第三十八話 揺らぎ廻りて

******前書き******

何年ぶりだバカヤロー!!!!

いや本当にお待たせいたしました…申し開きのしようもございません。歴史改変モノは影響がデカくなるにつれて資料集めや矛盾のチェックが大変になることは分かっていたのに…少しづつではありますが、またぼちぼち書き進めていけたらと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

***************

第七編 北条時頼

第九話


「高麗戦役、その始まりは高麗半島南部に着上陸した近衛軍艦隊の大規模な輸送揚陸作戦に始まる。弘安の役から二年後には戦力の再編を終了させ、旗印として高麗朝廷を前面に押し出し北上を開始したんだ」


さらに後高麗政権に対する不満分子を焚き付け、同時多発的な一斉蜂起を実行。日本が二度の侵攻を跳ね除けたという情報が間諜によって広く知れ渡っていたこともあり、支配者階級の動揺は激しいものとなっていた。その結果情報網の一時的な麻痺が発生したと考えられる。後高麗側がどの方面に対しても有効な軍事行動を取れず、鎮圧も出来ていなかったことが傍証として挙げられるだろう。ただでさえ先の戦争で軍事力を消耗させられていた彼らに為せることはさほど無かったわけだ」


長年の浸透工作も勿論功を奏していたが、人心を掌握出来た要因として大きいのは軍による略奪の頻度が極端に少なかったことだろう。この時代においては、という但し書きがついているがな。日本では既に貨幣経済の普及が進んでおり、海上優勢の絶対的確保も成し遂げられていたことで補給線は磐石な状態を維持出来ていたのが理由だ。さらに近衛軍は兵農分離が完成していたから、大規模攻勢の開始を田植えの時期に意図的に被せることで後高麗が思うように動けない中で余裕を持っての領域確保に成功している。軍事力で、ましてや国力でも政治力でも上回っている相手に対して優位に振る舞うことは非常に難しい。宗主国である元に対して働きかけようにも、その元がそもそも派兵するだけの力を完全には回復させていないのだから、後高麗単独で有効な手立てを打つのは困難を極めていたと言っていい」


それに対して、比較的反後高麗勢力が活発であった日本海に面する地域…今の釜山や光州、慶尚南道辺りだな…は済州島勢力を中継とし、我が国に亡命していた高麗朝廷と連携を密なものとしていた。後高麗への抵抗勢力レジスタンスである彼らに誘導される形で政権基盤を確固たるものとしたことで、忠烈帝の号令の元、「真なる高麗」の復活が掲げられた。大高麗帝国の礎となる、釜山臨時政府の誕生だ」


「時頼は還暦どころか古希に手が届きそうな年齢となっていたが、それでもなおこれら一連の流れに対して積極的に介入を試みた。軍の統率と政治的判断、その両方において迅速な処理が可能な者は得がたい存在であった、というのが大きいだろう。それに何より、彼自身のみならず、彼の家系もまた高麗とも密接に関係している。かつて高麗朝廷が逃げ落ちる以前の元との戦いに惜しみない援助を行った義時は直系の先祖だし、彼が直属の上司としていた源宗家を辿れば何をかいわんや、高麗屈指の精鋭部隊たる光烈衆の育て親、源頼義に行きあたる。箔の面でも彼ほど適任な人材はそうそういなかったと言えるだろうな。」



































-弘安7年(1284年) 10月中旬 釜山-


 ここ釜山は本来、この時代では単なる片田舎に過ぎない場所であった。


 名前も「富山浦」と漢字が異なるもので、漁村としての機能しか持ち合わせていない。李氏朝鮮時代になり、対日貿易の拠点かつ対日防衛の要としてみなされるようになってから、ようやく日の目を見たのである。


 しかし、この歴史では既に立派な商館が立ち並び、活気に満ち溢れた地方都市へと変貌していた。当然だろう、発展の根源たる対日外交が本格的なものとなって既に数世紀が経過しているのだから。四周目源頼義で軍事教練を行った際、帰路に着くために船出の場として選んだのだが、軍港兼貿易港として成長したのはそれも一因らしい。かつては日本人居留地である日人館も整備されていた、一大交流拠点であったのだ。


