第四章 ソウカイの果てに

第八編 足利尊氏

第四十話 八周目

第八編 足利尊氏

第一話


「はい、いらっしゃい。檀上君から話は聞いてますよ。適当に座って寛いでくださいね」


改めまして、本学で教授をしている下坂康弘と言います。専門は中世日本における領土開拓史ではありますが、通史として新政時代の末期から南洋時代にかけての文化史なども学部向けでやっています。研究対象がどちらかと言えば内政にまつわるものですから、檀上君やスギモトさんのように外交・軍事について詳細な話はあまり出来ないのでそこはごめんなさいね」


では、前置きは程々にして始めて行きましょうか。とはいえ足利尊氏の足跡を辿る前に、元朝との実質的講和及び高麗との軍事同盟締結前後における国内の話をしなければいけません。高麗戦役終結後、元寇を名目とした防衛設備建設や軍備の新調は大幅に減少することになりました。これらに携わっていた者たちが困窮すれば、経済活動にも影響が出てきます。今で言うデフレーションに近い状態ですね、こうなると朝廷としてもその対応を考えねばなりません」


ところで対外戦争たる元寇と高麗戦役に際して中心的な役割を担ったのは近衛軍ですが、内包する警察官僚的な組織も相まって国内治安の維持についても設立直後から既に影響力を持っていました。これが何か知っていますか?」


そう、検非違使ですね。曲がりなりにも平和が戻ってきたことで、この組織がさらに重要性を帯びてきます。特に元寇直前に避難を名目として東日本へと多数の住民を移動させたため、元々の住人との間で大なり小なり軋轢を産みつつありました。これを仲裁し、現地で実務を行ったのが彼らです。その需要の大きさから、次第に近衛軍は警察組織としての傾向を強めていきます。先程述べた職に困った者達の吸収先がここになったわけですね」


また彼らの能力は治水や干拓といった公共事業にも用いられました。関東平野は当時利根川水系が定期的に氾濫する場所でしたから、それを安定させ、より農業に適した土地に変えようとしたわけですね。これは非常に大規模で長期に渡る国家的事業で技術的課題も多く抱えていましたので、希義の坂東統一後からの動きがあれども、その変遷はゆっくりとしたものではありました。しかしこれによる農地の新規開墾や水路・街道整備、結果としての人口増加は現代の東京、関東一帯の基礎となったんです」


そしてこのとき生じた人口増加によって、地方行政制度の改革の必要性が生じてきました。希義による坂東一帯の制圧後、束ねられていた土着の有力豪族を中心とした合議体制だけでは行政官が不足し、柔軟な執政が難しい事態に陥ったわけですね。奥羽、つまり今の東北地方も同様の状態でした。とはいえ平安京に詰めている公家たちはもちろん、既に貴族化が進んでいた近衛軍創設にゆかりのある武家上がりの者たちも、口を出すのはともかくあまり出向はしたがらない。現代と違って任地に赴くだけでも一苦労ですし、場合によっては二度と京へ戻れない可能性もありましたから。知識階級限定ではありますが、一極集中が起きかけていたんですね」


「この問題は存在を認識されつつも、具体的な検討が加えられた形跡はあまりありませんでした。言い出しっぺになることを恐れたのでしょうね。とはいえこのままでは地方の統制がおざなりになってしまう。これが何を意味するのか、明確に把握していた者は僅かだったでしょう。そしてその数少ない人間同士である、二条宮尊治親王と足利尊氏…当時は高いと書いて高氏を名乗っていましたが…の出会いこそが、この後の日本の内政、外交に大きな影響を与えることになりました。」




































-文保3年(1319年) 11月中旬 二条宮家邸宅-


 己が誰に転生したのか把握した時、過去一番に驚いたわ。よりによって足利尊氏とは…北条義時六周目の時もビビったが、とうとう“史実”の征夷大将軍まで行き着くかよ…あまりのことにしばらくは顔が引き攣って仕方がなかった。そしてそれによって追加で分かったことがある。


