第三十七話 Sturm und Drang

******前書き******

本来の投稿予定から遅れてしまい誠に申し訳ございません。次の投稿は夏休みになるのでもう少し早く上げられると思うのですが…(思いたい)

***************

第七編 北条時頼

第八話


-弘安4年(1281年) 7月中旬 壱岐島-


 軍議による方針の確定から十幾日が経過した。その間、何度とない散発的な日本の攻撃を受け続けた東路軍は病に蝕まれるように損害を出し続けていた。

 だがそれも今日で終わりだ、とクドゥンは久しぶりに一息つくことが出来た。ようやく江南軍の動向を掴むことに成功したのだ。平戸島方面に陣取るという、当初の計画から外れた動きをされていたことに多少思うところはあるが合流さえしてしまえばこちらのものである。今までの規模程度の攻撃であれば余裕を持って対応することが出来るであろうし、決戦となればこちらとしても望むところだ。それに今までの威力偵察を通じて敵の戦力を把握しつつあることも大きい。少なくともこちらの総数より多いということは無い上に、防塁を利用した持久戦を挑むつもりであるようだ。例の火薬兵器と組み合わされば厄介ではあるが、数押しすれば喰い破ることは不可能ではないだろう。そして陣地を築くことさえ出来れば…こちらの勝利に大きく近づく。雪辱の時は近い。

 全ての準備が完了したことを確認して陣を引き払い、船へと座乗する。足止めを食らい、将兵を消耗させた忌まわしき島を振り返ることはない。今度こそ成功させるという決意を胸に、新たなる地を目指し前へと進むのみだ。青い空が眩しく見えた。





-弘安4年(1281年) 7月下旬 鷹島-


 范文虎は憂鬱な面持ちであった。

 東路軍と合流出来たのはいい。未知の土地においてきちんと連絡が出来ているのは誠に喜ばしい。落ち合う場所を一方的に変更したことで元々の地点に先んじて着いていた上、日本の攻撃を受けていた彼らに嫌味を言われるのも仕方の無いことだ。明らかに我々の落ち度による損害であるし、それについてなら自分がいくらでも頭を下げる。それで済むなら容易い事だからだ。だが兵卒はともかくとして江南軍こちらの諸将、とりわけ先の戦に参加していない蒙古の将の傲慢さと無神経さは、統率者としての意識と責任感の強い彼であっても辟易とさせられるものであった。戦線が動いていないのを東路軍の怠慢だと断じる輩もいるせいで、嫌な空気が指揮官たちの間に漂っているのである。今はまだ「嫌な空気」で済んでいるが…悪化すれば戦い以前の問題になりかねない。

 やはり疾く疾く準備を整えて攻撃を不満の捌け口とする他あるまい、と彼は決断を下した。東路軍と共にこちらの兵船を集中運用し、軍船は広域展開して海からの奇襲に備える。浜に取り付ければそれで何とかなるだろう。


『動くべき時は近いですかな』


 後ろから声をかけてきたクドゥンに尋ねられた范文虎は、振り向いて首肯する。


『この潮の満ち干きが収まり次第出ることになるはずだ。ただ…これがどうも長続きするかもしれないということを考えると』


『先んじて攻撃を受けるかもしれない、ということですな』


 それは十分ありうる…というよりも、この島が元々日本側の領域であったことを考えればむしろそうなることを前提に動くべきである、とクドゥンと連れ立って来ていた洪茶丘が答えた。


『あの連中であればその程度のことは十分に念頭に置いていることでしょう…いっそのこと不要になった、あるいは使い物にならなくなった船を使って砦を築きましょうか。そちらのお歴々にお任せすることになりますが、その分大宰府攻略の戦働きは我々が請け負います』


 この戦いに慢心している将など邪魔でしかない…言葉の意味を正しく理解した范文虎は苦笑を浮かべながら意見を受けいれた。


『かたじけない、私もそれが一番良い案だと思う。連中と一戦交えている貴殿の方が上手くやれるだろう…責任は取る、思う存分やってくれ』


『感謝致します、次こそは必ずや』





-弘安4年(1281年) 7月27日昼前 鷹島沖-


 撃って撃って撃ちまくる。既に戦闘開始から1時間近くが経過し、辺りには濃密な硝煙の香りが漂い始めていた。火車によるアウトレンジからの準備射撃はそこそこ効果を上げているように見える、あと三十分も撃てばある程度向こうの武器や消耗品を削って抵抗力を減衰させることが出来るだろうか。