 元の侵攻によりそれらの多くは灰燼に帰したが、それが彼らの統治政策を大いに阻害することになったのは因果応報だろう。こちらとの貿易によって富を得ていた人間の多いこの地は、それ故に反後高麗・反元感情が強くなっていた。元寇の際に東路軍の出発点とすることを断念しているほどなのだ、相当手を焼いていたと言える。そしてそれは逆に、我々にとって橋頭堡とするに適した地であるといえよう。山に囲まれた地であることも、海上優勢を取れていることを考えればむしろメリットとなる。天然の要塞に囲まれたこの地は、高麗における鎌倉というのが割と近い表現になるだろうか。


 弘安の役で戦力の温存に成功したこと、そしてそれによって短期間で外征可能な戦力を整えることが出来た意義は大きい。戦訓を反映した練度の高い将兵を投入し、元と後高麗の意表を突けるからだ。実際、先行させた間者によって地元住民の協力を取り付けた上で強襲をかけたわけだが、治安維持を目的に駐留していた僅かばかりの兵では何も対抗出来なかったのである。


 掃討作戦が完了して安全が確認された後、高麗朝廷に仕える者や追加の兵を乗せた輸送船団が編成されたが、忠烈帝はここで暴挙とも言える行動に出た。富山浦に向かう一番最初のそれに座乗することを決意したのだ。座所の建設は未だ始まっておらず、臣下も反対していたが、それを押し切って通したようである。第一便で帝が向かう意義という打算もあっただろうが、それよりも一刻も早く祖国の土を踏みたいという気持ちが強かったのだろう。彼はそういう人間だということは幾度の対面の末、理解していた。臣下達もまた、気持ちは同じなのだろう。押し切られてなお反対を唱えることは誰も出来なかったと風の噂で聞いている。そして無事に到着した彼は暫定的な都と定め、富山浦の名を「釜山浦」と変えて新たな出発点としたのである。釜山、即ち釜のごとき山。本来の歴史でもいつしかそこから見える景色を端的に示したその名称で呼ばれるようになったわけだが、時期が早まったのは因果か、それとも皮肉だろうか。


 それにしても、この半島にここまでガッツリと手を出すことになるとは…“史実”だけを見るなら負けフラグにしか思えないだろう。実際、元の軍事力弱体化が著しいもので無ければ仮にそういった計画が出てきても私が乗ることは無かったはずだ。


 だが状況の変動は想定を上回った。日本における公武間の軋轢を緩和する材料にもなりえた。さらに当面大陸からのちょっかいを受けずに済むだけでなく、そこからの防波堤足りうる国家の構築にも噛める公算があったことは大きい。20年近く高麗朝廷の人間たちと接してきたこともあり、その政治的手腕や軍事力はある程度把握出来ている。後高麗にて間諜として潜む者からの情報によって得られた彼我の戦力差を鑑み、支援体制を磐石に整えることが出来れば、勝算は十分にある…そう結論づけた。大蔵省を筆頭とした文官達の不満を宥めるために出した書簡はあくまで仄めかしに過ぎなかったが、それが現実になったのだ。


 まぁ…今回の遠征は民需を刺激するといえども、軍事力の中枢としての参加に加えて輸送船団まで出しているわけだから、国としての総収支では思ったより利益が上がらないことに気がつくだろう。もしかしたら赤字を垂れ流すことになるかもしれん。だがあくまでその場しのぎの策にしかならないと言えども、当面外敵の心配をしなくても良いのみならず、友好的な交易国が増えるのであれば、国益的には十分なお釣りと言える。軍事や外交にも理解のある人間なら理解してくれると思いたいが…しかし場合によっては、次の転生先で私が矢面に立って近衛軍の軍縮を進める必要があるやもしれん。朝廷は権力闘争で荒れるだろうな。私としても数世紀に渡って一から手塩にかけて育てた組織だ、心苦しさはある…だが戦争という名の夏は終わりが見え始めているのだ。暑い夏が過ぎれば、景気も季節を反映するかのように加速度的に冷え込んでいく。ただでさえその兆しは無視できないレベルに達しているというのに、彼らの全てを庇いきることは非常に難しいだろう。