『おお、そなたが民部少輔か!足利の駿馬と名高いそちに会えて嬉しいぞ』


『………………』


〔やっぱり満面の笑みに見えますね、その表情〕


 やめろ、この野郎。


 なんとこの体、顔が引き攣ると笑っているように見えるのだ。“史実”の尊氏は命の危機にあっても常に笑みを携え動じない胆力のある人間だったという逸話がある。ところがその話は、彼の他の言動と食い違う部分があった。そのせいで資料の偏向などもあったとはいえ、双極性障害だったんじゃないかという説まで出たほどだ。しかしこれでハッキリした。要するに、ヤバい時は全部顔が引き攣ってたのだ。本人的には強がりだよ分かってよとでも思っていたのかもしれないが、運がいいのか悪いのかそれで全部貫徹できてしまったのだろう。ある意味武家にとって最も理想的な身体的特徴を持っていたと言っていいかもしれない、なにせどれだけピンチになっても周りが勝手にいいように誤解してくれるのだから。そりゃ「史上最も意味不明な征夷大将軍」呼ばわりもされるよ…


『ほほほ、戯れじゃ、許せよ。そなたに関心があるというのは本当だからの、色々と話を聞いてみたかったのよ』


 そして今も、向かい合う貴人が好意的な勘違いをしてくれている。二条宮尊治親王。“史実”では後醍醐天皇と呼ばれた御仁その人だ。そりゃ顔が引き攣るに決まっている。なにせ“史実”じゃ主君であり裏切りの対象でもあったのだから。そして当然だが、“史実”には二条宮などという世襲宮家は存在しない。これはどういうことなのかといえば、橘逸勢一周目の時に提唱した皇位継承法案が源平合戦を経て、後嵯峨帝の決定によって定着したことに由来する。これによって両統迭立が未然に消滅し、大覚寺統と呼ばれるはずだった恒仁親王亀山帝の系譜は嫡流が木寺宮を名乗る世襲宮家になったのだ。当主が宮号を名乗り、かつ親王宣下をこうむって開いた世襲宮家の成立は前例がほぼない。にも関わらず立てられた理由はいくつかあるが、その中でも元や高麗が大きく関わっている。


 モンゴル帝国が勃興したとき、近衛軍に関わりのある人間はともかく従来からの公卿はあまり危機感が無かった。しかし元朝が中原の地を支配し、高麗への侵攻と後高麗の成立を経てその空気感が次第に変わっていった。決定的だったのはやはり、高麗帝室そのものの日本への避難とそれによって生じた交流で現状把握ができたことだろう。当時私は朝廷の外にいたのもあって伝聞の形でしか知ることができなかったが、どうも親王家が少ないことが問題視されたらしい。庶流は法親王として血筋を残さず、皇家の騒動を起こさないという方針はあったが、医療の発達した21世紀と異なり常に嫡流が継承出来る保証は無い。加えて“史実”では中宮の子では無いものの皇族将軍として遇された後嵯峨帝の長子、宗尊親王のこともあった。殿下自身は早期に臣籍降下していたこと、またその血脈が男系嫡流は断絶の憂き目に遭っていたため家そのものがどうこうなったわけではなかったが、備えや皇位継承の控えを安定して輩出できることに越したことはない。丁度恒仁親王は嫡流かつ二の宮ということもあり宮家創設に至ったようだ。


 とはいえ木寺宮家はあと3代ほど後からのはずだったんだがね…ここでも歴史が変わっている。そして木寺宮世仁親王、すなわち“史実”の後宇多天皇の次男として別家を立てることが許され、その御所の所在地から二条宮を名乗った。御本人の高い力量と、“史実”を考えれば皮肉ではあるが治天の君たる後伏見天皇と年齢が近く信頼が厚いということもある。とはいえ枝葉は広い方がいいということなのだろう。なお本来この時期の元号は既に元弘になっているが、そうなったのは治天の君が後醍醐天皇になったからである。それがない故に、文保が未だに使われているのだった。


 しかしねぇ、いくら清和源氏嫡流に近いとして近衛軍立ち上げの頃からそれなりに厚遇され、極位正四位下と名門扱いになっている足利氏の嫡男に収まったと言っても、元服直後のこの時期に接触するというのは常識外れにも程がある。当然、“史実”にもそんな事実は無い。尊の字は建武の新政において勲功としてこの御仁から頂いたものなので、私の偏諱もまだ「高氏」だし。家督もまだ継いでいない、父上は早いとこ楽隠居したそうにしていたけどね。それにそもそも主筋という点で言えば、今世の源氏長者にして希義が曾孫、胤義に拝謁したこともまだほとんどないのだ。


『…話と仰いますと?』


『元服前から父御の前民部大輔をよく支えておったと聞いておるぞ。公家が赴任を嫌がる東海道、東山道の仕置についても腹案があるとな…そなた、さては京の外が荒れれば何が起きるか考えたことがあるかな?』


