第二十三話 英雄の集結

第六編 北条義時

第三話


「石橋山というのは比較的小さな山だが、内部はそれなりに入り組んでいて洞窟まで存在している」


急斜面になってる所も結構多くてな、そこから矢衾にされると精神的な消耗も大きい。当然兵の損失も大きくなるな、これは山岳戦で現在でも標高が高い方に陣取ると基本的に有利になるのと一緒だ、砲が弓矢になっただけでな」


...はっはー、分かってるじゃないか! その通りだ、義時もその標高差に目をつけた。そして入り組んでいるということは弓兵、迫撃兵の位置が確認出来ても簡単には排除出来ないってことだ。複数の方向から火車、火筒で同時攻撃を行えば麓の敵兵達は混乱する。石橋山周辺は希義の部下たる土肥実平の所領に近い、土地勘があるために今で言うゲリラ戦のようなこともやりやすい。植物の蔓や縄で簡易な罠を作るだけでも兵を押しとどめることは十分に可能だ。そう、そしてこれこそが今のiJIAの前身たる「隠密衆」の最初の働きであった可能性が極めて高い。いくら精兵たる河内源氏とは言ってもそのような特殊戦に通じていたとは思えないからな... 信じ難い話ではあるが、義時は幼少期から諜報組織の編成を行っていた...あるいは誰かから頭として組織を引き継いだとしないと辻褄が合わないからな」


あぁ、少なくとも時政ではない。それは断言出来る。何故ならこの戦闘の時に組織の存在を義時が明かしたのに対して、彼が吃驚したという有名な話があるからな。この時代のことを記したものの中で、恐らく最も有名な文書である『吾妻鏡』にも載っている。『吾妻鏡』は当時の記録としては多分に脚色されているが、時政がそれを知って驚いていたという文献は他にも見られるから、これに関しては信憑性は高いと思う。しかしなぁ、だとすると源頼義の傍に控えていたと言われる草の根がその発祥だと言うのが合理的なんだが... なんでったって本家筋の希義はそれを知らなかったのか、知らされなかったのかという問題がある」


で、ここからはあくまで俺の妄想のようなものだが...ここで思い出して欲しいのは、保元の乱の際に藤原忠実が義朝軍に私兵を紛れさせていたという事実だ。彼らの練度は、文献を参照する限りでは極めて対特殊戦に精通していた可能性が高い」


藤原忠実の死後一年以内に北条義時が生まれていることを踏まえてこれらを見ていくと、んだよな。そりゃ変な陰謀論っぽいものを学者が否定できないわけだ、都合が良すぎるんだよ... 忠実、義時の間だけじゃない。頼義、その前の源高明、さらに前の菅原道真、橘逸勢...彼らの全てが、そのような組織を使っていた節がある。清岡君もそんなことを話したんじゃないかな?」


まぁこれは歴史の謎、迷宮入りの浪漫ということに今はしておくべきか。未来永劫解けない可能性が高いし、偶然が重なった可能性だって否定は出来ないからな。そして悪魔の証明という言葉があるように、それを完全に否定することは極めて困難ともいえる」


「さて、石橋山の戦いに話を戻すぞ。布陣としては山の中に複数箇所に分けて希義軍、麓に大庭軍だ。全軍の準備が整ったのは夕方であったことから戦闘は次の日からだと大庭軍は考えていた。しかし夜間に突如として山中から法螺貝の音が鳴り響き、直後に矢と火車、火筒の射撃が発生したことで彼らの想定よりも早く戦いの火蓋は切られることとなった。」

































-治承4年(1180年) 7月12日 石橋山山中-


 間もなく日が暮れるな。麓の大庭軍に動きはない、つまり合戦は明日からだと考えているということだ。もちろん物見は一晩中立たせておくだろうが、少なくとも自ら夜襲をするという意思は無いようだな。まぁ“史実”では相互に挟撃していたことに加えて暴風雨だったのが、景親に夜襲を決断させたのだろう。人数もこちらは増えているし、地形的には向こうが不利だ。きちんと道がわかる昼に攻撃を開始しようとするのはむしろ当然だと言える。


 しかし、私は何ヶ月も前から諜報組織を先遣して山中を探索させておいた。山の地図を作らせ、火力の配置場所を見極めるためだ。他国ということもあり、決して人的被害が無かったわけじゃない。だが、そのおかげでこの戦いに勝機が生まれた。あいつらにはまた褒賞をやらねばなるまい。