 鷹島周辺に江南・東路両軍がたどり着いていることは予想の範囲内…というか“史実”からしてそうだろうと思っていたが、既に上陸まで済ませて廃棄船を使った砦の建造に着手していたのは驚かされた。本来ならその動きはこの戦闘をきっかけとするはずなのに…停泊船を攻撃するつもりで予定していた火攻めをそのまま流用出来たのは不幸中の幸いだった。その分、交戦直前になってから小船で駆けずり回った伝令が死ぬほど苦労していたがね…現状の手旗信号が単調で特定の指令にしか対応していないのが原因か。政治との折衝でそこまできちんと見れていなかったことが響いている、半島に進出した際に発生が予測される野戦でも無駄にはならないだろうしここは要改善点と言えそうだ。軍団としての動きをある程度臨機応変に対応しながら統率することは今現在の手法でも可能だが、さらにミクロな部隊における戦術を蔑ろにすることも出来ん。課題は幾らでもあるな、電話なんて贅沢は言わないから、せめて電信を実用化したいものだ…まだまだ数世紀先の話をしても仕方の無いことだが。

 『おおー』というようなざわめきに我に返ると、陸地から火の手が上がっているのが見えた。うん、相手の備蓄に対する攻撃としては上々だろう。そろそろ上陸作戦に切り替えようか。


『兵船を出して上陸させるぞ、貝吹け!』


 攻城兵器は流石に無い…まぁあっても多分いらないだろう…し、兵力も相手と比べれば少ないから鷹島奪還までは至らない。だがここで一撃離脱戦法ヒットアンドアウェイによって痛打を加えて、数日だけでも拘束出来ればそれでいい。あとは自然の力を借りても、そうでなくとも勝機は十分にある。


おかの者はここで一番槍を、フネの者は先の戦に続いて武功を挙げよ!日ノ本の興廃はこの一戦にありと肝に銘じるのだ!』


 元経の号令と共に十文字旗が掲げられた。いや、士気を上げるために事前にそうすると決められてたけどお前も先祖義経と同じ発想になるのか…というか逸話を引っ張ってきたか? また私の胃壁を削るのかよ…


〔このまま行くと日本海海戦の暁にはこの旗が元ネタになりそうですね?〕


 …頼むから冗談はお前の存在だけにしてくれ。





-弘安4年(1281年) 7月28日 早朝 鷹島-


『連中はこちらの動きを見透かしているとでも言うのか!?』


 またしてもいいようにしてやられたことに諸将、とりわけ砦の建設をしていた江南軍の者たちは苛立ちを隠せなかった。東路軍の者たちも、前回の失敗対馬沖海戦を彷彿とさせる状況に苦虫を噛み潰したような顔をする。


 折角奇襲に備えようと対策を講じ始めたタイミングでの遠距離攻撃と一時的な敵前上陸による近接射撃。砦さえ作れていればもう少しやりようがあったかもしれないが、間が悪いことに未だこれは完成していなかった。故に材木の切り出しや廃船の工作をしている最中という脆弱な瞬間を狙われた形になってしまっていたのである。皮肉な話だった。加えてすわ島から叩き出されるかとの念に駆られて恐怖したものの、さっさと逃げられたことが正面戦闘の指揮を執った者の怒りを余計にかきたてていた。


『これなら船を動かさない方が良かったのでは無いか?』


 ボソリと発せられた嫌味のこもった発言に、元より冷えていた評議の場の空気は氷点下まで下がる。范文虎は心中で下手な発言をした部下を詰りながらフォローにかかった。


『砦の前面に多数の船を停泊させていたら、それこそ火攻めで一網打尽になっていたことだろう。そうなれば一体どうやって大宰府まで行くつもりだったのかね』


 「帰朝撤退する」と言わなかったのは意図的なものであった。まだ戦力に余裕が残っているとはいえ、ここまでいいようにされれば誰であっても敗北の二文字が脳裏を過ぎる。擁護のつもりで追い打ちをかけるようでは話にならない。