 …頭を振り、先のことを考えるのを無理矢理中断する。来世を今から考えても詮無きことだ、まずは残された今世でどれだけのことが出来るかの策を練らねばならん。まずは高麗の失地回復。最低でも開城までは確保する必要があるだろう。欲を言うなら平壌以北の山岳地帯か。それから元には当面内ゲバをしていてもらう必要があるから、大陸本土への情報戦を強化する必要があるな。後は政治面での決着か…元と不可侵条約まがいのものを結べたらという思いが頭をよぎったこともあったが、非現実的な提案だな。この状況で交戦者との対話が出来ると思ったら流石に頭お花畑が過ぎる。だがまぁ…高麗政権と安全保障条約もどきを締結することは可能ではないか? 独立を回復したというパフォーマンスにはなるし、文書という形で証拠を作れば国家主権へ向けた足がかりになるかもしれん。草案は考えておくか…


 成すべきことは無限に積もっていく。その重みによって何かを忘れようとするかのように、自ら望んで積み上げていく。それを私が自覚するのは、未だ遠い未来の話であった。





-弘安10年(1287年) 5月上旬 開州(現開城)近郊-


 何もかもが上手くいかない、そんな思いを初めて抱いたのは何時だっただろうか。故里の者共に白眼視された時? 反乱の鎮圧に躍起になり出した時? 後ろ盾フビライの目論見が尽く潰えたのを知った時?


 無限に繰り返し纏まることの無い思考の海に溺れながら、王亶は僅かな手勢と共に馬に鞭を入れて北へと向かっていた。高麗帝の帰還とそれに伴う各都市における一斉蜂起は、想像より容易く彼の支配を崩壊せしめたのである。膝元であったはずの開州でさえその例外ではなかった。屈辱と憤怒の念に焼き焦がされるような思いを抱きながら、彼は一路、大都を目指す。


 自分の手では身に余ると見るやいなや、財も地位もその全てをかなぐり捨ててでも捲土重来を期そうという判断は決して悪いものではなかった…ただ一つ、行動を起こした時点で既に手遅れだったという点を除いて。


 銃声が複数走る。馬が嘶き、隊列が乱れる。脚を撃たれたらしき乗馬がつんのめり、王亶は落馬した。体の節々に痛みを、そして口中に血の味を感じながら、咄嗟に辺りを見回す。


『何者だ!』


 答えの代わりに刀が突きつけられた。


『ほう、夷狄共に加えてその専横に加担した裏切り者まで見つけられるとは運がいい』


 頭を鷲掴みにされ、鈍い音と共に激しい衝撃が彼を襲う。膝蹴りを食らったのか、と遠くなった意識で考えた。手放してはならんと歯を食いしばるも、二撃目によって地面に叩きつけられて完全に伸されることとなった。


『たかが二発で気絶とは詰まらんな。貴様らのような奸臣の類によって我らの村が受けた被害や屈辱に比べれば、こんなものなど…』


 高麗帝を支持して蜂起した一団レジスタンスである彼らの憎悪は、暴力という形で吐き出され、付き従っていたモンゴル人共々王亶に襲いかかった。運の尽きた彼が唯一幸運だったのは、何もかも全てを捨てて逃避行に移っていたことに加え、変装によってモンゴル人の下人と思われた故に、暴行を加えた者たちに最期まで自らの正体が知られなかったことであろう。


 一代限りの後高麗王、その生の顛末は行方不明という形でのみ後世に伝わることとなる。





-弘安10年(1287年) 10月上旬 開州(現開城)-


『………幾星霜にも渡る苦難の道を乗り越え、ここに高麗帝国の再建を宣言する。今までの日本による惜しみない協力に感謝を述べると共に、今後一層の共栄を望む。一方の敵は相互の敵、我らを脅かす者に対しては万難を排し立ち向かうことを誓する……』


 忠烈帝による演説は、父祖に対する故地奪還の報告と、臣下への詔勅という形で行われた。その中で、日本に対する高麗の立場も語られている。条約という概念を持ち込むのは難しいとはいえ、最高権威者の宣言に両国関係についての記述を盛り込めたのは僥倖と言えよう。なにせ現代まで続く世界最古の軍事同盟たるウィンザー条約の締結でさえ、ほぼ一世紀も後の話なのだ。現時点の、それも東アジアにおいてあそこまで強固なものを作れるとは流石に思っていない。その叩き台になることを願ってはいるが…


 ヨーロッパの手段であった権威者、権力者の婚姻関係による保証を結ぶというのも難しい話である。あくまで望むのは良き隣人なのだ、血族になることを互いに希望はしない。帝の一族に連なる者同士の場合であれば尚更である。であるならば、トップによる友好と信頼の明言という形を取るのが現状の適解と言えそうだった。


 当面は元の復讐戦の警戒にのみ注力すれば良いはずだから、相互防衛の約定は高麗側への援助の側面が強く見られることだろう。だがこの関係が上手く持続発展してくれるのであれば…願わくば力量的な面でも相互に信頼し得る同盟の構築に繋がってほしいものだ。“史実”を鑑みれば不可能と断ぜられる、または構想だけでも一笑に付されるような両国関係に頼らなければならないのは皮肉ではある。しかし今後何が起きるか全く読めない現実がある以上、味方を増やす努力を怠る訳にはいかない。長き時と多大な犠牲を払って掴み取った国内の安定なのだ、しくじる訳にはいかない...



































