ごすくらいのことしか出来はしない。そうしていると、何の前触れもなく目眩に襲われた。こんな視覚効果を伴うだなんて、凝った演出の夢だ。視界が安定するのを待つと、


「お姉様」


 突如、眼前に現れる虚像。それが妹の形をとったものだと僅かな間錯覚した。けれど、よく見てみると違う。第一、声や呼び方に微妙な差異が見られる。でも、声の主を妹と見間違うのも無理はなかった。目眩の後に出現したのは、何を隠そう私自身だったのだから。


「こうして見ると、私とフリーデント・フォン・フォーアライターは実によく似ていますね。姉妹ですもの」


 目の前の私が、自分が思っていたことを先に口に出してしまったので私は声を出し損ねた。それを狙っていた、と言わんばかりにもう一人のジークフリーデ・フォン・フォーアライターは続ける。


「けれど、中身はまったくの、別物。本当に同じ父親と母親を。彼女と共通のルーツを持っているのか、不安になってしまいますね」


 私は、奇妙な感覚を感じつつもその言葉に誘導される形で頷いてしまった。そして、どうも目前のフリーデが、ジークフリーデ皇女としての側面を再現したものらしいということに思い当たった。他者から見ると私は、いや、以前までの自分はこういう風に見えていたのね。そういう風に解釈するとつい顔がほころんでしまう。勝手に一人、面白い心持ちの私を人間味のない視線で捉えたまま、


「何かしらの返答がないと、話を聞いているのかどうか分からないのですが」

「あぁ、ごめんなさいね。きちんと聞いてはいる。そうね、貴女の言うとおりかも。あの純粋無垢な彼女と自分の遺伝子がどれくらい一致しているのか、興味が湧かないでもない」


 冗談半分に笑って答えて見せる。映し鏡は、同じ鉄仮面のまま。そんな風に見つめられると、何だか自分が悪いことをしたように思えてきてしまう。こんな表情の自分を公務で接してきた人々は見てきたのか。そう考えてみると、我ながら前皇女殿下は可愛げが無いと思う。そんな皇女殿はどこか、私を窘めるように、言った。


「貴女は、醜いですね」


 胸の中心を抉り取られるような痛み。それも、自分で自分の手首を切るようなものだから、致命傷にはならないが故に、この悪趣味な拷問が長時間に渡ることを予感させて余計に息苦しい。相手は所詮、自分の鏡。どのような返答がもたらされるかは直感しつつ、


「何が、かしら」

「全てに決まっているでしょう。第一、こうして私が問いたださなくても自然分かっていることでしょうに」


 その声音には私を揶揄するような響きはない。ただただ事実を。それでいて、相手の心象に的確な影響をもたらす言葉を紡ぎ続ける。


「まず、手始めに見た目から。まぁ、これはどちらかといえば妹に対する劣等感によるところが大きいですが。表情に彼女や、そう。例えばフランチェスカのような可愛げがあるでもなく、メルクーア・レイヤードのような独創性や生命感に溢れているでもありません。表情変化が少ない、と言うわけではないのは言うまでもありませんよね。単純に、我、というものが反映されていないのですよ、その表情レイヤーに。だから人為的な絵画のようでいて、どこか気色悪い」


 語られるべきことは自分の心。けれど、自分の身体の外部から発信された同じ内容を、感覚器官を通じて再認識することによって生じる痛みは耐えがたいものがある。苦し紛れであることを自覚しつつ反論を試みる。


「これでも、近頃はマシになってきたと思う」

「かも知れませんね。厄介ごと全てを他者に擦り付けたおかげで、負荷を感じながら毎日を生きる必要性がなくなったもので」


 それまで無表情に近かった皇女が微笑を浮かべた。それが、私が擦り付けてしまった一人。フリーデント・フォン・フォーアライターに見えるおかげで私は物怖じしてしまった。多分、こいつは、私は、自分の作り物の表情が相手に与える印象を万事理解した上で使っているのだと思う。 


 力一杯歯噛みしたくなるほど悔しくなる。けれど、下手な言い訳をすれば先ほどのように手痛いしっぺ返しを食らう様も容易に想像できる。だから、身動きが取れない。何も話せなくなる。どうしようもなくなくなり、試しに耳を塞いでみた。対面に座る私は、けれどそんな子供みたいな対抗策に哀れみでも内心抱いたのか、少し雰囲気を柔和にした。そのように演出した。