 兵の配置が極めて迅速に終了し、またその周辺にブービートラップが仕掛けてあったのには皆驚いていたな。そりゃそうだよな、忍びを抱えてるのが明らかになったわけだから。父上が変な目で見ていたから、「合戦が始まる前に話します」と答えておいた。天下統一が上手く行けば...彼らは朝廷召抱えの組織として表に出す。日本以外でのヒューミントも行わせる、国家専属の情報機関の誕生だ。ここ一世紀近くは国内専門になっているから、再び外へとその目を向けさせねばならん。まぁ、それはまだまだ先の話になるけれども...


 源氏の南無八幡大菩薩と以仁王の言葉を書いた旗を敢えて頂上にデカデカと何本も立てて、そこに陣を張った。どうせ一番安全なのはてっぺんなことに変わりはない、兵の分散を気取られないように遠慮無く立てまくった方が良いと言っておいた。周囲を守るのは祐親の手勢だ。弓はともかく、彼らでは火車や火筒を扱うには訓練が必要だからな。次の戦では先鋒を任せよう、と義兄上が言っていた。


 そろそろ日が暮れるが、警戒が高まった様子は無い。潜ませた兵には飯を炊かずにほしいを持たせたことで向こうが夜襲の可能性は薄いと思ったかな? 夜戦の際には一晩中動いていなければならない分、兵糧を多く持たせなくてはならないために飯炊きの煙が増えやすいと聞いたことがある。大庭景親は名将だ、決して侮っていい相手ではない。ましてやこちらの方が数的劣勢なのだから罠は何重にでも張って損をすることは無い。さて、皆に組織の者を紹介せねば。





葛原衛ふじわらのえ門泰勢もんやすなりにございまする』


 中肉中背、あまり特徴のない顔の男が名乗った。歳の頃は四十程だな、しかし足音がほとんどしないことからその実力の一端が伺い知れる。


『おう、衛門。よくやってくれた。大儀であったな』


 彼らの姓は葛原と書いてふじわらと読むんだよな、藤原と混同されるようにわざとそう読ませたのだ。元を辿ればその血脈は私が最初にこの歴史に放り出された頃...つまり橘逸勢だった頃一周目にまで遡る。育てるのには苦労したよ、だがその甲斐は大いにあった。葛は葛城王にちなみ、勢は偏諱授与によって彼ら一族の通字となっている。初代は葛原景勢、先代は保元の乱の時の頭の息子で葛原忠勢と言う。京の周辺が本拠地なのだが、私がこちらに再転生したために一族の一部が十年前から移り住んできている。今回の戦には熟練した頭の力が必要だし、紹介しなければならんとも思ったのでわざわざ呼び寄せたのであった。


『彼らのお陰で此度の戦は有利に進められております。衛門とは某が八つの頃に出会い、以降は我が耳、我が目として働いておりまする』


『ようやく納得が言った。お前が昔から情勢に詳しいのはその者がおったからか』


 驚いたがようやく腑に落ちたわ、と父上が溜息混じりに言った。


『今まで秘匿していたことはお詫び申し上げまする。なれど、この事は秘中の秘。京の禿とも張り合っておりますれば...』


『なんと、禿か! ううん、それならば確かに私も秘匿はしたくなるな』


 兄上北条宗時が唸った。禿の名はここにも聞こえている。対抗しているのは事実だし、万が一主君が誰かバレた時のことを考えて隠していたと勝手に解釈してくれるだろう。


『なるほどな。しかし此度は随分と助けてもらったようだな、礼を言うぞ』


 希義あには草の根を一端の陪臣として扱ってくれるようだ。こういう部隊というのはこの時代では総じて偏見を受け、差別されやすい。ありがたいことだ。


『以後も某の片腕として彼らを動かそうと思っておりまする、どうか良しなに』


『うむ、期待しておるぞ』


 衛門が一礼して去った。良かった、とりあえず認められたみたいだ。よし、時間もそろそろだな... 夜襲の準備を始めるか。


『殿、それではそろそろ』


『そうだな、始めるか』


 陣周辺の弓兵に射撃位置に移動するように、と使番に命じた。同士討ちを避けるために弓は最大射程で飛ばすようにあらかじめ言ってある。それでも敵兵は麓をぎっしりと埋めつくしているのだ、当たらないということは無い。そして時刻は夜の2時前後、敵陣が静まり返っているのを見る限り、寝ているとみていいだろう。


 法螺貝が鳴った! 山のあちこちで明かりが灯ったかと思うと、見る見るうちに閃光が走って山の麓まで飛んで行った! 離れているはずの敵陣から喚き声が聞こえる、つまり相当混乱している可能性が高い。火矢が飛ぶ、悲鳴が上がった!