「ダンジョーさんが説明してくれた通り、時頼の活動は日高安保の基礎として、日本史と東アジア史に明確に刻まれているわ。Echter,だけれども既に間接的な影響も含めて考えればヨーロッパにまで広がっていたと言えるの」


そう、先に少し話をしていたマルコ・ポーロの東方見聞録。それから、イスラム商人の情報網を通じた噂話という形で伝わっていたようなの。元に…いわゆるタタールの軛に囚われることを二度も免れたどころか、さえしてしまっているものね。眉唾物であっても、興味を抱く人が現れるのは不自然な話ではないわ。プレスター・ジョン伝説というのをご存知かしら? ざっくりと説明すると、欧州の遥か東方には強大なキリスト教国が存在するというものなのだけれど、これは12世紀以来ヨーロッパで断続的に信じられてきていたの。モンゴル帝国や元がそうだと勘違いされた時期もあったわ。アジアに使節を派遣して十字軍における聖地奪還の協力を要請したり、布教活動を行ったりした一因ね。有名どころならカルピニ、ルブルック、オドリコ...東アジアに達した修道士や伝道師らは、大航海時代以前でも何人もいるのよ」


けれども、東西ユーラシア大陸をより密接に結びつける一因をもたらした人物としては、商人でもあるペトルス・ルカロンゴの名前を挙げない訳には行かないわね。彼は、北平近辺で司教として布教活動に励んでいたモンテコルビノの報告書を、ローマ教皇に届ける役割を担っていたの。彼によって報告が届けられ始めた当時のローマ教皇はボニファティウス8世からクレメンス5世にかけて、つまりアナーニ事件によってアヴィニョン捕囚の時代に突入する前後の時代ね。強勢を誇ると考えられた国と交流を持つことについては、ボニファティウス8世の頃には自身を押さえつけるフランスへの対抗材料とする思惑が、クレメンス5世の頃には教皇との権力闘争を制したフランス国王フィリップ4世による自国の影響力拡充の手段とする思惑があったと考えられるわ」


「この時の情報がアヴィニョン経由でポルトガルやスペインに伝わったと推測されているのよ。大航海時代を牽引する文化的きっかけは、東方見聞録によって比較的下層の階級にまでその知識が普及したこともあるけれど、最上流階級が以前から有していたそれと合致したことが大きいわね。ルカロンゴ本人の生きた時代には直接の交流こそ無かったし、後の百年戦争や大シスマの影響で一時は忘れ去られていたけれども、交流の萌芽は確かに大航海時代以前から育まれていたのよ。」



































-1308年 3月上旬 フォンテーヌブロー宮殿-


 宮殿の主は静かにその報告に目を通していた。


 クレメンス5世から寄越された、遥か東方についての情報。曰く、ヨーロッパ全土を脅かし、恐怖に陥れたモンゴル帝国の末裔を二度にわたり退けた強国がいるという。


 出来ることならまずは使節を送りたいが、とフランス王フィリップ4世はしばし思考を巡らせた。敬虔なキリスト教徒である彼にとって、十字軍の援軍たりうる国家の発見はそれだけで喜ばしい話である。一方で為政者としての思考も、別の方向性から賛同を示していた。仮に同志の国であれば…そうでなかったとしても改宗に成功すれば…周辺国を圧倒するような政治的優位を確立することが出来る。形式的なものでもいい、交流を行ったという事実があるだけでも大きな収穫になるだろう。


『だが今ではないな』


 寡黙で知られる王はそう呟いて微かにため息をつく。テンプル騎士団の解体に伴う国内政情の不安定化をどうするかが彼の目下の悩みであった。それが解消されるまでは当分お預けだろう、せめてジャック・ド・モレーテンプル騎士団団長の求心力を削がなくては他国のつけ入る隙を与えるばかりである。