 …驚いた。だがなるほど、か。しかしこの歴史では配流の経験も無いのにそこに自力でたどり着くのか、この宮様は。


 元寇、そして高麗戦役と呼称されるようになった彼の地での戦いがひとまずの終結を見た後、近衛軍は必要性が薄くなったとしてその予算を削られた。そりゃあもう清々しいほどにガッツリとだ。高麗との同盟について奏上文を起草するついでに遺言の形で細々とでいいから軍事技術の研究と兵の練度維持に努めた方がいいと忠告していなければさらに酷いことになっていたかもしれん。


 日本は当面脅威に晒されることはなくなったかもしれないが、紅巾の乱の勃発とそれによる高麗への侵入など、不安定要素はいくつもある。仮に海賊行為によって沖縄への航路が遮断されれば大損で目も当てられないことになるだろう。辛うじて軍隊としての体裁は保たれたが、警察組織としての性格が強くなってしまった。元寇において島嶼の住民を移住させたり、それによって起きる混乱を現場で仲裁したりしたのが原因だから、ある意味私の自業自得ではあるのだが…


 しかしこれのせいで地方の土着豪族、あるいはそこから排出され近衛軍の組織に関係した者たちが土地を実効支配しつつあるのは少々問題だ。今はともかくそういう状態が延々と続けば武力を有する彼らが押領に及ぶということにもなりかねない。その状態で妙な閥でも出来れば将門や純友の再来中央集権体制の崩壊だ。とはいえ地方官僚は現地の人間から採らざるを得ないし、公家連中を無理に赴任させても名ばかりになってしまえばそれもよろしくはない。そういうわけで、今世の父上こと足利貞氏が民部大輔に任じられていたこともあり、善後策を練ることから始めていたわけだが、どうやらそれがこの御仁の目に留まったようだ。


『当家は吉見家、阿野家、愛智家、奥藤家に次ぐ清和源氏嫡流の門葉にして源平合戦以来戦も政も多数経験した一族、そのような話題も出る故に多少愚考した次第でございます。宮様のお考えは如何でございましょうや?』


 問いかけるとにっ、と破顔した。皇族ではあるが尚武の気風を感じさせる豪胆な笑みだ。


『うむ、私も皇族の端くれとして宮中から政を見てきたがどうにも畿内以外のことは見えにくい。そこで昔の日記を借りたり、近衛軍の諸将や地方の国司に任じられていた者に色々と聞いたりしての。それで一つ思ったことがある』


 一旦口を切り、すっと真面目な顔になる。


『西方、とりわけ山陰山陽から筑前にかけては元寇、高麗戦役もあって人が集まり、活気があるようだの。国司は街道が広く街も住みやすい、随分とやりやすかったと言っておった。だが東国、それも関東以北ともなればそうはいかぬ。任国に行くのも一苦労な上、どうしても京に比べれば田舎に見える。昔であれば遥任では利益を取られかねぬと言って受領する者も多かったようだが、昨今は任国の近衛軍の頭に全てを任せている者もおるとか。政の大まかな方針は決めていると言っておったが、それではいずれ有名無実になってしまうであろう。戦が無くなって人が増え、官吏が足りないからと言えども、武家に全てを任せるというのは…源平合戦のことを思えば、良いことばかりではないどころか、帝のあり方にも関わりかねないことよの』


 受領と遥任の差は、要するに実務の委託の有無だ。国司の中で領地に赴き実務を自身で執り行う最高幹部が受領、任地へ行かないのが遥任。まあ国内が平和になったと言っても住む土地を離れたくないのが心情だろう、現代の価値観とは異なって当然なのだ。だがそれが続いてもたらすのは中央政府への不信、権威の否定…天皇、皇族のあり方に関わるという見立ては決して過大なものとは言えない。


『宮様の御懸念、もっともなことと存じまする。これを解決するといたしますと短期的には是が非でも国司として任国へ向かわせるという手がございましょうが、これはこれで担当となる貴族、地下人の不満が溜まりましょう。あまり良い策とは言えませぬ』


