第三十九話 雪解け

第七編 北条時頼

最終話


-嘉元元年(1303年) 9月末 平安道北部(現江界市)-


 一山一寧は、妥結点がまるで見えない議論を延々と続けるという自らの置かれた状況に、辟易としたものを感じていた。


 いや、うんざりだけではない。最低限の手勢が控えているとはいえ、既に交渉相手である高麗の支配地に乗り込んでいるのだ。代表とはいえ、外交官としての場数も大して多くない一介の僧侶が恐怖を覚えるのには十分な状況であった。その上日本からの来訪者もいる。表面上は丁寧な言動に終始しているが、日夜高麗の者達と会談している上にこちらと会う時には常に刀を傍に置くか、佩くかしている。尾ひれがついたおどろおどろしい噂しか聞いた事のない相手がそんな言動で数多くいるのだから、いくら禅に関心のある者たちと聞いていても怯えるなという方が難しい話だった。訪日経験のある同行者、西礀子曇せいかんすどんも尋常ではないと訝しんでいる。国書の内容は最初のそれとさほど変わらず、加えて同行している元の者たちは平行線どころか神経を逆撫でするようなことしかしないのだから、胃痛と頭痛は日夜酷くなるばかりであったし、彼らの面の皮の厚さにはもはや一種の感動すら覚えていた。


 だから日本の使者から禅について教えを請いたいと呼び出された時には魂が飛び出るかと思うほど驚いた。しかしこれを一つの契機、話の取っ掛りとしようと僅かばかりの希望も抱く。そして複雑な胸中を押し殺しながらも指定された座へと出向いた彼を迎えたのは日本の者たちだけではなかった。高麗の者も居合わせていたのだ。

どうも単純な話では無いらしい、と話を聞いた時に浮かんでいた一抹の不安を確信に変えて覚悟を入れ直したが…入室してきた西礀子曇が怪訝な顔をしたまま座に着いたのを除けば、元の者が来る様子は一向に無い。


『突然の呼び出しに応じて頂きかたじけぬ。西礀子曇殿はご承知の通りであるだろうが、我らの国元には貴殿の修めた禅を学びたいという者も多いのでな。実現のために是非とも忌憚のない意見を聞かせてもらいたい』


 物腰とは裏腹に分かるな?と言わんばかりの覇気を放つ老翁が、そう口火を切った。今の状況を収集するために、実務担当者目付け役を交えず交渉をしたい…外交の経験がほぼないといっても、言外に告げられたその意味を正しく把握出来ないほどのボンクラでもなかった彼は、想像以上の重責を背負わされたことに頭を抱えたくなった。横目で見れば、西礀子曇も顔を引き攣らせている。


『…国書かそれに準じるだけのものでなければテムル元の今上の得心を得ることは難しゅうございますぞ。最後の戦の後、元は幾度も他国と戦をし、内乱の鎮圧をも行っております。高麗人の方々にはご不快かと思いますが、元にはフビライ世祖の頃より、高麗は属国になるべきという認識がございます。この認識を正面から拒絶するとなれば今一度の戦は避けられませぬ。故に日本はともかく、せめて高麗にはいかなる形であれ朝貢を行って頂かねば…』


 属国という言葉を発した時、高麗の人間が露骨に顔を顰めたのが見えた。朝貢という言葉には、ため息を吐く者もいた。首を振るのは高麗の文官代表、金主と名乗っていたか…


『それが駄目なのですよ、一山一寧殿。今の時勢では、どれだけ言い繕おうとも何らかの形で戦費か兵の供出を求められることは明白。陳朝、占城ちゃんぱ、蒙古の西方諸国…朝貢とは名ばかりで負担は我々に一方的にのしかかることになる。それではまた戦で国土を荒らすのかと民の反乱を招きかねませぬ』


 それに、と彼の言葉は続く。


『そもそも朝貢という形式を嫌がる者が非常に多い。これは宮中だけの話ではありませんぞ、農民を含めたあらゆる者たちでの話です。かつて遼が北にあった頃、我々は彼らと約定を結び互いに侵さず侵されずの関係を築いた。そして貿易によって富を得た。兵を徒に使わずとも、臣従の礼を取らずとも、相互に恩恵のある関係。それでいいのではないか、そう思ったのです』