〔初撃の効果を計測しました。敵側の損害は死者30、行動不能な重症が40。軽傷者は200前後です〕


 だからなんでこの暗闇で分かるんだ!?


〔悲鳴や攻撃によって肉が切られた音などの振動を皮膚の刺激として捉えて抽出し、脳内で再処理することで計算しています。お望みとあれば聞こえるようにも出来ますが、どうしますか?〕


 オーケー理解したやらなくていい。


〔了解しました〕


 聞かなければよかった... というかコイツ“オモイカネ”、スパコンどころの騒ぎでは無い処理能力があるんじゃないか...? 超常現象を機械で測ってはならんのだが、知恵の神の名は伊達ではないんだなと改めて思った。


 意識を麓の方に戻すと、敵陣の乱れがさらに加速していた。混乱が酷い、篝火があちこちで倒されているのが遠目にも分かる。


『酷いな』


 後ろから義兄上が声をかけてきた。


『真、酷うございまする』


誰かが死んだか?』


『おかしくはありませぬな... 衛門の手勢に陣の内を見させに行きますか?』


『うむ、損害がどのくらいか知りたい。時間はかかっても良い、なるべく正確に調べさせてくれ』


『御意』


 衛門に偵察を命じた。「半刻の内には判りましょう」なんて言っていたが、夜だから気をつけてね? 隠密の手の者は特に貴重なのだ、変なところで死んでもらうわけにはいかん。


 夜襲というか、夜間射撃開始から30分が経過した。そろそろ迫撃隊の弾が切れる頃かなぁ... そろそろ第二段階に移行かな。義兄上を見る、頷いた。よし、ではやろう。


『貝吹け! 連中の混乱をさらに助長するのだ!』


 ブォー、と法螺貝が鳴る。山道の入口の方角から声が聞こえ始めた。


『源氏が降りてきたぞ!』


『『『源氏が降りてきたぞ!』』』


『味方は壊滅だ!』


『『『味方は壊滅だ!』』』


『勝ち目がない、逃げろ!』


『『『勝ち目がない、逃げろ!』』』


 加藤景廉が槍隊を、佐々木兄弟が騎馬隊を率いて既に山を下っていた。二回目の法螺貝の音で敵方を混乱させるように叫びながら突撃しろと命じたのだ。加えて反対側の山には衛門の部下が忍んでいる。陣の深くを強襲すればより混乱が拡大するだろう。


『勝ったかな?』


 義兄上が呟いた。フラグ...とも思ったが、今回は多分何とかなった気がする。


『まだ分かりませぬが...騎馬隊と槍隊の戦功次第でもありましょう』


 頷いたのを横目に見ながらなおも観察していると、衛門が戻ってきた。


『遅くなり申した、ご報告させていただきます』


『速いな、助かるぞ。して、首尾はどうであった?』


『確認が取れた限りでは、俣野五郎景久殿、そして総大将大庭景親殿が討ち死に致してございまする』


 ざわめきが起きた。総大将が死んでたの? そんな感じだ。だがおかしなことではあるまい、麓は全て射程圏内だし頭上からの奇襲だったのだ。命中率はともかく、混乱の酷さを考えると納得はいく。