『幸いにも被害は船に及んでおらず、武器食糧にも被害が出たとはいえ未だ猶予はある。連中としてはここで散発的に攻撃を仕掛けて我々を消耗させるのが魂胆だろう。その裏をかき、ここは敢えて強気に打って出るべき所だと思うが諸将は如何か?』


 范文虎の問いに反対意見は無かった。敵に舐められていると感じている江南軍の将のみならず、東路軍の戦闘経験が多い者たちとしても今までの動向から後手に回ってばかりでは不味いという意識があったのである。


『船を一度集結し、迅速に博多を目指す。周辺の土地に築かれた塁はそのほぼ全てを無視して一路大宰府の占拠を目指そう。ここで主導権を握り、今後の戦況を優位に進めるのだ』


 かくして元・後高麗連合軍の方針は確定する。それでも奴らは何かとんでもないものを仕込んでいそうだが、とクドゥンや范文虎など一部の将は一抹の不安を覚えたが、流石に根拠の無い妄言をこの情勢で吐くことは憚られた。いずれにせよ、このままではジリ貧であるのは間違いない、乾坤一擲の勝負に出るのが最善の策であった。もはや後戻りなど出来ない。やるしかないのだ。





-弘安4年(1281年) 7月30日 午後 大宰府-


『ふむ、蒙古らの船が動きそうか』


『昨日の昼過ぎに物見に出た者からの報告にございます、確度は高いかと。明日の昼にはこちらへたどり着きそうですな』


 焦っているのだろうか、相手の動きが“史実”より少し前倒しになっているように見える。このタイミングで出港となれば台風による被害は本来のものよりも悪化しそうだ、勝敗をを決定づけるいい機会になるかもしれん。


『…迎え撃ちますか?』


『いや、雲や波を見る限り大風になるかもしれん。日暮れまで判断を待つべきであろう。少なくとも空の焼け方は見ておいた方がいい』


 “オモイカネ”的には台風の直撃は確定事項らしい。だが流石に「脳内に同居してる情報集積思念体がこう言っている」などとは言えないため、観天望気による判断…実際はさらに正確性を高めるために“オモイカネ”の情報を使っているが…で艦隊の出撃を決めている。攻撃パターンを天候によって変えることで、その時その時において有効な攻撃が可能なのは陸であろうと海であろうと共通であり、そのことは既に周知の事実となっている。


『夕方からの出港でも湾外へ出るだけであれば十分間に合いますからな』


『その通りだ、そして周期を鑑みればそろそろ野分が来ても全くおかしくない。予兆もいくつかが既に見えている。下手に外洋へ出て船諸共兵を失いたくはないからな』


 地の利を得ているからこそ、細かなサインを見逃さずに動くことが勝利に繋がる。いくら通り魔的に攻撃を重ねているといっても数の暴力を削ぎ切るには至らない。であるならば、一撃で戦況をひっくり返す、人類が立ち向かうことなど不可能なものを味方につける努力をすることはある種理にかなっていた。


『…いずれにせよ、ここが正念場となる。各々一層の奮励努力に期待する』


『承知。例え湾に入られたとしても、必ず蒙古の攻撃を防ぎきって見せましょうや』


 幕僚の一人、大友頼泰が無精髭を扱きながら不敵に笑う。コイツはもういい歳数え70なのだが、軍の統率に光るものがあり未だに最前線で体を張っている。戦国大名としても有名な大友の三代目にあたるコイツとも、頼の字を与えてから長い付き合いになっているのだが…戦国スーパーじーさん宗滴とか久秀とかじゃあるまいし、いい加減休んだらどうなのだろうか。


貴方数え65がそれを言いますか…〕


 お前のチートが入ってるんだからノーカン。それに直近事例なら宗助国だっていたろ?