 薄々と感じていたことだった。いや、彼らが独自の元号を使い、帝を名乗って統治していることの重大さをもっと考慮すべきだったのだ。日本と同じように、高麗もまた冊封体制から抜け出そうとしている…それはもはや、蒙古の興した国であるということであっても理由にはならないだろう。中華の外交における前提が音を立てて崩壊していくのを感じ、一山一寧の顔が憂いを帯びた。





-嘉元元年(1303年) 9月末 平安道北部(現江界市)-


 一山一寧と西礀子曇、共に渋面を作っている。彼らからすれば固定観念が覆されたようなものだろうからな、華夷秩序から脱却しますと言われてはいそうですかと受け入れるわけにはいかないのは理解する。


 もっとも、するのは理解だけだ。助力したとはいえ元に反旗を翻し、国土の回復に成功した彼らの力量を鑑みれば、至極真っ当な話ではある。中華の国があれば事情が変わったかもしれないが、宋は頼りにならなかった。もし新たに建国されたとしてもダルガチの二の舞でもされれば目も当てられないことになるだろう。それならいっそ、となるのは自然な成り行きであった。


 それに、二度の元寇とそれに続く朝鮮半島での反攻作戦は随分とアジアの情勢を変化させた。水軍は二度も壊滅の目に遭い、あまつさえ通常の兵力までもが朝鮮半島に大きく取られた結果、国内治安の維持に支障をきたすまでに至っていた。結果、オゴデイ家にルーツを持つカイドゥを首班とした大反乱の鎮圧が未だに出来ていない。


 このカイドゥという男が手中に収めるウルス所領だが、トランスオクシアナからアルタイ山脈東麗に至るものとなっている。“史実”ではフビライの死とテムルの相続、それに伴う元朝の外交安定を見越した他家の王が元に投降した。それにより1301年にテケリクの戦いが発生、そこで受けた矢傷を原因として死んでいるのだが…そもそものきっかけである元への臣従が起きておらず、結果的にカイドゥの求心力は衰えていないようだ。テケリクの戦いに相当するような決戦も起きておらず、じわじわとその領土を侵食している。このままでは下手を打てば元朝がカイドゥ・ウルスに併呑される可能性すら出てきた。そこまで行けばもはやモンゴル帝国の再誕だな。


 そしてそんな宗主が相手では見限る国も続く。陳朝は1287年の侵攻を退けた後に朝貢貿易を積極的に進めていたが、ここに来て隣国チャンパと共に隙を伺うような姿勢を見せている。陳朝上皇、仁宗の娘とチャンパ王の婚姻は陳朝官僚の反発があり、その慰撫のためにチャンパから領地を割譲してもらっていたはずなのだが、それがない。要するに、元から奪えということなのだろう。チャンパ共々、ここ数年は朝貢も理由をつけて中止しているようだ。あわよくばという下心に対し、元側はあまり有効な手を打てていない。


 現代のインドネシアにあたる地域でも変化は起きている。元の侵攻を受けたジャワ島では、マジャパヒト王国が建国に至った。これはシンガサリ国王の娘婿だったラデン=ヴィジャヤが元と同盟を組み、亡国王朝の血筋を引く地方領主によって乗っ取りが起きていた祖国を滅ぼし、その上で元をも追い返して作った国だが、フビライの死後になると国交が復活し、朝貢貿易が盛んになった。マジャパヒト王国はシンガサリ王国の後継としての性格上、スマトラ島にも大きな影響力を有する。これによって元は南方海域を掌握し、現在のマラッカ海峡を通る航路を手にすることができた。インド洋、ひいてはアラビア半島まで行き着く海上輸送ルートの開拓は、国力の増大に非常に大きく寄与する。軍事力だけではない、それを支える経済力こそが元をこの時代の超大国たらしめる源泉であったといえる。


 しかしこの歴史では肝心のマジャパヒト王国が朝貢貿易をしていないようだ。遠征自体はあったようだし、ジャワ島から追い出されたのも隠密衆らの調査で確認済みだ。となるとおそらく、値踏みしているのだろう。個人の貿易はあるとしても、これでは通行の安全をきちんと保証することは難しい。大規模な交易が無いとすれば、その分経済的にも落ち込みが出る。巡り巡って軍事力にも影響が発生するだろう。“史実”と比べて余力に乏しく、周辺国との関係改善も出来ていない現状を、フビライの跡を継いだテムルがどう考えるか…やはりあと一押し、二推しといったところかな?