『そうよな…ふむ、短期と言うたな?では中長期的な方策はなんぞ腹積もりがあるかの?』


『上手くいくかは分かりませぬが…』


 この時代、“史実”における室町時代から発達したものに、鎌倉府がある。鎌倉幕府を参考に関東を束ねるために置かれた行政機関だ。鎌倉公方、後の関東公方を頂点として関東一円を束ねる組織だが、こいつの構造というか発想は決して悪くない。軍事権は既に近衛軍が取りまとめているから、軍政分離の下地もあるしな。東北、関東、北陸、中部、山陰山陽、四国、九州、そして沖縄。各地に創設した地方行政組織を軸に、国や郡の単位を超えて行政権を行使してもらう。それを受けてそれぞれの土地で実務に反映させる。幕藩体制に中継ぎの政体を入れた感じが最も近いかな。大規模な幹線道路の工事や都市建設計画が必要になるだろう。だが成立させられれば地方へ行くのを嫌がる人間も減るはずだ。それぞれの長官や派遣官僚は世襲ではなく実務の成果に応じて決めよう。帰京後の出世に箔が付くようにすれば、地方下向後でもやる気を出してくれると思いたい。あとは現地の人間を採用して、これも中央と相互派遣を行うべきだろうな。日本全体での経済発達、文化や政治交流の活発化にも繋がるはずだ。


『…ふむ、あらましは分かった。ほほ、大言壮語だが実現すれば面白いの。私も帝や本家に掛け合ってみよう。して、名は何とする?』


 名前か、あまり考えたことなかったな…安直だがそれぞれの地域名に題か府を使うのが丸いかな?


 一瞬まごついたのを見て、宮様がニヤリと笑った。


『では、それぞれの土地を管領する、転じて管領府というのはどうであるかな?』


 待てよ、確か管領って…


〔管領職は室町幕府将軍の補佐職、執事が諸々の確執を経て代替措置として設定されたものですね。南朝に降った細川清氏の頃に別称として用いられ、その後任になった斯波高経が正式に使い出したものです〕


 …おいおい、歴史ってのは因果だな。




































「尊治親王との邂逅を機に、尊氏は管領制度の構想を打ち出しました。この名残は現在の地方行政区分の形状として存在していますね」


長期事業ではありましたが、本人の折衝能力や事実上後ろ盾となった尊治親王の公卿、各組織における有力者とのつてもあり、西暦1325年に実現の目を見ることとなりました。太政閣、政務議閣を参考に創設され、京と地方の間で積極的な人事異動が奨励されたこの構造体は、人材雇用と経済発展、文化の相互交流に大きな影響をもたらしています」


また初代管領に選ばれた者たちが彼ら二人に近しい関係の者であったことは、前述した他の貴族たちの感覚を踏まえればある種必然と言えました。関東管領上杉憲房、北陸管領畠山家国、南海管領細川和氏、九州管領斯波高経といった足利一門の内政における重鎮に加え、残りが奥羽管領北畠親房、東海管領近衛基嗣、中国管領坊門清忠、沖縄管領世尊寺行房と尊治親王が目にかけていた若手貴族で構成されていますからね。右大臣に任ぜられているにも関わらず本人の強い希望で赴任した近衛基嗣を除けば、堂上家出身の者たちは正四位下であったことから、連動して足利一門も大きくその家格が上昇することになりました」


当然ではありますが足利本家の当主である尊氏も従三位へと昇り、民部卿に補任されます。近衛軍から貴族へ転向した一族としては源宗家とその支流に次ぐ一大出世ですね。彼に最初の偏諱である高の字を与えていた北条氏は本家の極位が正四位下ですから、立場が逆転してしまったことになります。尊氏の人望と血筋の積み重ねた歴史、朝廷内部における実力主義への一定の理解が無ければ酷い権力闘争が起きていてもおかしくはなかったかもしれません」


このように、尊氏は若年期においては文官としてその才を発揮していました。これは父貞氏だけでなく、足利氏の家宰を務めていた高師重、師直父子の影響もあったと考えられています。また近衛軍に実戦指揮官として残った一族とも積極的に交流を進めており、薫陶を受けた者たちの中には後に管領に就任した者もいます。京極道誉、赤松則祐、大内弘幸、伊勢貞継、今川範国など足利一門からそうでない家系の出身者まで広範に渡っていますね」


「これらの交流が円滑に行われた理由の一つとして、尊氏の力量が政務のみならず、軍事の面でも秀でていたことが挙げられます。いくら武家の名門と言っても元寇の頃には貴族に近い家系でしたから、年齢も相まって初対面では侮りを受けることもあったようですが、そんな人々を実技理論共々におとて舌を巻かせることが多々あったようです。彼の能力を自身の分野においても認めざるを得なかったわけですね。とりわけ土岐頼遠との逸話が有名なものと言えるでしょう。北海道の領土化、北畠顕家との交友、遠早船の発明など、尊氏後年の華々しい活躍に直結する話題ですからね。」

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