『ようやったな、衛門。総大将が死んだのであれば残るは烏合の衆よ。他にも名将はおろうが、この暗闇の中だ、簡単にはまとめられまい』


 褒めると「恐縮でございまする」と畏まった。想像以上の戦果だ、それを確認出来たことに意味がある。情報は活用してこそ真価を発揮するのだから。彼らは良くやってくれた。


『よし、それでは本陣の我らも動くとするか。明るくなれば勝敗も明らかになろう』


『はっ、麓まで行けば東の空は白んで来るかと。相模の制圧、見えてきましたな』


 ここさえ押さえることが出来れば、安房、下総、上総、武蔵は親源氏の者たちばかりだ。坂東の統一は近い、そして例の計画も...役者が揃うまであと少しだ。

































石橋山の戦いは源氏の勝利に終わった。最終的な被害は大庭軍の死者1000に対して希義軍100と伝えられる。地形的要因があったにせよ、大勝と言っていいだろう」


何故ここまで被害が拡大したのかというと、夜間の飛び道具による大規模な奇襲によって大将である大庭景親が序盤に戦死したからだ。統率者が訳の分からないうちに死んでしまい、兵が浮き足立った。そこへ槍隊と騎馬隊が「逃げろ、源氏には敵わん」なんて言いながら突っ込んできたんだからさぁ大変だ。死者の拡大は統率が乱れたことによる兵の無茶苦茶な動きで、潰されたり同士討ちになった者が多く出たことによるところが大きい。義時は見事に戦力差を覆し、相模国の敵主力を潰走させた」


そしてこれによって伊豆から房総半島までの陸路が繋がり、坂東は希義の手中に収まった。わずか300から始まった軍勢は、二ヶ月間で数万まで膨れ上がった」


事ここに至ってもなお平氏が具体的な行動を起こせなかったのは、戦力を他の所に集中せざるを得なかったからだ。挙兵は関東だけじゃない、北陸、九州、更には畿内である紀伊国ですら...とてもでは無いが遠国の大兵力に対して迅速な対応が打てる状態では無かった」


それでも直近の動乱をどうにか鎮圧し、ようやく数万に及ぶ兵力を動員して関東制圧に乗り出した。一説には駆武者を片っ端から集めたおかげでその数7万にも達したという」


だが、希義だけでなく多くの反乱軍に翻弄されていた中央は政治もしっちゃかめっちゃかだったせいで、追討軍の儀式を行うか否か、また出発は吉日を選ぶか否かなど今からすれば割とどうでもいいようなことで揉め、時間を無駄にしていた。そもそも希義の坂東制圧の知らせが京に届いたのが8月の中頃、そこから京近辺の動乱を鎮めるのに2週間、さらに追討軍編成と議論の紛糾で3週間も浪費してしまったんだ」


その間に希義は坂東を完全に掌握、敵対していた常陸南部の有力者にして叔父の源義広、常陸北部の佐竹秀義、下野の藤原足利氏一門たる足利俊綱・忠綱父子などの勢力を破竹の勢いで粉砕していった。佐竹秀義は後に臣従することになるが、その他はたとえ血縁であっても容赦なく叩き潰された。その際に希義が「たとえ一族の者であっても命に従わぬ者、平家に属する者は斬れ」と自身の佩いていた刀を宗時・義時兄弟に渡して、先遣隊の統率を命じたいうのは有名な話だな」


ようやく平氏が京を出発した時には、既にその勢力範囲は北関東に至るまでになっていた。希義ら首脳陣は一連の征伐を終えて伊豆に一旦戻る最中であったが、侵攻の報を受けて急遽兵をまとめ直して打ち破るために出陣した。挙兵から3ヶ月程が経過した9月末のことだ」


平氏軍は数こそ希義軍と互角ではあったが、折からの西国の飢饉による兵糧不足に耐えかねて士気は低く、また徴発によって集められた人間で多くが構成されていたことから練度も低かった。それでも将が適切に統率していればまだマシだったのだが、統率力のある人間がいなかったことで脱走兵が相次ぐ始末。源平の攻防が入れ替わる転換点となった戦の場、富士川に辿り着いた時にはその多くが逃亡して、残っていたのはわずかに4000名という暗澹たる有様となっていた」


これに対して布陣したのは源希義と甲斐源氏である武田信義の二者が率いる計4万の軍勢。実に5倍もの戦力差となっており、平家は奇襲や夜襲によって壊滅的な打撃を受けることに極めて神経質になっていたと推測される。そりゃあ将も兵も統率が効いてない上に自軍の数倍の敵に対面することになったんだからな、不安定な状態だったのはむしろ当然だろう」


その結果、武田信義が側方から夜襲を行い、前方に進出してきた平家を希義が正面から打ち破る予定だった富士川の戦いは、源氏方の不戦勝となった。夜襲の動きに驚いた水鳥の羽音を聞き、すわ敵襲だと大慌てで逃げ帰ったというのは有名な話だな。もっとも、現在では逃亡者が多すぎて歯抜けになっていたからまともに太刀打ち出来ない、夜襲を察知出来たのだから被害が拡大する前に兵を引いた方がいいという意見が出ていたという説もあるがな」