〔例のプランの提示が一番効くでしょう。彼らにも、モンゴル人にも危機感を抱かせられますから〕


 まあ、そうだな。半分くらいは絵餅ではあるが、リスク的には無視できないはずだ。


『金主殿含め、本来なら高麗人の方々とお手前方の間の問題ではあるが、高麗は日ノ本にとっても重要な相手。先程述べられた条件が受け入れられないとなれば、我々とて見過ごせませぬ』


 口を再び開いて牽制をかけると、西礀子曇の顔色が悪くなった。彼は日元関係が小康状態にあった僅かな期間で来日し、禅宗の発展に注力していた知日家だ。孫の貞時が弟子の礼を取っているが、特定の宗教に帰依しない私に対しては微妙に苦手意識があるようだ。とはいえある程度その言葉の意味するところを察したらしい。


『…元を攻める、と?』


 掠れた声で一山一寧が問う。こちらは流石に、今の一言で理解しろというのは無理があるか。


『今の我らにそこまでの余力はありませぬ。しかし海上から隙を伺うことはできる。そうなればまた兵を分散させねばなりますまい。そのような状態で東、西、南全てと争えますかな?』


『…………』


 多分、難しいだろう。ただ、現実的ではないとも思っているはずだ。それを崩す一手があるのだが…さて、どう突きつけるべきか。この時代、国際貿易なんて概念を理解している人間はほぼいないだろうからな…





-嘉元元年(1303年) 9月末 平安道北部(現江界市)-


『それと、南方に海賊が出回るかもしれませぬな。ただでさえ小さな規模の貿易が荒らされれば、商人たちにとってそれはさらなる不満となる。周辺国も困るでしょう』


 どこか他人事のように話を続ける老人に、西礀子曇は困惑した。いや、流れを考えれば海賊というのは彼らの意を受けて放たれるのだろう。だがそれが高麗や日本、元とどう結びつくのか彼の中では皆目見当もつかなかった。


『交易であれば我ら日ノ本も欲している。空白地帯に日本の商人が入り込みましょう。そこで元は弱っているが内に金銀財宝を貯め込んでいる、東西南北から挟撃して山分けにしようと他所の国も考えているとでも噂が流れれば…』


 戦慄が背筋を走る。もしそうなれば。それが上手くいってしまったら。中原の地はその全周を包囲されてしまう。文字通りの四面楚歌だ。そして為す術なく複数の異民族に蹂躙されかねない。なんということを考えるのだろうか。一体いつからそのようなことを考えていたのだろうか。まさかこの交渉中にも手筈を整えているのではないか…? 加速する思考にあらぬ疑念まで頭をよぎり、隣で聞こえた生唾を飲み込む音で我に返る。改めて翁の顔を見た。表情が読み取れない、抜け落ちた面のような印象を受けた。


『ま、我らはあくまで不可侵を要求しております。朝貢でなければ貿易はむしろ歓迎する所存。よくよく考えられたい』


 今更好々爺のような笑みを見せられても、虚無的なものにしか感じられない。裏にうっすらとへばりついた圧は、理解の範疇を超えた謀策を何事でもないかのように述べる精神への空恐ろしさは、畏怖として二人に叩き込まれた。それから逃れようとして、無意識に顔を見合わせる。なんとしてでもこの交渉をまとめなければ。固い意思が、刹那の視線の交差で感じられた。




































「交渉は一月以上に渡り、最終的に元の交渉者は自身の要求を撤回する結果となった」


というよりも、時頼の脅しを受けて協議した内容を持ち帰らざるを得なくなったと言うべきか。元々高麗を服属させた上で日本とは関係性を曖昧にしたまま手打ちという線で見ていたようだが、全方位に火種を抱えていたのを突かれたわけだ」


時頼含め、我が国及び高麗が南方・西方の事情に通じていた理由については明確にはなっていないが、まあ隠密三部がそれぞれの持ち場で動いていたと見るのが道理だな。沖縄を軸にすれば、マラッカまで行動範囲を広げることは決して困難とは言えない。近衛艦隊の立ち上げからそれなりの時間が経過し、複数の海戦経験も得たことで、外洋航海及びそれに耐えうる船舶建造の技術は十分蓄積されていたからな。少し後の話にはなるが、それらが遠早舟…ひいては三国船として結実するのを見ても、当時の世界水準に達していたと言っていいだろう」