〔………〕


 また呆れられている気がするが、こればっかりは仕方が無い。私は元来そこまで体の強い人間じゃなかったからこそ、細胞レベルでのエネルギー効率管理という破茶滅茶な代物の有難みが身に染みて分かるのだ。今までの転生した人物、ほぼ全員が“史実”より寿命が伸びていることからも推して知るべしである。


 最終調整を済ませ、外に出ると既に日は傾いていた。西の空と海はオレンジを超えて不気味なほどの真紅に染まり、一面に広がる巻積雲をも彩っている。波も風もほとんど無い、それどころか五月蝿い虫の鳴き声さえも聞こえなかった。


『ほう、これはこれはにございますな』


 元経が嬉しそうに呟く。もはや台風の接近は疑いようがなかった。


『間違いなく野分だな…伝令、船は距離を取った上でしっかりと錨を下ろせ、火薬は湿気ることの無いように管理を厳重にせよと通達を頼む。と言葉を添えてな』


 短く『御意』と答えるやいなや、弾け飛ぶように控えていた伝令が散っていった。今日の夜、そして明日が運命を決する。必ず勝ってやろうじゃなかいか。





-弘安4年(1281年) 7月30日 夜半 鷹島沖-


『ふざけるな!』


 何度そんな怒号をあげ、その度に雷鳴と豪風、船が揺さぶられて発するミシミシという音にかき消されたことだろうか。出港直前、夕方までは波と風は穏やかであったはずなのに。日が暮れてからは全てが一瞬の出来事だった。辺りが急激に冷え込み、星灯りはおろか月さえも見えなくなったのは。稲妻と暴風が混じり合う、荒れ狂った雨と波の只中に放り込まれたのは。昼間でもこれほどの悪天候に晒されればひとたまりもないというのに、日没後の今となってはもはや船団としての行動など取れるはずも無い。兵は自分の乗った船が沈まないことを各々の信仰対象に祈るか、あるいは荒波に揉まれて幾度となく吐き続け、水夫達は顔を酔いと死への恐怖で真っ青にしながら転覆と船体の分解を防ぐため懸命に船を操っていた。


 もはや僚艦などどこにも見えない。小さいとは決して言い難いはずなのだが、これだけ波風に弄ばれるとまるで自分たちの乗る船が激流に飲まれる一枚の木の葉であるようにさえ錯覚してしまう。范文虎はひっくり返りそうになる胃をさすって懸命に堪えながら、自分の知るあらゆる神と仏に対して祈りと呪詛をぶつけていた。どうしてこんなことになったのか。これでは日本を攻略するということが天命に反するとでも言わんばかりの仕打ちではないか!


 こんなのはあんまりだ、と誰かが叫んでいるのが微かに聞こえた。本当にその通りだった。ここに来るまでも決して安全な航海であったとは言い難いものであったのだ。寧波から大海原を超えて平戸島に至る技術を身につけるなど、一朝一夕で出来るものでは無い。一からの海軍再建によって水兵の練度は全盛期のそれから低下したものになっていることも拍車をかけていた。海路での貿易に従事している者でさえ気を抜けば海の藻屑となり得るのがこの海域であるというのに、彼らより船の扱いに慣れている者など極小数である。精鋭などと気取っていても、それはあくまで本土の周辺における航海が得意であるというだけに過ぎない。実際船団の数は、本土出港当初と平戸島到着時の比較でも既に無視できない水準で減少していた。そしてこの大風である。これに耐えられる者などそうはいないことは、もはや誰が見ても明らかになっているのだ。


 波を超えたかと思えば、気持ちの悪い浮遊感に包まれる。刹那の後、下方向に向かって思い切り叩きつけられて体が激しく揺さぶられる。あちこちで破壊音、悲鳴、泣き声、嘔吐の音が聞こえる。すえた臭いと酸っぱい臭いが混じり合う。暗闇のせいで周りにあるものさえ判別が出来ない。人の身では、荒れ狂う自然の前には全くの無力であった。


 これだけの悪天候では船同士がぶつかる事故も起きうるかもしれない、とそこまで思考を回した瞬間に范文虎は体の中央から嫌な感触が口へと逆流し、脂汗がどっと吹き出すのを自覚する。もう限界はすぐそこまで来ていた。

































「鷹島の戦いと呼ばれる日本側による一時上陸を含んだ攻撃を受けた元軍は、自身も同様に迅速な機動を行うことで博多湾に吶喊することを決意した。日本側の対応より早く動いて数の差による飽和攻撃を仕掛けることで、一気に勝負を決めようとしたんだな」