偶然ではあるが、戦をすることなく敵戦力の排除に成功した希義らは、再度関東をまとめて奥州藤原氏という後背の憂いを無くした後に上洛を行うことを決意した。そのまますぐ京へと出発しなかったのは戦力の再編と訓練、さらに兵器の調達や外交調整の時間が欲しかったからだと言われている」


なお、武田軍は以後希義に付き従って壇ノ浦に至るまで戦い、33年戦争終結後は彼ら河内源氏と共に朝廷にて要職に就いている。当主の信義はしばらくは自分が主導権を握ることも考えていたようだが、この際の手腕と戦力比を鑑みて断念したというのが定説だな。そして連帯は緩やかに主従関係に変わり、新政時代にはそれが固定的なものとなったわけだ」


ところで、富士川の戦いが終了した際に義朝の遺児が勢揃いしたということは知っているかい?」


「そうだ、この時に義経が合流したことによって源宗家兄弟が全員集合することとなった。希義は泣いて喜んだと伝えられているな。そして阿野全成は武将として、義円は後方指揮官として、範頼と義経は軍略家として希義を支え、その中核を成していくこととなる。『吾妻鏡』など、33年戦争を題材とした軍記物の山場の一つと言っても過言では無いだろうな。」

































-治承4年(1180年) 10月21日 黄瀬川周辺-


『...だから、将軍に会わせていただければすぐに分かる!』


『何処の馬の骨とも知れん輩に将軍がお会いになる訳が無かろう、帰るが良い!』


『ええい、誰か物分りのいい者はいないのか!』


『なっ、貴様!』


 騒ぎが起きてるな。あれ、そういえば確か今日って“史実”だと義経が追いつく日じゃなかったか?


〔その通りです。多少奥州の訛りがあるのでほぼ間違いないでしょう〕


 ふむ、ここは私の出番かな。咳払いをして近づく。後ろに厳しい顔をした僧兵が立っていたが、目で制する。さては武蔵坊弁慶だな?


『失礼、名前を伺っても?』


『源九郎と言っておる、なのにこやつらが通さぬのだ』


『落ち着きなされ... 某は殿から九男の兄弟がいると言うのは聞いたことがある、その方、ここは一つ某に任せては任せて貰えぬか』


『...承知致しました』


『取り次いでくれるのか!』


『刀を置いて共に、一人で来て下さるのであれば殿の所までご案内仕りましょう』


『ふむ、分かった』


 あら、素直でよろしい。『弁慶、分かったな』と言ってさらに歩み寄る。やっぱ弁慶だったか、と思いつつ、頷いて道順を指で示しながら陣深くへと移動する。


 歩いている間に義経が話しかけてきた。


『いやはや、助かった。ここまで来たのに門前払いされるかと思って大いに焦ってしもうた。ところで、名を聞いてもよろしいか?』


『某の名は江間四郎、北条四郎が次男にござる』


宗時が生きているので、私は傍流江間氏の当主なのだ。多分このままだと江間義時として名を残すことになるだろうな...


『なんと、江間殿であったか! 我が兄の右腕、その智謀は百戦錬磨の強者をも手のひらで転がし、まさに諸葛孔明のようだともっぱらの評判では無いか、こんなところで会えるとは嬉しいものよ』


 誰だそのチートな英雄みたいなやつは!? 少なくとも私ではないぞ、なんて形で噂が伝わってるんだか...


 当代きっての英雄(の卵)、源義経に尊敬の眼差しを浴びせられるとは... 顔が引きつらないように必死になりながらようやく義兄上達の所へと参上した。割と早く着いて助かった...