つまり時頼の示唆した包囲網が形成されれば、陸路も海路も潜在的、顕在的問わず有力な敵対勢力によって完全に封鎖されることとなる。厳しい話だな。もちろん今では対元大同盟など影も形も無く、我が国もこの時点では単なる情報収集以上のことは出来ていなかったと分かっているのを踏まえれば、幻想に過ぎないと一笑に付してしまっても良かったのかもしれない。しかし技術の発達した現代と違い、あらゆる活動に物理的な制約がついてまわる当時では、そこまで看破することは難しい…つーよりもその可能性が見えている時点で対策をしなければならないという、古今東西に共通した防衛戦略の基礎を踏まえれば、軽視しろというのが無理な話だろう」


「それにいずれも一筋縄ではいかなかった、あるいは敗退さえした勢力だ。警戒心が無い方がおかしい。さらにその中でも脅威度が高いのは西のカイドゥ・ウルスと東の日本、この二つが手を組めば陸海からの挟撃に加えて高麗まで動きかねない。ではどちらとの関係を改善すべきか、そもそもそんなことが可能なのか? これは一目瞭然だった。そして元朝二代皇帝テムルは統治初期の評判や先代フビライとは異なり、外交に関しては即位直後と没年直前でその方針が随分と異なっている。これは彼の悪癖に由来するものであるから、人生何が幸いするのか分からないもんだな。」




































-嘉元元年(1303年) 11月中旬 大都(現北京)


 使節の持ち帰った返答を聞き、右丞相ハルハスンは苦い顔をした。


『……倭の連中、相当に強かと見える』


 まさかこの大元に脅しをかけるとは思ってもみなかった。子飼いの者に聞けば、隋朝の頃からがあったという。まして今回は高麗までもが反旗を翻していることを踏まえれば、情勢はより悪いと言えるだろう。そして今は宮中政治も極めて微妙な均衡の上に成り立っている。今上が酒乱と荒淫で床に伏せがちで政務をあまり取らないことが大元の原因だ。代わりに実権を握っている皇后ブルガンは権勢を誇っていたコンギラト部族の出自ではなく、バヤウト部族の出身である。自らの産んだ皇太子デイシュがいるからこそ、見かけ上その立場は安定しているように見えるが、今上の兄、ダルマバラの未亡人にしてコンギラトの王族であるダギの存在が話をややこしくしていた。慣例として未亡人が亡夫の兄弟と再婚するということはままある話で、ダギにもその打診があったのである。結局立ち消えにはなったが、皇子も決して強靭な身体とは言えない。仮に早逝の憂き目に遭えば、彼女の息子、武将としても出来がいいと言われているカイシャンとその弟、アユルバルワダが皇位継承の最有力候補たちとなる。皇后にとって断じて容認できない話だろう。


 そして自身はどうも彼女とその意を汲む左丞相、アフタイから疎んじられている節がある。西のカイドゥという難敵がある以上、内部でいがみ合っている場合では無いのだが…ともはや何度覚えたか分からない苦々しい感情を、頭を振ってしまい込む。


『朝貢をせず、さりとて敵対もせずか。向こうに都合のいい話ではある。しかし連中にしてやられ、高麗から軍を引かざるを得なくなったのは事実。そしてそれが高麗の独力とは言わずとも、軸として動くだけのものであったことも考慮せねばなるまい。そんな連中が西や南と手を組んで来冦というのは御免蒙る』


『…お認めになるので?』


 報告者が意外そうな顔をした。ハルハスン含め、宮中は対外強硬派が多数を占めていたからだ。影に日向に対立はあれど、いずれも面子を潰されていい顔をする者はいない。


『認めなければなるまい。いや、今は手打ちとして明確な関係性を定義しないと言うべきか。ダルガチは元より兵をかの半島には置かず、朝貢についても当面は免除かそれに準ずる形となろう。商人どもが商売をしたいと言うなら目を瞑る。連中の兵器は侮れないからな、上手く行けば取り寄せられるかもしれぬ。カイドゥとの戦いでも役に立つだろう』


『皇后陛下や左丞相様にはなんと伝えましょうや?』


『私から話を通しておく。いずれ叩く、それまでは曖昧に誤魔化し、利用出来るなら利用する。南は日和見である以上、主敵はあくまで西でこれを討てば解決するとな。それで納得していただく他あるまい』