この発想自体は間違っているとは言えない。むしろ今までいいようにされていたのだから、苦しい時こそ積極的に攻勢をかけることで相手の意表を突き、主導権を握ろうと考えたわけだからな。だから彼らの作戦失敗の原因は、地理感の無い土地における長期滞在にも関わらずその危険性の管理を怠っていたことと、水兵の練度不足または彼らからの天候その他に関する意見具申を適切に汲み上げる制度が欠如していたことの二点に絞られるだろう。江南軍は元から見れば一端の精鋭水上部隊であったが、日本周辺の海域特性を完全には把握出来なかった…あるいは把握していた人間の意見が取り入れられなかったことを考えれば、仮に近衛軍艦隊と交戦していても兵器の質と地形把握の有無によって苦戦は免れなかったかもしれない」


結果として、この『神風』によって元側は壊滅的な被害を受けるに至った。平戸島から壱岐島まで広く散開していたとはいえ、全力攻勢のために主力が鷹島沖に集結していたことが不幸を呼ぶ結果になってしまったわけだ。一部の部隊こそほぼ無傷で済んでいたものの、大半は台風の直撃による風雨と高潮で中大破、酷いものでは視界不良が原因と考えられる衝突事故を起こして沈没しているな」


とりわけ被害が酷かったとされるのは江南軍だ。彼らの座乗していた船は構造的に脆弱性を抱えていた上、技術が先細りした本土での建造だったことが響いていたと考えられる。高麗で作られた船はサボタージュ等々による多少の欠陥はあったかもしれないが、江南軍の船よりは強固であったようだ。これは文献だけでなく、海底調査によっても裏付けが取れている。海底に没した船やそこにあった遺留品の数々はほとんどが江南地方産であることが分かっているからな…とはいえ、作戦を安定して継続出来る程の体力はもはや彼らには残されていなかった」


最終的には議論の末、江南軍司令官である范文虎が全面的に責任を負うという形で撤退を決定した。「元史」では諸将が兵卒十余万を置き去りにして逃亡したとも言われているな。これら一連の動きは台風の過ぎ去った直後から哨戒を再開していた近衛軍艦隊によって捕捉されており、近衛軍が後に鷹島において掃討戦を行うことを決断する一助となっている。そしてこれと伊万里湾に残ったもう一群の元軍残党を排除した御厨海上合戦をもって、弘安の役は終結した。元・後高麗連合軍の損害は総数にも帰還者の割合にも文献によってばらつきがあるから一概には言えないが、十万前後の死者及び行方不明者と二万は下らない捕虜を出したとされている。これだけの数の人間を失ったことそのものも手痛い被害だが、何より海軍戦力の大半を失ったことで渡洋遠征が不可能になったことは、当面日本への侵攻を挫折せざるを得ないことを意味している。元側の経済状況と合わせて考えれば事実上、これで日本の防衛そのものは成ったと言えよう」


さらに戦力を保存することが出来た日本側は、元の介入が一時的に不可能になることを見越して二年後の発令を目標に高麗半島の奪還作戦を計画する。高麗戦役の名で今に知られるこの戦争は元寇とまとめて語られることが多い。だが、厳密には日本にとって久方ぶりの渡洋攻撃とそれによる平原での大規模な射撃戦の発生という軍事的要素、そして国家…主権国家という概念の雛形が初めて明確に東アジア地域の表舞台に出現したという政治的要素の二つの極めて重要な意義を構成に含んでいるため、ここを明確に区別して比較するのが多数説だ」


「それでは、北条時頼にとって生涯最期となった戦争である高麗戦役について話を進めるとしよう。戦略指揮官としてのみならず、軍政家としても大和・高麗両朝廷から評価されていた彼の働き抜きには釜山政権の樹立、そして戦役終結後の日高防衛協定締結は語れない。この時からおよそ一世紀半に渡る日本の安定と内政への注力を実現させた立役者の一人だと言っていいほどに、彼が外交と軍事の分野において示した方向性は後の日本史と東アジア史において大きな影響を与えているんだ。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る