『殿、殿の弟を名乗る者が陣近くまで来ていたので連れて参りました』


 既に合流を果たしていた源範頼、阿野全成、義円が顔を見合わせる。義円は“史実”だと合流していなかったようなのだが、この歴史では無事に軍勢に辿り着いていた。多分、範頼も本来より早い合流となっている。


『ふむ、歳は幾つだ?』


 全成が聞く。


『21になりまする』


『何処から?』


『陸奥国、前鎮守さきのちんじゅ府将軍ふしょうぐん様の下を離れて今に至りまする』


 前鎮守府将軍とは藤原秀衡のことだ。間違いない、疑うこと無く義経で確定だ。


『...どうやら間違いはなさそうだな。会えて嬉しいぞ、九郎よ。』


 源家兄弟が皆顔を綻ばせ、そして涙を流し始めた。


『皆、よく無事に集まってくれた。我らはこれより関東を再度固めて万全の準備を整えた後に上洛する。亡父の怨敵たる平氏を打ち倒し、日ノ本に平和と安定を齎すのだ』


『『『『御意』』』』


 3年だ、3年で全て用意する。義仲の軍勢はやはり雑多乱雑で、人望もいい噂をあまり聞かない。彼が京の治安回復に失敗する可能性は高い、となればその後から入って人心を掌握することで将来的に様々な面で有利に動けると思う。京の平家は火薬兵器を取り込んでいてもおかしくないから義仲が勝てるかも怪しいが...まずは、雌伏の時だ。

































関東における彼らの本拠地は、一時はその守りやすさから鎌倉になりかけたものの、関東全域を発展させるということを考慮に入れた結果、最終的には関東平野を利用した一大経済都市の建設のために江戸が選ばれることとなった」


そう、現在の首都である東京だ。遷都はまだまだ先だが、経済的な発展が著しくなった南洋時代前期以降は自称として用いられていた例も確認されているな」


彼らはその広大な土地を活かして造船所や今で言う兵器工廠のような物を建造、兵の質の強化を行った。現在ではその名残として市ヶ谷、練馬、十条、三宿等に駐屯地なんかの国防関連施設が建ってるな。ま、これはこの時代からのものでは無い... まだ治水が終わってねーからな」


そのような環境においてついに、世界を揺るがす発明が産声を上げるが...これは33年戦争の終結には直接関係は無いから、その後に話すことにするぞ」


さて、希義らがその刃を磨いている時の他の勢力の動きを見ていくとしよう。美濃源氏、甲斐源氏を束ねた源義仲は以仁王の遺児、北陸宮を奉じて中部地方の掌握と上洛の準備を整えつつあった。反乱...平氏という中央政権から見たら完全に反乱ではあったが、皇族を据えることで正当性を付与し、またその規模は決して馬鹿にはならなかった」


これに乗り遅れると不味いとばかりに希義らの陣営でも動揺があったようだが、実は義時が配下に命じて既に後白河院らと接触をしており、義仲が余り当てにならないこと、自身の陣営は上洛までに時間はかかるが安全保障だけでなく金銭面からも皇室を援助することなどを通達した。幾度か金品などを献上したこともあったようで、院は上洛の際には希義を武家の棟梁と正式に認め、新たな秩序の創造に協力を惜しまないとまで確約した。さらに連絡を直接取ってきた義時に対しても自身の近辺にいる女房を正室として娶らせている。彼女が産んだのが後の北条泰時だな」


このような手回しは京の人間である院やその近臣に好意的な印象を抱かせることに成功し、またそれがある故に義仲への失望が深まることとなる。倶利伽羅峠の戦いなどの戦役を経て上洛を最初に達成した彼は、残念ながらその前から為政者としての働きは期待されていなかった」


オマケに当時は食料は現地調達が主流だ。河内源氏本流たる頼義やその教えを知っている希義はその弊害から兵站の輸送に非常に注意を払っていたのに対して義仲は腹を空かせた数万の兵をそのまま京へと入れてしまった。当然、略奪が発生し治安の維持どころか悪化の一途を辿っていく」


それを開き直って正当化するだけでなく、皇位継承にも口を挟み混乱させるだけの義仲は既に庇護者としての必要性を失っていた。安徳天皇を連れて西へ逃げていた平家に負けたことでそれが決定的となり、ついに院は再編成と装備の更新を完了した希義軍に上洛を要請する」


「後白河院という天皇家の長者による要請は絶大な権威を箔として付ける。これを聞き話が違うと慌てた義仲は院らを幽閉し、決戦を挑んだ。宇治川の戦いと称されるこの一連の戦闘をもって、希義軍は皇軍としての地位を確立し、京以東を統率することに成功した。」










******以下あとがき******

ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。次回は15日に更新の予定です。既存の体制が、音を立てて大きく軋み、歪み、崩れていきます。

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