 熟慮の後、彼は返書をしたため始めた。この件は長期的視野に基づき判断するべき事案であること。他国に漏れ出ることの無いように最大限秘匿するべきであること。そして…





-1308年 3月中旬 アヴィニョン-


『ジパングは、稀に見る強国であり、その交流は必ず何かしらの利益をもたらすものと判断する。可能であればさらなる情報を望む』


 返書を確認した教皇クレメンス5世は、当然のことであるだろう、と心中で首肯した。モンゴル帝国の恐怖はローマ教皇であっても…あるいは実際に対峙した歴史があるからこそ…強く刻み込まれているものだ。全盛期ではないとしても、その攻勢を単独で二回も凌いだというのは驚嘆に値する情報である。彼としては、未だ脆弱な自身の権威付けに利用する意味でも、今すぐにでも使節の派遣に取り掛かりたかった。


『ですが、今ではないのでしょう』


 ただでさえ遥か東方に使節を送るというのは危険極まりないものであり、何度も船を出す必要性もある。準備を整えるのには時間も金もかかるのだ。それに今もなお元にて布教活動に励む修道士たちのことを考えれば、パトロンの傷を抉るようなことはしたくなかった。だからこそ王も情報しか求めないのだろう。テンプル騎士団のこともあるが、連絡員を派遣し、交流を図る旨を通達して現地の返事を手に入れるという行為の労力に加えて外交関係をおかしくする可能性を勘案すれば妥当な判断だった。それに事実上アナーニ事件の共犯者アヴィニョン捕囚後継としての地位に甘んじている以上、潜在的・顕在的な政敵はまだまだ多い。成功のリターンは大きいと言えど、足元を掬われるリスクの多い決定は避けたいというのも本音ではある。幾分残念な気持ちを抱きつつ、この件については地道に小規模な調査を進めていくのが良いと結論を下す。自身の後継に事業を引き継ぐ必要性もあるだろう。場合によっては文書化も検討するべきだ、と彼は次第に思考の海に溺れていく。その脳裏には、未だ見ぬ東方の強国の姿が揺らめいていた。


 度重なる歯車の食い違いはついに、この時代における西洋の雄国、その最高権力者らの注目を引きつけるに至った。技術、思想、政治、経済…人類社会を構成する要素が急速に発展する片鱗を見せる中、さらに一世紀の時を超え、世界の歴史を大きく動かすこととなるが…今はまだ、誰も知る由もない。



































「まあ、掻い摘んで話すならこの程度かしら? と言っても一次資料が極端に少ない話題ではあるから、これ以上のことは専攻でも聞くことは難しいと思うけれどもね」


、というのもあるのかい?」


「無くはないでしょうけど、どちらかと言えばフィリップ4世の性格に要因があるわね。彼は寡黙で文書の類もほとんど残してないから、伝聞や側近の記録からその真意を探るしかないのよ。今そういう話が伝わっていて、二次資料が僅かに残存しているから、彼が注目していたというのは確からしいと分かるだけよ。具体的にどれだけ熱意を持って取り組もうとしたのかというようなことに至っては、ほぼ門外漢の私はおろか専門家でも解析は出来ていないはずね」


「資料の散逸は史学者にとって常についてまわる問題ではあるが、特に古い時代の海外のものともなるとな」


「アメリカは西洋文化の浸透という点で見れば比較的歴史が浅いのでともかくとしても、フランスや東欧諸国、オーストリアなどはやはり集めにくいのが事実でしょうね。中原の調査も苦労するとよく聞きます」


「あそこは欧州とは別の方向で大変だからな。現実に命かけて資料集めする人間だって多いだろう…下手な場所に踏み入れば誤爆や誤射に巻き込まれる危険を冒してまでフィールドワークするのは恐怖でしかないぜ」


「福建ですら境目はかなり治安が悪いですからね」


「まあな、実際行った身からすると…ああ、話が逸れる、戻さないとな」


「とりあえず残りで俺から話せるのは元との停戦合意に絡めた時頼の最晩年かね。侵略を退けるのみならず、半島に有力な友好国を立てることに成功した我が国は、元との手打ちの模索と内政重視への転換を開始したわけだが、そんな中における時頼最期の大仕事は外交畑のものだった。過去の例に倣ったのかは定かでは無いが、生涯現場に立って、タフネゴシエーターとして存在し続けたんだ。」

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