「そんなに堪えたのですか、自分の言葉ですのに。私も少し意地悪が過ぎたかも知れませんね。少なくとも、妹は、フリーデント・フォン・フォーアライターは自分の意思で皇女を継承することを決断した。私たちが彼女に何らかの影響を与えたのはもはや覆すことは出来ませんがね。それでも、彼女は自由意志の元、自身の秤の元でそうするべきと決めた。ならば、少なくとも彼女については貴女がそこまで罪悪感を抱く必要は無いのではありませんか」


 耳を塞いでも、まるで私の手がなくなってしまったようにその声は届いた。まるで耳小骨を内側から動かされるような感覚。もはや自分が逃れる術を持たないことを知った。聞かざるを得ない。例えその言葉が自分を蝕むとしても。手を下ろしてノーガードの私に、影は言う。


「妹の選択に自分が責任を感じる必要は無い……等と心の底から納得してはいませんようですね、結局。だって、それらしい理屈で自分を囲ったとしても我が身が潔白になるわけではありませんから。むしろ、汚れていくようにすら感じますよね。幾ら強固な鎧で身を繕っても、心の脆弱さは隠しきれない」


 身も心もお前は、とても直視に耐えるような人間ではない。


 自分にそう言い含められて、私は反論できなかった。


 それくらいのこと、わかってはいる。ただ、少しの間目をそらしていただけ。それくらいの弱さすら、許されないというの。決してそう口にしたわけではないが、皇女はその疑問に答えた。


「そんなの、私が知るはずがないでしょう。私が貴女自身であることは嫌と言うほど身に、いや、その精神に沁みていることですから」


 案の定、励ましの言葉なんて与えられることなんてない。


 私の視界が滲んでいたのは、私が涙を流し始めたということだと思う。頬を伝う液体を私は拭わなかった。ただただ、拳を膝の上で握りしめていた。何もしない。


 そのくせ、私はこれが明晰夢であるならば、少しくらい自分にとって都合の良い展開が起こるのではないか、というかすかな希望を捨てきれずにいた。そう。例えば、いつかの日のように。ある男性が長年の私の思いを一夜にして解してくれるような救いが。自分のような人間でも、新たな視野を広げる端緒が不意にもたらされることがあっても。


 ふと、肩に暖かい手の感触。そして。


「何を期待しているの。ここは貴女が作り上げた世界。貴女が見いだせない解をもたらす救い手なんて、現れる筈がない」


 希望と言うにはあまりにも朧気な火は一瞬にして消された。皇女は私の肩に爪が食い込むほど強く握りしめると、そのまま力任せに椅子ごと私を押し倒した。


 夢のくせに、なんでこんなに痛いのだろう。


 受け身もとれずに背中と後頭部の両方を床と椅子の背もたれとで強打したらしい。痛みにあえぐ声とともに肺の空気が強制的に体外に放出される。苦しい。丸まりたい。もっと息が欲しい。けれど、そんな生存欲求に似た願いは果たされなかった。仰向けのまま、さらに追加で声と息が自分の口から漏れる。私を押し倒した私のペルソナが、私の腹を足で踏んでいる様を滲んだ視界の中でも認識できた。


 じわり、と体重が掛けられ始めた。滲出する痛みと恐怖に比例するかのように眼球を覆う涙が増えていく。


「私が何を言いたいか。分かっていますよね?」


 私は返事なんて出来なかった。何も出来はしなかった。ただ生まれたての赤子のように私は無力だった。


 冷気を纏った声。そして、自分の腹部を襲う重圧。


 痛い。いや、酷い。でも、ここは現実世界じゃないのだから、死んだりはしない、はず。いや、だからこそか。こんな痛苦、この世に存在するとは思えない――。


 誰に対してのものなのかも分からない謝罪と許しの嘆願をしながら泣き喚いた。しかし、途中からは声も出せなくなった。その代わり、自分の口が噴水のように血を吐いた。赤い液体に混じった、ぬるぬるとして、てかてか光るモノが自分の腹から出てきたのだと知って、ぞっとした。私のお腹と背中が完全に一つになるまでその責め苦は続いた。初めからこの幻想世界に私が頼れるものなんて何一つなかったのだ。

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