『承知しました』


 下がるのを見届け一人になると、大きくため息をついた。叩くとは言ったが、自分が生きているうちに出来るかどうか…これで東に張り付かせていた経験豊富な兵を回せるとはいえ、戦費は目眩がするほど膨らんでいる。それに加えて宮廷の乱費や寺院の建立もある。紙幣たる交鈔の発行で対応はしているが、年々その価値は下がり、あらゆる物の価格が上がっている。皇帝やその周囲が以前と変わらぬ生活を望み、戦争が終わらない以上、増税は避けられないだろう。それが民にどう影響するのか。積み重なる難題を解決する名案は、一向に出てきそうになかった。





-嘉元2年(1304年) 2月中旬 釜山-


 協議のため大都に戻っていた使節は年末に再度来訪し、概ねこちら側の要求を飲ませることは出来た。事実上勝利と言っていいだろう、カイドゥの勢いが“史実”以上になっていることが幸いしたようだ。しかし「朝貢はこちらから求めず」なんて連中も上手いこと考えるもんだ。従属関係を否定するとは言ってないのがミソで、次があれば容赦なく属国にすると仄めかし、自身の面子を守りながらも実は譲るというかなり際どい文章になっていた。使節の実務家連中も読み上げと書の受け渡しの時は能面のような表情をしていたしな、これが権力闘争激しい今の元朝が出来る最大限の返答なのだろう。


 高麗側もこれ以上は望めないと察したようで、それで良しとすることにしたようだ。まあしばらくは侵略を懸念せずとも済むようになるし、内政に注力出来るだろう。実際、元はカイドゥを討伐しても内紛が激しくなり、周囲に構っていられなくなる。そして黄河の氾濫による流民の発生とその治水に酷使した民草の不満、増税、悪性のインフレなども加わって紅巾の乱が発生し、中原の主の座を明に取って代わられる。おおよそ半世紀ちょっと後のことだ。それを思えばこのタイミングでの明言無き講和は、日本にとっても高麗にとっても千載一遇の機会だったと言えるだろう。忠烈帝はもはや中興の祖だな。一段落着いたということで、そろそろ引退して息子に皇位を継がせる意向を示したらしい。おそらく来年の始めになるとのことだ。


 日本からも使節を送ることになるだろうが、それを見ることは難しいだろう。細胞単位での健康管理が出来るとはいえ、流石にガタが無視できなくなってきた。“オモイカネ”曰く、どれだけ引き伸ばせても年内が限度らしい。痛覚や苦しみは緩和してもらえているしもう幾度となく通った道ではあるが、食が細く、起き上がれない日も出てきたのを鑑みればさもありなんといったところか。このところ目も霞んでろくに物も見えないしな。“史実”を考えれば今生も随分と生きたが、そろそろ仕舞ということらしい。元との交渉を終えてからこの日人館で過ごしていたが、雪が溶けてもう少し暖かくなったら日本に帰ることになりそうだ。まあ家のことは息子や孫にとっくに任せているし、懐かしい顔は大体が墓の中ではある。


 次世代の粒種も、風の便りで揃いつつあるとは聞いた。足利氏、高氏、上杉氏、六角氏などなど…この世界では出てくるか怪しいと思っていたが才気ある者は埋もれないらしい、近衛軍の中核として、あるいは開発中の関東と都の取次役として、各々がその得意とする分野にて頭角を現しつつあるようだ。楽しみなことだな。


『御隠居様、開京の帝から文が届きました。入ってもよろしいでしょうか?』


 構わん、と声をかけると襖を開けて京極貞宗が入ってきた。佐々木氏に端を発する京極氏の当主だが、兄2人は廃嫡と夭折となっている。そこから相続したためまだ数え18と歳が若い。北条貞時が側に置いて鍛えてほしいと送ってきたのを見ると、それなりに出来るらしい。しかし歳の割に小さく色白の体と高めの声を考えると、文官としてやっていったほうがいいという配慮かな。今はまだ元服前だが、従兄弟甥には婆娑羅大名で有名な佐々木道誉もいる。京極氏もこれから花開く一族だ、大切にしないと。


『こちらでございます』


 受け取って中を検める。体の気遣いに始まったその文は、近況報告を経て末尾に向かい、そこでかなり思いきったことが書いてあった。


「日本と高麗とで、軍について同盟を結ぶことは出来ないだろうか?その仲介を手助けしてはもらえないだろうか?」


 …受けるべきなのだろう、これは。明言はしていないが、かなり長い時間をかけて協議した痕跡がある。多くの人間に相談して、検討に検討を重ねた結果なのだと想像がついた。内容は微妙に違うだろうが、今高麗に滞在している要職の人間にはこれが届いていることだろう。知らず知らずのうちに相当な変化を起こしてしまったようだ。だが、悪い話ではない。朝堂院に集まって小難しい顔をする小僧ども関白、三公が目に浮かぶ。あの連中にも刺激はいるだろう…どうやら最後の奉公が決まったようだ。




































「帰朝した時頼は、主筋である源希貞を通じて高麗との軍事同盟を奏上した。高麗に出向中だった治部省や兵部省の現役官僚からも同様の報告が届いたこと、防衛上大きな効果を持つことから、多少の悶着はありつつも認められることとなったわけだ。現代まで続く日高同盟の基礎であり、成文化されての時期で言えばウィンザー条約よりも80年以上早くに形成されているな。面白いのが同盟締結の主体でな、両国の極官が相互防衛の約定を交わし、両国の皇室がそれを保証するという形をとっている。これは冊封体制からの脱却を図りはしたが、華夷秩序が完全に抜けたわけではなく、あくまで臣籍における協定であるとして地位の取り決めを有耶無耶にしたためだと考えられているな。現代の国際法のようには中々いかないし、むしろこの時代にしては非常に先進的なものであると評価するべきだろう」


それに法を文章として起草し、それを基に国家の方針を決めるという点では大陸法系的な萌芽が既に見られるが、後の歴史を加味すれば判例的な使われ方もしていることから海洋法系的な部分もあり、法の支配に通ずるものがあるとかなんとか知り合いの法史学者が言ってたな。要は今の我が国の法律のあり方にも影響があるらしい。専門外だからあんまり変なことは言えんが」


結果的に時頼最後の仕事は、現代まで続く業績となったわけだ。そして奏上から1ヶ月も経たないうちに彼はその生涯に幕を閉じる。享年77才の大往生だった。死後すぐに贈位贈官として従三位、左近衛中将という破格の待遇を受けているのは、その文武共にある功績を鑑みてのことだろう。祖父である北条泰時に並ぶこの叙勲により、北条宗家は彼の代で、その家格を羽林家に次いで高いものまで引き上げているわけだ。武家上がりの半家の中では極めて高い地位にあると言っていいだろう。事実これ以後の北条宗家はその性質を次第に文官のそれに変え、子爵家として今にその血を伝えている」


…ふむ、こんなところかね。それなりに長い時間になっちまったが、俺が出張って話せる時代はこれで終わりだな。役に立てれば教職冥利だが」


「僕としても知見を広げられて楽しかったです。この歳になるといくら研究職といっても歴史を通しで掘り下げる機会は減ってしまいますから…」


「清岡君にそう言ってもらえると嬉しいねえ。如何せん大学の講義や研究はその性質上対象を絞ってのものになりがちだが、通史として理解することも重要ではある。とりわけ史学はどうしても過去を向きがちだが、知の裾野を広げて現代社会に役立てることもその大切な役目だからな」


「仰る通りですね、特に現代は国際関係が非常に複雑に絡んでいますもの。それを解きほぐし、維持発展させるためには歴史的、文化的背景への理解が必要不可欠ですから」


「そういやサキ君のご両親は世界を股にかけて仕事していたな、自ずとそういうことに触れる機会も多いか。何ヶ国語いけるんだっけか?」


「日常会話程度だと日寧英仏露あたりですね。流石に専門解説となるとロシア語は抜けちゃいますけど」


「はっはー、英語で手一杯の俺にとっちゃ羨ましい限りだ。最近でこそ電子機器の翻訳精度はそれなりになってきたが、当たれる資料の差がどうしても出ちまうからなあ、君も余裕と興味があれば多めにやっといた方がいいぜ…まあ次は新政時代の末から南洋時代にかけてだろうから、今はあんまり関係はないか。じーさんには連絡取っておくよ」


んで、時頼の先は……うむ、やはり彼について話さざるを得ないか。源家の枝葉として同族を取りまとめ、軍制改革と外洋進出に先鞭を着けた男だな」


「足利尊氏。その業績から武闘派としての印象が強いが、近年の研究では案外学者肌だったんじゃないかと言われているな。」

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